詩誌「午前」

 2012年6月創刊      発行所 午前社 330-0844 さいたま市大宮区下町3-7-1 S601

 

 

創刊の辞

 
 
「午前」という名称は、昭和十四年に二十四歳でこの世を去った詩人、立原道造が最晩年に意図し、最後まで夢見ながら叶わなかった雑誌の名です。生涯絶えることのなかった新しい詩への願いが、ここにこめられています。立原は、二冊の詩集『萱草に寄す』、『暁と夕の歌』を生前に残し、日本の口語詩の表現に類稀れな切り口と可能性を示しました。浅間山麓に位置する軽井沢、信濃追分という、澄んだ高原の地で堀辰雄を師と仰ぎ、詩誌「四季」に集った詩人たちとともに詩心を育みながら。しかし、なお湧き上がる止むに止まない内部からの要求としての詩的変革を求め続けました。いつの時代にあっても、ひと処にとどまる自己を許し得ないことは詩人の宿命といえます。
 
 昭和十三年、「四季」に三回に分けて立原は「風立ちぬ」と題して堀辰雄論を発表し、実質上堀文学への批判と決別を表明しました。それはとりもなおさず、その影響下で培われた抒情詩への決別をも意味していたことでもありました。その時期の詩人としての苦悩は測り知れないものがあります。同時期に彼の中に生れた新しい希望と決意をも私たちは知ることになります。それは同年代の詩人たちを包含しての詩誌、『午前』の創刊でした。夢みられたのは、光り満ちる美しい午前です。彼はそのことについて友人たちに何度となく書き送りました。

 「午前といふ言葉がイロニイとひびかない人だけが、午前といふ言葉の今日もたなくてはならない意味を最高に理解する。」「僕たちが、なぜ生きねばならないか、どこへ行かねばならないか、これらの問ひが、ひとつのプラクシスとして答を持ちます。」

 亡くなる前年、ベクトルを無辺の空に投げかけたかのような不断の問いを内包して、『午前』の扉は開かれ、すでにプラクシス(実践)の段階にあると、彼は確信していたに相違ありません。しかし、翌年の春、ついに力尽きて足早に生を閉じた立原にとって、実際は、扉は開かれたとは言いがたいものでした。まさに開かれようとしたその瞬間の光だけが、永遠の願いとなって今なお虚空に静かに輝いているように思われます。その光は幾度となく、現代を生きる私たちの頭上に啓示のように直射してきます。しかし、索めゆく魂の、根源的なものとして願われたその詩の光は、幾多のカタストロフィ―を経験してきた世界の、その後の変遷にともなって、特に荒廃の戦後には、どれほどの不条理な屈折を強いられて地上に届いて来たものであるかを、私たちは知らないはずもありません。

 午前はもう同じ闇の深淵から訪れた午前ではあり得ないことも明らかです。しかし、なぜ?何処へ?と、立原の詩によって繰り返されて来た問いは、今私たちの内部にも鋭く向けられます。それに対して、何もかも混迷を見せる時代にかりそめの身を置きながら、自分たちは今後いったいどのような新しい詩表現を創りだすことができるのか。この重要なテーマを抱き、足元の揺れ動く座標の原点に立つのは、いつも独りの個である自分自身であることを感じないわけにはいきません。現実社会の、回避することのできない様々な問題を意識の内に持ちながら、詩の感性と美しい言葉の表現を求めることは、現代の私たちに必要とされる仕事であると確信し、ここに「午前」という名称による出発の意味と願いを記します。

                                         
午前社 布川 鴇

 

 

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