序章

 〜紅魔館・図書館〜

 古びた本の持つ独特な香りと、洋燈《ランプ》に入れた僅かばかりの香油の匂いに混じって、鼻腔を通り抜けるほのかに甘い薫り。その薫りに、図書館の主、パチュリー・ノーレッジは本に向けていた視線をそちらへ向けた。机の上に山ほど積まれた本の隙間の先に、こちらに向かってくる人影が一つ。

 そこにいたのはティーセットを乗せたトレイを持つ、黒いコウモリの羽を頭と背中に生やした赤髪の少女。パチュリーの視線を受け、少し慌てた様子で口を開く。

「すいません。気を散らせてしまったみたいで」
「……いえ、そろそろ貴女がお茶を持って来る頃だと思っていたから」

 赤髪の、小悪魔の少女とは対照的に、落ち着いた様子のパチュリーは手にしていた本を閉じる。それを見て、彼女は手にしていたティーセットをパチュリーの前に丁寧に並べていく。その仕草はこなれており、正確だ。

 ティーカップに煎れられた紅茶の香りを楽しみつつ、パチュリーはその味を口先で愛でる。紅魔館の庭で取れる葉は、人間の里で手に入るものとは違った趣がある。世話をしているメイド長のように控えめで瀟洒だ。たまに苦みのある葉がまぎれるのが、メイド長と違って玉に瑕だった。

 紅魔館において茶葉の紅茶を飲むのはパチュリーとメイド長の咲夜だけである。この館の主も門番も飲むのは“血”の紅茶だ。それを紅茶と言えないとパチュリーは常日頃思っているが、本人達は紅茶とかたくなに主張している。数日前もその話題でちょっとした口論になったのを思い出した。

「最近、幻想郷も平和ね」
「そうですね。異変もなくて、あそこの巫女も退屈してそうですね」

 傍らに控えている彼女は、お茶を楽しんでいるパチュリーの言葉に無難な返答をする。
「あの巫女は異変の時以外が暇なのよ。スペルカードルールができてから異変が頻発するようになった分、昔と比べると忙しくはなってるはずだけど」
「それでも頻度から考えると、あまり変わってないかもしれませんね」

いつもながらにたわいのない会話。紅茶とは違い、味気のない会話。それがパチュリーと彼女との距離感を映し出している。
 パチュリーはそれで良いと思っているし、彼女もまたそれ以上を望んではいないだろう。

「騒ぎがない分、落ち着いて読書ができるからいいわ。……おいしかった、このお茶」
 紅茶の感想を端的に言うと、ソーサーにカップを戻し、彼女に片付けるよう促す。

紅茶の香りと味は十分楽しんだ。普通なら紅茶にプディングの一つでも添えられてくるだろうが、パチュリーはそれを良しとしない。捨虫の法によって、食べ物を必要としなくなっている体には贅沢な代物と考えているからだ。

(食べる時間が勿体ない、というのもあるけど)
 何よりも読書を優先するパチュリーらしい思考であった。

ティータイムは司書である少女との最低限とるべきコミュニケーションと、読書の間に挟む小休止。旅中に木陰でまどろむような一時の休息だ。あまりゆっくりしすぎると、次の行動が鈍くなってしまう。

「それでは私はこれで」
 ティーセットの片付けが終わり、赤髪の少女は会釈をしてその場から去っていった。

(本当に平和だわ)
 少女の後ろ姿を横目で見つつ、再び本を手にとる。それからビロード織りの椅子に深く腰を据え直す。
 しん、とした静寂が周囲を支配する。

パチュリーは開いた本を口元に寄せ、目をつぶると、天井を仰ぐ。時間を経た布と紙の織りなす、お香にも似た匂いがパチュリーの精神を癒す。
(ああ、良い雰囲気……集中できるわ)
誰にも読書を邪魔されない幸せをパチュリーは一人かみしめる。

「?」
 少女の気配は既に遠くにかすんでいるのに、はっきりとした存在感がパチュリーの意識にひっかかった。その存在との距離は遠いはずなのに、すぐ隣に佇んでいるかのようにひしひしと肌に訴えかけてくる。
 これからまた至福の時間に戻ろうとしたところで邪魔をされ、パチュリーの眉間には皺が寄る。

(人、ではないわ)
 それはイコール、あの白黒の魔法使いではないことを意味する。紅霧異変以降、たびたびこの図書館に現れては貴重な魔導書を貸与という名目で窃盗を繰り返す、あの人間の魔法使いではない。
(……嫌な懐かしさ)

 ある程度察しのついたパチュリーは開いていた本とは別の本、愛用の魔導書を手に取り、椅子から腰を上げる。

 それから右手の親指一本で器用に本を開くと、そのページに左手をかざし意識を集中させる。
「風よ」
 パチュリーの言葉に呼応し、風が彼女を包み覆い、宙に浮かせた。
この広い図書館を端から端まで歩くとなると、かなりの体力が要求される。人並み以下の体力しかないパチュリーの移動手段は自ずと限られてくる。

