ウインタブルック・ハウス通信

クリスティ・ファンクラブ機関誌

2004.12.24  NO.68

 68歳(1958年)のクリスティ。この年、クリスティ自身のお気に入りという『無実はさいなむ』を出版した。彼女が常に関心をもっていたテーマの一つに、真犯人は犯罪の犠牲者ばかりでなく、無実の人間にまでさまざまな被害を与えるというものがあり、本書は、そのテーマを考察した作品である。またこの年は、短篇(「洋裁店の人形」)も珍しく執筆している。
 戯曲に関しては、4月13日に「ねずみとり」が英国演劇史上、最長のロングランを記録したものの、5月22日に幕を開けた「評決」はさんざんな結果で、一ヶ月ほどの公演で打ち切られてしまった。慌てた演劇プロデューサーのソーンダーズは、すぐ新しい戯曲の執筆をクリスティに依頼したが、完成した「招かれざる客」は好評で、なんとか面目を保ったという年でもあった(S)。


< 目  次 >

◎戯曲「見知らぬ人からの愛」(第三幕、第一場、第二場)――――――――――原作:アガサ・クリスティ
                                                     脚色:フランク・ヴォスパー
                                                    翻訳:小堀 久子
◎"エジプト・ロマンの旅"に参加して―――――――――――――――――――伊東 絹子
◎クリスティ症候群患者の告白(その36) ――――――――――――――――数藤 康雄
◎ティー・ラウンジ
★表紙   高田 雄吉


戯曲「見知らぬ人からの愛」(第三幕)

原作(短編「うぐいす荘」):アガサ・クリスティ
脚色:フランク・ヴォスパー
翻訳:小堀 久子

 WH通信No.63、65、66、67の続きで、5回連載の最終回です。前回までの粗筋は以下のとおり。
 主人公セシリーは結婚のため、部屋を貸すことにした。だが実はセシリーと婚約者ナイジェルの仲はうまくいっていなかった。そこに部屋を借りたいという男ブルースが現れ、セシリーとブルースは何故かお互いに好意を持ってしまう。周囲はヤキモキするが、ほどなくセシリーとブルースは結婚。田舎のしゃれた一軒屋を購入し、素晴らしい新婚生活が始まろうとしていた。だがそこにお節介なおばが再登場し、ブルースは憂鬱な気分になる。それから数ヶ月後、ブルースの健康がすぐれないため、セシリーは独断で医者を呼ぶが、そのことでブルースと気まずくなる。そして一気に終局を向かえる(S)。


第三幕

第一場

登場人物
セシリー:ヒロイン。数ヶ月前にブルースと結婚。
メイヴィス:セシリーの親友。かつての同居人。
ホッジソン:庭師。
ナイジェル:セシリーの元婚約者。
ブルース:セシリーの夫。
エセル:メイド。庭師ホッジソンの姪。
グリブル:村の医者。


 前幕と同じ場所。二週間後のある日の夕方近く。誰もいないステージに金色の夕日が射しこんでいる。
玄関からメイヴィスとセシリーの声が聞こえてくる。
セシリー:(声)お座り、ドン!お座り!(ドンの吠え声が聞こえる)お客様の前ではいつもこうなの。まあ、悪い子!いいえ、家の中には入れてあげないわよ。
メイヴィス:(登場)入れてあげなさいよ。
セシリー:だめよ、可愛いいけど、何でも壊しちゃうのよ。ついこの前も、私のスカーフと手袋をぼろぼろにしたんですもの。
メイヴィス:(ソファに座る)それじゃあ、しょうがないわね。
セシリー:いいえ、そこにいなさい、ドン。(ドアを閉めて舞台の右方向へ。歩きながら犬のリードをソファテーブルの上に置いて行く)あっ、そうだったわ!
メイヴィス:どうしたの。
セシリー:(窓辺で)あなたのために、花を摘んでおくつもりだったのに。
メイヴィス:いいわよ。
セシリー:だめよ、だめ、だめ。お土産に持って行ってもらいたいの。ホッジソンに頼みましょう。(呼ぶ)ホッジソーン!
