アビがいつもの小舟で前島聖天に来たときには、往壓と元閥と宰蔵がいた。
三人は境内で何か楽しい話をしているらしく、みんな笑っている。とくに宰蔵がゲラゲラ笑っているので、おや、と思った。宰蔵があんなに大声を上げて笑うのはめずらしい。
「楽しそうですね」
船の中からアビが声をかけると元閥がおいでおいでと手を振った。
宰蔵はまだヒイヒイ言って腹を押さえている。
「どうしたんです? よほど面白い話でも?」
アビがそう言うと宰蔵が「竜導がくだらない話をするんだ」と目に浮かんだ涙をぬぐった。
「くだらない話? それがおもしろい?」
「まあ、お聞きなさいよ」
元閥がアビに座るように勧めたので、アビは往壓の前に腰をおろした。
「いや、ほんと、くだらない話なんだよ」
まじめな顔のアビに往壓は少し照れたように頭をかいた。
「あるところにケチんぼうな男がいてさ」
話し出すと宰蔵がまたクスクス笑い出す。
「とにかくケチな男なんだよ。下駄の歯がすりへるからって片足ずつ履くような」
「そりゃあ歩きにくいんじゃないですか?」
アビは首をかしげた。
「うん、そのくらいケチだってことなんだけど、ある日、その男が友人から土産にさくらんぼをもらったんだ」
「はい」
「で、ケチだからさ、さくらんぼの種まで全部食べてしまった」
「それは胃腸によくないですね」
律儀な合いの手に往壓は話しにくそうだ。
「うん………まあ聞けよ、それでな、さくらんぼの種をたくさん食べたせいか、あるとき頭に桜の木が芽を出した」
その言葉にアビは目を見開いた。
「それは―――ありえません」
「いや、まあそうなんだけど、話だからさ」
「………はあ」
納得いかない顔でアビがうなずく。
「で、桜は毎日毎日大きくなって、やがて春にいっせいに花を咲かせた。そりゃあ見事な花だってんで、近所の連中が大勢おしかけて桜の下で花見をはじめた」
「あの」
言いかけるアビを往壓は両手をのばして制した。
「聞けって、いいから。で、ケチんぼうな男は花見客が自分の頭の上で朝も昼も晩もどんちゃん騒ぐのでうるさくてしょうがない」
「………頭の上って………」
「それでさすがのケチんぼうも桜の木をえいって頭から抜いてしまった」
アビは何も言わなかったが眉を寄せて、不満の意を表明した。
「で、その抜けた跡がぽっかり穴になったんだけど、そこに折りからの雨で水がたまった。水がたまれば魚が湧く。そうすると、こりゃあいい釣り堀りだってんでこんどは近所の連中が釣竿片手に押し寄せてきた………ケチんぼうはもうこんなうるさいのはいやだってんでその池にどぼーんと身投げした。おしまい」
往壓は話し終わり、宰蔵はまたゲラゲラ笑っている。元閥もおかしそうにたもとで口を押さえていたが、アビはむすっとした顔で往壓を見つめていた。
「あの、お言葉ですが往壓さん」
「ああ?」
「それはありえません」
「………あのなあ」
アビは往壓ににじり寄った。
「さくらんぼの種を食べても頭から桜は生えませんし、その、頭の上で花見って人の頭に人が乗れるわけが」
「いや、だからくだらねえ話だって言っただろ?」
「で、桜を抜いてその穴に水がたまってつりぼりに? そこへ身投げ? ふざけないでください」
アビはどうやら怒っているらしい。往壓は助けてくれというように元閥を見た。
「いや、あの、アビ? これはそもそもふざけた話なんですよ」
元閥が助け船をだしたが、「なんで宰蔵さんや江戸元がそれで笑っているのかわからない」と、あえなく撃沈。
往壓はぽりぽりと頬をかいた。
「うーん、こりゃあねえ、なんつーか、頭が柔らかくないとなあ」
「頭が? 柔らかい?」
アビは自分の頭を押さえた。
「山の民ってのはなんだ? こういう与太話とかしねえのかよ」
「昔話とかおとぎ話とかなら聞いたことはありますが、嘘はいけません。生死に関わります」
往壓は軽くため息をついた。
「あのな、アビ」
「はい」
「こういう与太話とか落とし話とかはな、嘘か本当かとかあまり考え込まずにそういうものなのかって思っていればいいんだよ」
「そういう………ものなんですか」
「そういうものだ」
「………納得いきませんが、わかりました」
不満そうなアビに往壓は軽く肩を叩いてやった。
それからしばらくして。
アビは江戸の街中で目を疑うようなものを見た。なんと若い娘が頭から桜の枝を生やしているのだ。
最初は大きなかんざしをつけているのかと思ったが、それにしては大きすぎる。頭の上に一尺ほど伸びた枝があり、傘のようにたわわに花を咲かせてゆらゆらと揺れているのだ。
それもその木は生木のようで、桜は今を盛りと咲き誇り、ひらひらと花びらを散らしている。
娘は青白い顔でふらふらと歩いている。たしかにあれだけ大きな桜を頭にはやしていれば重くてふらつくのかもしれない。
アビが見ているうちに娘は茶を扱う大店に入っていった。丁稚が「おかえりなさい、桜お嬢さん」と言っていたからその店の娘だろう。誰も不思議そうな顔をしないところを見ると、この辺りでは周知のことなのだろう。
名前が桜。
なるほど、桜の花を頭に咲かせているのなら桜という名以外にありえないだろう。
(そうか、これが往壓さんの言っていた「そういうもの」なのか)
アビは感心して何度もうなずいた。
(それにしても裕福そうなのに、さくらんぼの種まで食べるほどケチな娘なのだろうか?)
前島聖天に戻ってくると往壓をはじめとしてみんながきていたので、アビはさっそく今みてきた話をしてみた。
「往壓さんの言っていたことがわかりましたよ」
「はあ?」
「世の中にはまだまだ俺の知らないことがあるんですね」
そう言って頭に桜の木を生やした娘の話をすると、全員が一斉につっこんだ。
「うそだろ」
「ありえん!」
「ていうか、ほんとだったら大事じゃないか」
「大事って言うか珍事でしょう!」
「い、いや、でも、そういうものなんだなあ、と」
アビが反論すると全員げっそりとした顔をした。
「お前は―――落とし話と現実を一緒にすんなよ」
往壓の言葉にアビはうろたえた。
「では、あの娘はほうっておくと問題が?」
「大アリだ!」
「妖夷かもしれん」
「どこの娘さんなんです」
アビは店の名前を言った。そこで全員でその店に向かってみることとなった。