(確か禁書庫は……)
 風をまとったパチュリーは、普段滅多に足を向けない書庫の方向へ飛んでいった。
(あの本を封印したのは何十年前だったかしら。当時の私の魔力を考えれば、封印の力が弱まっていてもおかしくない)

 迷路のように入り組んだ本棚を縦横に飛翔しながら、パチュリーは状況の分析を進める。
 頭の中では冷静になっているつもりだが、表情に余裕はなく、焦りすら伺える。
(でも封印は解けてはいないはず。弱まっているだけなら、まだ遅くはないわ)
 それでも油断できない理由はあった。パチュリーが焦るには十分の理由が。

(封印の素材は常備しているけど……それでも同じ封印を施すのに最低でも三日は必要だわ)
 今の封印がその日数に耐えられるかどうか、それを確かめるのが先決だった。もしそれに満たないほど封印が緩んでいたら――

(勿体ないけど焼き払うしかないわね。貴重な研究資料の一つだけどやむを得ないわ)
 深くため息をつく。それは資料を失うことに対する諦観ではなく、未練がましくいる自分を浅ましく思ってのものだった。

(私もまだまだ俗物ね)
 そんなことをあれこれと考えているうちに、パチュリーは目的の場所まで来ていたのに気づく。まとっていた風を解放し、床に足をおろす。

着いた場所は図書館の東端。端ということで、壁際にも本棚がびっしりと立ち並んでいることをのぞけば、ほとんど景色は他と変わらない。

ただその壁際において、本棚に挟まれる形で古びた樫の扉が一つだけあった。年月を経て黄ばんだ呪符が幾重にも貼られ、立ち入ろうとする者を拒絶している。

(これはあくまで侵入者向けの対魔《カウンター》の護符。魔法を使った者に対してのもの)
 パチュリーは戸惑うことなく、その扉を押し開け、真っ暗な室内へ足を踏み入れる。

「……埃っぽい」
 一歩中へ踏み出しただけで巻き上がった埃に、パチュリーは思わず魔導書で口を覆う。
 普段から図書館内は立ち寄る者たちに埃っぽいと言われてきたが、半ば図書館に住み着いているパチュリーには平気だった。だが、この禁書庫はそのパチュリーでも感じるほどひどい。

(誰も中に入ってないから当たり前か。こんなことならあの子に見回りついでに掃除させておくんだったわ)

 先ほど紅茶を煎れてくれた司書の顔を思い出しながら、胸中そんなことをつぶやく。
しかしすぐにそんなことよりも大事なことを思い出し、パチュリーは見通しを良くするために呪文を唱える。

「光よ」
 開かれた魔導書に光の球体が生まれ、室内を薄暗く照らす。光量を絞っているせいで、部屋全体を見渡せるほどではない。しかし歩き回る分には申し分ない。
パチュリーはその禁書庫の奥へ歩を進めていく。

この部屋に本棚はなく、腰の高さ程度の台座が等間隔でいくつかあった。その上にはそれぞれ呪符に巻かれた魔導書が安置されている。
(他の禁書は大丈夫そうね。まぁ、あの一冊だけが飛び抜けて厄介だから、他はそこまで気にすることはないけど……)

 そうでなければ、こんなにナイーブになることはない。自分の管理不届きとはいえ、嘆かずにはいられなかった。
「はぁ……うっ、えほ、こほ……」
ついたため息のせいで、埃が肺に入ってしまい、パチュリーは大きくむせる。
「最悪」

 涙目になった目元を袖で拭いながら、パチュリーは病弱な我が身を呪った。これで喘息がまた酷くなったら、自分以外の誰かを恨まずにはいられない。

誰もいない禁書庫で一人悪戦苦闘しつつ、パチュリーはようやく一番奥にある台座の前に着いた。台座に置かれている魔導書は他のものと違い、厚みがあまりない。そして魔導書自身が自分の存在を誇示するかのように、ほのかに光りを放っている。

「……」
 パチュリーは無言で、その魔導書の上に手をかざす。意識を集中させ、魔導書に込められた封印の状態を確認する。

「……ふぅ」
 冷や汗を拭い、肩の力を抜いてついたため息は安堵のためだ。
(これならまだ大丈夫。さっそく封印の準備に取りかからなくちゃ)
 一度抜けた力を込め直し、パチュリーは禁書を再び封印するため、足早に部屋を出て行く。

『……て』
 部屋を出る間際に聞こえてきたわずかな声に、パチュリーは反射的に振り向く。だが彼女の表情に焦りはない。口の端を少し上げ、魔女らしく冷たく微笑んだ。

「またすぐに封印してあげるわ。それまで大人しく黙ってるのよ」
 その声が何者であるかパチュリーは承知しており、その上で諭すように言った。

                                                   第一章へ続く

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