ホッジソン:(遠くからの声)はい、奥様。
セシリー:花を一抱え切ってくれるかしら。そして束ねてちょうだい。ミス・ウィルソンがロンドンに持っていくから。
ホッジソン:(声)かしこまりました、奥様。
セシリー:(左へと進みながらメイヴィスに)八時を過ぎたら適当な汽車がないなんて、ずいぶんなところね。(コートを脱ぎ、手すりに掛ける)
メイヴィス:(古時計を見て)今、何時かしら。
セシリー:その時計を見てもだめよ。鍵を無くちゃって、もう何週間も動いてないわ。(階段脇の戸棚へ)まだ七時をそんなに過ぎていないわ。何か飲みましょう。
メイヴィス:そうね、あんなに歩いた後だから、ウイスキーのソーダ割が飲みたいわね。素晴らしいお庭だったけど。
(セシリー、戸棚で飲み物を作る)
セシリー:ブルースはきっと、あなたが発つ前に、お別れを言いに下りてくると思うわ。
メイヴィス:なんだか、そうは思えないけど。
セシリー:あら、でも今日はあなた達、結構うまくいっていたわよ。
メイヴィス:それはお互いに気を使っていたからだわ。でもお茶が終わる頃には、彼には我慢の限界がきていたのね。二階で横になってくる、だなんてうまく取り繕ったわ。
セシリー:(飲み物を手に、ソファへ)でも実際、午後はいつも休んでいるのよ。本当に具合が悪いの。わかるでしょう。(自分の分を作りに戸棚へ戻る)
メイヴィス:それははっきり分かるわ。あんなに人相が変わるなんて見たことが無い。
セシリー:それに全然良くなっていないの。お医者様のいう通り安静にしているのに、かえって悪くなっているくらいよ。(テーブルの上方からイスを一脚、ソファの左に持って来る)
メイヴィス:じゃあ本題に入ったから言うけど、私は…言ってもいいかしら?…
セシリー:もちろん。
メイヴィス:…今の彼の状態で、明日から旅に出るのは非常によくないと思うの。
セシリー:(持ってきたイスに座って)分かっているけど、彼はもう決めちゃったのよ。
メイヴィス:彼を説得する事はできないの?
セシリー:できるだけのことはしたわ。今朝もあなたが来る直前に、そのことでひと騒ぎ起こるところだったわ。
メイヴィス:お医者様は?
セシリー:残念ながらそれもだめなの。昨日グリブル先生が電話して下さった時も、かなり失礼な態度だったの。
メイヴィス:そう。私はただあなたの無事を祈っているのよ。何もしてあげられないけど。あら!(ソファの上にあったブルースのノートを手に取る)あなたの?
セシリー:(手を伸ばしてノートを受け取る)いいえ、ブルースのだわ。置き忘れるなんて、あの人らしくないわね。あの人って、怖いくらいに整理上手で、几帳面なの。彼が書き留めておく事って、とっても変なことばかりなのよ。今日はなんて書いているのかしら。
メイヴィス:秘密を見られても彼は構わないかしら。
セシリー:大丈夫よ。時々見せてくれるもの。ああ、ここだわ。九月二十四日。"メイヴィスの一日訪問"。
メイヴィス:光栄だわ、歓迎されて。
セシリー:言ったでしょう。ほらここに他の事も。"午後九時"。
メイヴィス:午後九時?逢引きの約束?
セシリー:いやだわ、今ここで、そんな事が出来たら、たいしたものだわ。そういえば、信じられないかもしれないけど、エセルは町では評判の美人だわ。・・・でも違うわ。これは暗室を掃除する時間の覚書なのよ。
メイヴィス:(独り言のように)ずいぶんつまらない事をメモしておくのね。
セシリー:そう、このノートはとても変なの。これはどう。(読む)"三月二十五日、セシリーと結婚。四月七日、髪を切ること"これは規則的に二週間に一度なのよ。"四月十五日。田舎家に引越し。(つぶやく)ブルースったら。それからこの化学薬品か何かを表す、H2O2。今年の初めから毎週よ。
メイヴィス:H2O2?
セシリー:趣味の写真に使うのですって。
メイヴィス:写真に過酸化水素なんて使うかしら。
セシリー:H2O2は過酸化水素じゃないでしょう。
メイヴィス:決まっているじゃない。H2O2は過酸化水素なの。
セシリー:どうしてわかるの。
メイヴィス:時々使う歯の漂白剤に入っているわ。成分表に載っているもの。
セシリー:おかしいわね。気がつかなかったなんて。
メイヴィス:何に?
セシリー:実はホッジソンが過酸化水素の空き瓶を、何本も庭で掘りおこしたことがあって、そのときブルースは全然知らないって言ったのよ。ノートには定期的に過酸化水素という言葉を記していたのに。
メイヴィス:きっと白髪が増えたから、ちょっとづつ部分染めをしていたんじゃないかしら。
セシリー:ばかばかしい。
メイヴィス:"金の糸の中に混じった銀の糸髪の中に銀髪"なんて素敵だけど、彼は隠したかったのでしょう。(ハンドバッグから煙草入れを取り出す)
セシリー:そんなはずはないわ。(手帳をソファテーブルに置いて、立ち上がる)あら、それじゃなくて、これを吸ってちょうだい。(左手中央のテーブルに行き煙草ケースを取ってくる。メイヴィスはそこから一本取る)
メイヴィス:あなた、まだそのアラビアンナイトの煙草入れを使っているのね。
セシリー:(煙草ケースを持ってテーブルに戻る)当然よ。手放すものですか。ナイジェルがくれたものだもの。
メイヴィス:覚えているわ。(バッグからマッチを取り出して煙草に火をつける)
セシリー:(椅子に戻り、座る)あなたは私が彼のことをもう忘れているって言ったけど、違うわ。よく彼のことを思い出すの。
メイヴィス:ねえ、セシリー、彼に会わない?
セシリー:それが彼のためになるかしら。
メイヴィス:彼は友情以外は求めていないわ。長年婚約し、理解しあっていたのに、今は何も残っていない、と考えるのが辛いのよ。
セシリー:彼には本当に悪いけど、もう遅いわ。私たち、明日、外国へ行って、いつ帰るのか分からないのですもの。
メイヴィス:じゃあ告白するけど。
セシリー:え、なに?
メイヴィス:私は今日汽車で来たのじゃないの。あの道路で私を降ろしてくれたのは、駅のタクシーじゃなかったの。ナイジェルよ。
セシリー:なんですって。
メイヴィス:彼、ここにいるのよ。
セシリー:どこ?
メイヴィス:村のパブで待っているわ。青い豚、とか、そんな名前よ。
セシリー:青いライオン。
メイヴィス:私たちちょっとした"陰謀"を企てたの、ルールーおばさま風に言えば。
セシリー:言って。
メイヴィス:ナイジェルには、七時半に迎えに来てくれるように頼んであるの。もし引き合わせるのにふさわしくない雰囲気だったら、彼には坂の上で待っていてもらう。
セシリー:でも、もし
メイヴィス:(立ち上がる)ナイジェルは五分以上は待たないことになっているの。もしブルースが降りてきたら、私がきっちり話をつけるわ。
セシリー:彼にまた会えるなんてとてもうれしいわ、でも本当にどうしたらいいか、
(ホッジソンがフランス窓から、大きな花束を持って入ってくる)
メイヴィス:まあ、なんてきれいなんでしょう!
(セシリーは立ち上がって、イスをテーブルに戻す)
ホッジソン:これで宿根草の垣根には、もう見るべき花はなくなりましたが、明日からお出かけになるんだから、構わないでしょう。
セシリー:ホッジソンは垣根を良く手入れしてくれるのよ。
メイヴィス:そうでしょうね。とても素晴らしいお庭なんですもの。これはなんていう花?
ホッジソン:ペンステモンでございますよ。
メイヴィス:これがペンステモ・・?ああ、そうだったわ。
ホッジソン:ここは寂しいのが気にならなければ。屋敷を構えるのにうってつけの場所ですよ。
メイヴィス:(中央へ)確かにへんぴな所ね。
ホッジソン:ええ、だからダニング様はあんなに安く売りに出したというわけで。
セシリー:(左手中央、テーブルの向こうから)あら、一万五千ポンドがお安いといえるかどうか。
メイヴィス:そんなに払ったの?
ホッジソン:一万五千ポンドですと! そんなはずはありませんよ、奥様。(花束を暖炉右のイスの上に置く)失礼ですが、九百五十ポンドですよ、ダニング様の売値は。確かに九百五十ポンドと。
セシリー:いいえ、ホッジソン、違うわ。
ホッジソン:お言葉ですが、これはもう村中みんなが知っている事実なんです。私は、ダニング様ご自身の口からも聞きました。この家の手入れに財産をつぎ込んできたのに、どうにもそれ以上の値はつけられないと、こぼしておいででした。
(ホッジソンのセリフの間に、セシリーはソファ・テーブルから空のグラスを取って来て、左中央のテーブルに持ってくる)
セシリー:ダニング氏がなんと言ったかは知らないわ。私たち会ったこともないもの。主人が不動産屋を介して全てやったのよ。でも私は値段は知っているわ。小切手を切ったのは私ですもの。
ホッジソン:それは、奥様が一番ご存知とは思いますが、村で知れ渡っている値段は九百五十ポンドというわけでして。一万五千ポンドとは!そりゃあ、二十エーカーの牧草地も含まれているんで?
セシリー:いいえ、この家だけよ。
ホッジソン:ということは、つまり・・・
メイヴィス:(中央へ来て、ホッジソンの言葉をさえぎる)素敵なお花だわ!
ホッジソン:さて、帰る前に、菊のつぼみを摘んでおかないといけませんので。(フランス窓から去る)
メイヴィス:(ソファの下手端で)おかしな話ね!
セシリー:まあ、あなた、この村では、とんでもない噂が広まるものなのよ。一度
レッドライオンでチェリーブランデーを飲んだだけで、それ以来私はアルコール中毒だといわれているのそうよ。村には知り合いはいないけど、エセルが噂話を全部教えてくれるのよ。
メイヴィス:あなたがこの家を買ったの?
セシリー:いいえ、私は立て替えただけ。そのときブルースの預金は凍結されていて出せなかったからなの。保障とか事務弁護士とか、そういった手続きがあって。
メイヴィス:なるほどね。(犬の吠え声がしたので、窓から外を見る)ナイジェルだわ!
(玄関にノックの音。セシリーが行ってドアを開けると戸口にナジェルが現れる。二人はしばしの間、立ちすくんで見つめ合っている)
セシリー:(穏やかに)元気そうね。
ナイジェル:(笑顔で)入ってもいいかい?(中央へと動く)
セシリー:どうぞ。
メイヴィス:ホッジソンがつぼみを摘むのを見に行ってくるわ。菊・・だったかしら、何でもいいけど。お邪魔しちゃ悪いから。(庭へ)
セシリー:メイヴィスはルールーおばさんに似てきたわ。
ナイジェル:会えてうれしいよ。
セシリー:案外、良かったわ。(つい彼に近づいてしまう)どんなにあなたに会って、話がしたかったか。タバコはいかが?何か飲む?
ナイジェル:落ち着いて。こっちへ来て、座ろう。
(二人、ソファに隣り合って座る)
セシリー:(少しして)それで?
ナイジェル:というと?
(二人、笑う)
セシリー:どう過ごしていたのか、話が聞きたいわ。こんなに元気そうなあなたに会えて、どんなにうれしいか。
ナイジェル:だから会いに来たんだよ。僕を、見るも無残な麻薬中毒かなにかになるほど打ちのめしてしまったと思ったまま、旅に出ていってほしくなかったんだ。
セシリー:(笑って)まさか!
ナイジェル:君はどう?幸せ?
セシリー:とっても!
ナイジェル:うれしいよ。
セシリー:あなたはいい人ね。
ナイジェル:いや、そうでもない。いつも寛大でいられた訳じゃない。だが君と結婚できなかったからといって、くやしがって、君の結婚が破綻すればいいと思っているわけじゃない。
セシリー:破綻だなんて、とってもうまくいっているわ。予想していなかった事もあるけど・・・
ナイジェル:どうしたの。
セシリー:ええ、ここに来てから、ブルースの健康状態がちょっと気がかりなの。でも旅に出れば、きっと良くなるはずよ。
ナイジェル:どこへ?
セシリー:あちこち。世界中よ!
ナイジェル:それこそ、君の念願だったのじゃないか。
セシリー:そうよ。でも、おかしなものね。今は、ここを去るのが残念でたまらなくなっている。
(ナイジェル、笑う)
セシリー:私って、天邪鬼ね。
ナイジェル:僕だって、君に振られたとき、そうだった。愚かで、かたくなだった。スーダンにいたせいで、ボケていたんだ。
セシリー:そんなことはないわ。
ナイジェル:そうだよ。缶詰のアスパラガスばかり食べていて栄養不足で、その上耳に砂が入っていたんだ。
(二人で笑う)
セシリー:そんなに自分を責めないで。
ナイジェル:いや、君は大金を手にしたことで、人生について思いを巡らし、心が揺れていたんだよね。僕の想像力が足りなくて、分かってあげられず、君を追い詰めてしまった。
セシリー:あなたは寛大で、やさしい人ね。
ナイジェル:僕を思いやりのない男だと思ったまま、行ってしまわないでほしい。僕は君の事を思っている。それに、「いつかいい女性とめぐり合うわ」なんて言わないでほしい。そんなことありえない。
セシリー:分かったわ。ロンドン事務所ではいつから仕事を始めるの?
ナイジェル:「そう言って彼女は、事務的に話題を変えるのだった」・・・というわけかい。一ヶ月以内に始めるよ。それまでの間、ウェントウォース家から、スコットランドに狩りに来ないかと誘われているんだ。
セシリー:社交界は大変ね。
ナイジェル:社交界さ!スタンレー・ウェントウォースに近づくと、ひどい目にあいそうだよ。
セシリー:そうすると、タトラー誌にひどい写真が載るのね。
ナイジェル:そうだろうね。
セシリー:アリス・ウェントウォースなんて、あんな小さな狩猟ステッキの上に腰掛けられるのかしら。
(二人で転げるように笑う)
ナイジェル:二本使うんじゃないかな。 とにかく明日、車で行こうと思っている。できればその日一日で終わらせたいね。明日は早朝(crack of dawn)に出なければ。どうして、crack(割れ目、隙間)なんて言うんだろうね。英語の表現はおもしろいなあ。
(メイヴィスがフランス窓から入ってくる。ナイジェル、立ち上る)
メイヴィス:さて、菊のつぼみ摘みは、よくわかったわ。私がもし花なら、あんな目にはあいたくないけど。(階段の方に目をやる)どうしましょう、ここで解散したくないけど、今日はもう引きあげたほうがよさそうね。明日は早起きしなくちゃね、ナイジェル。
セシリー:(立ち上がり中央へ、そして台所の扉の方へ)まあ、だめよ、せっかくきてくれたのに悪いわ。帰る前に何か召し上がって。
メイヴィス:(セシリーに続いて立ち上がり、中央へ)こっちはどうする?(二階の方を見る)
セシリー:そうそう、待っていて。ちょっと行って、見て来るわ。(二階へと走る)
ナイジェル:メイヴィス、なんて言ったらいいか、君には感謝してもしきれない。
メイヴィス:ナイジェルったら。私がこの一件をどう思っているか、わかるでしょう。少しは気が済んだ?
ナイジェル:ああ。
メイヴィス:(テーブル上方の椅子に座る)よかったこと。
ナイジェル:・・・彼女は本当に幸せなんだよね。
メイヴィス:そう?
ナイジェル:君はどう思う?
メイヴィス:ナイジェル、実はね、二、三気がかりな事があるわ。私があの男を嫌っているということを差し引いて考えてみても、いくつか不可思議な事があるの。
ナイジェル:つまり?
メイヴィス:まず、彼の外見がとても怪しい。要注意よ。
ナイジェル:要注意?
メイヴィス
:何か深刻な事が彼の身に起こっているのは確かよ。彼がセシリーと明日から外国へ出かけるなんて、奇想天外、と言ってもいいほどよ。
ナイジェル:医者に見てもらうとかしていないのか。
メイヴィス:してるわ。でも医者が言うことにも耳を貸さないらしいの。その医者から、本当の病状を聞けたらいいんだけど。他にも、この家の値段についてのおかしなごたごたがあるの。
ナイジェル:この家の値段?
メイヴィス:何か、ものすごく匂うわ。それで、ちょうど分かったんだけど、ブルースは・・・
(ここで二階から、ブルースの声が聞こえる。急に声を上げたようだ)
ブルース:(声。弱々しい)もうたくさんだ!あの女が一日中家にいたかと思えば、今度はあの男か!もう我慢ができない。いいかげんにしてくれ!
(メイヴィスとナイジェル、目をあわす。沈黙)
メイヴィス:(立ち上がる)引き上げたほうが良さそうね、ナイジェル。
ナイジェル:確かに。おせっかいは嫌いだが、この家が何だって?
メイヴィス:それはね、ブルースが・・・しっ!セシリーが来るわ。
ナイジェル:どこかで夕食を取ろう。村のあのパブはどうだろう。
メイヴィス:そうね、"豚と口笛"に行きましょう。そこで話すわ。
ナイジェル:(暖炉の方へ)そうだな。後で電話をかけて、その医者を寝床から引っ張り出してやろう。
メイヴィス:(ソファの前へ)そうね。もう夜遅いから、「何時だと思っているんだ!」と叱られるかもしれないけど、仕方がないわ。
(セシリーがしょげきって階段を下りてくる)
セシリー:(階段の下に降り立ち)ごめんなさい、ブルースはちょっと気分がすぐれないようで、神経質になっているの。いろいろな事があった一日だったから・・・、分かるでしょう、それで・・・
ナイジェル:大丈夫さ。わかっている。色々あって、戸惑っているんだろう。
メイヴィス:遅くなってきたから、村に戻らないとね。
セシリー:(メイヴィスの方へ)ああ、もっと居てほしいわ。あなたたちに会えて、本当に良かったわ。(中央にやってくるナイジェルの方を向く)こんな田舎に三人が揃うなんて。まるで、あそこに行ったときみたいね。ね、どこだったかしら?とても広い河で、魚を取る簗がかけてあったわね。(メイヴィスの方へ行き、抱擁する)さよなら。今日は天国のような素晴らしい一日だった。(ナイジェルの方へ行き、少しためらうが、抱擁して)さよなら。旅から帰ったら、また会いしましょう。スコットランドで、楽しんで来てね。
メイヴィス:手紙を書いてくれるわよねえ?
セシリー:もちろんよ。郵便局を探し出せる限りはね。
ナイジェル:探検家のリビングストンの奥さんみたいで、大変だね。いつ頃戻るつもり?
セシリー:来年の春か、初夏の頃だと思うわ。
ネイジェル:じゃあ行こうか、メイヴィス。
(三人は玄関に)
セシリー:さよなら。
メイヴィス:本当に大丈夫?
セシリー:もちろんよ。
メイヴィス:こうしましょう。宿に着いたら電話をするわ。おやすみなさいを言うから。
セシリー:おもしろいアイディアね。でもうちには電話がないの。
メイヴィス:電話がないですって?どうしているの?伝書鳩とか?(出て行く)
ナイジェル:さよなら。(立ち止まる)ん・・・あの・・体に気をつけて。
(ナイジェルは出て行き、セシリーはドアを閉めて右手中央に行く。ホッジソンが後ろ手に薔薇を一本持って、フランス窓から入ってくる)
セシリー:(ソファの左で)あら、ホッジソン。菊の手入れは終わったの?
ホッジソン:ええ、奥様。これで帰らせていただくことにして、明日は朝早くから始めます。旅のご無事を願って、ご挨拶したいと思いまして。
セシリー:それは嬉しいわ、ホッジソン。
(エセルが、帽子とコートを身につけ、台所から来る) セシリー:エセル、この花束を、お客様に渡してきて。
(エセル、花を抱えて、玄関から、勢いよく飛び出して行く)
ホッジソン:お留守の間は、ちゃんと目を配らせておきますから、安心なすってください。
セシリー:全然心配していないわ。
ホッジソン:病院での治療が終わり次第、もし体を動かせるようだったらですが、・・・・ セシリー:そうね、冬が来る前に、リューマチをちゃんと治しておいたほうがいいわ。一日入院程度なら、痛い治療はしないわよ。
ホッジソン:おっしゃるとおりでしょう。しかし今回は旦那様が予約を入れておいて下さったから参りますんで、ご好意を無駄にしてはいけんませんからね。
セシリー:気楽にやってちょうだい。働きすぎないでね。
ホッジソン:奥様のように花好きなお方のために働けるなんて、ありがたいことですよ。・・・それで、奥様の今夜のドレスのボタンホールを飾るのに、これはどうかなと、思いまして。(後ろ手に持ってきた薔薇の一輪を出す)これは庭の隅の元木に咲いていた、最後の一輪です。
セシリー:(それを受け取って)まあ、神様の賜物ね。この夏最後の薔薇。(左中央のテーブルの方へ)
(ホッジソンは笑い声を上げる)
ホッジソン:牧師の奥さんがクリスマスコンサートで、その歌を歌いましたっけ。"この夏最後の薔薇"これを聞くと、もう酒を飲む気がしなくなる。(さらに笑う)
(エセルが戻ってくる。息を切らしながら、中央に来て立つ)
エセル:あの紳士は10シリング下さいました。
セシリー:良い方でしょう。
エセル:これで、旦那様にいただいたのと合わせると、丸々1ポンドになるわ。
ホッジソン:貯めておいてよかっただろう。
セシリー:旦那様が、くれたのですって?
エセル:はい、お給金に加えて下さいました。今夜のお祭に行ったらいいって、10シリングを。
セシリー:お祭があるなんて知らなかったわ。
エセル:はい、奥様、年の暮れには、どこかしらにやってくるんです。それで旦那様は、早めに帰ってもいいし、次の朝はお屋敷に来なくてもいいから、好きなだけ遅くまで遊んでおいでって。
セシリー:そんな話、今初めて聞いたわ。
エセル:(しょんぼりと)まあ、奥様、それじゃあ・・・行ってもいいですか、その・・・
ホッジソン:だめに決まっておる。おまえは出来るだけここに居て、お役に立ちなさい。
セシリー:(微笑んで)いいのよ、エセル。旦那様の言うとおりだわ。たいした用事もないのだから、行っていいわ。
エセル:まあ、ありがとうございます、奥様。ありがとうございます。(左手ドアへ)
ホッジソン:奥様、甘やかしすぎます。
セシリー:そう?では、あなたにも。このウイスキーの残りを全部あげるわ。エセルと一緒に行って、台所でグラスをもらうといいわ。
ホッジソン:グラスなんて、必要ないです。感謝します、奥様。
セシリー:しばらく会えないわね、エセル。
エセル:まあ、そうでした、奥様。祭の事で頭が一杯で、うっかりしていました。どうぞ、お気をつけて、行ってらっしゃいませ。
セシリー:ありがとう、エセル。留守の間、よろしくお願いね。
エセル:もちろんです。お帰りになる頃には、この頃は珍しいけど、春の大掃除なんかしちゃいますよ。
セシリー:じゃあ、帰る頃にはちゃんと予告をするわ。
エセル:夕食の用意は全部出来ておりますから、奥様。お盆に載せてのせてあります。他に御用はございますか。
セシリー:なんにもないわ、エセル。(テーブルの上のグラス類を指差す)これを片付けてくれるかしら。
(エセルはグラス類を片付ける) セシリー:お祭を楽しんで来てね。誰と行くの?あの素敵な郵便やさん?
エセル:(むっとして)あんな男!違います、奥様。牛乳を持ってきてくれる、テッド・サンダースと行くんです。(台所へ消える)
セシリー:なるほどね。じゃあ、ホッジソン、お元気でね。あら、これはドンのリードだわ。(犬のリードをソファ・テーブルから取り上げ、ホッジソンに渡す)忘れていたわ。ドンの世話もお願いします。
ホッジソン:ご心配なく、奥様。ちゃんと面倒を見ますから。
セシリー:さよなら、ホッジソン。リューマチ、お大事にね。
ホッジソン:はい、奥様。良い旅を。
(ホッジソンは、エセルに続いて、台所へと消える。セシリーは、薔薇をソファ・テーブルにおいて、階段へ。グリブル医師が、玄関から入ってくる。彼が話し掛けたとき、セシリーは、階段を二段上ったところ)
グリブル:入ってよいかな。
セシリー:(やや、取り乱して)まあ、グリブル先生、こんばんは。いらっしゃるとは思いませんでしたわ。
グリブル:厳密には、医者としてではないのです。必要以上に、ご主人を刺激したくはないですが、しかし、今の状態で旅行に出るのは、本当に良くないと、とても心配なのです。
セシリー:(階段を下りる)なぜですの?悪くなっているとお考えですか。
グリブル:(ソファの前に立って)もろ手を挙げて、賛成は出来ません。今どこに?
セシリー:上で休んでおりますわ。
グリブル:じゃあ、そっとして置いてあげなさい。
セシリー:じきに、夕食に降りてきますけど。
グリブル:ご主人を説得できるか、もう一度骨を折らせてもらえませんかな。
セシリー:そううまく出来るのでしたら、それは・・・でも・・・
グリブル:ちょっと思い付いたのだが、
セシリー:お座りください。
グリブル:これはどうも。(帽子、杖、もって来た本をソファの上に置き、上手の端に座る)ちょっと思い付いたのですが、ご主人と何か他のことで話題が合えば、私のことをもっと信用してくれるのではないかと。と言う訳で、『有名な裁判』シリーズの最新版を持ってきたというわけです。私はちょうど読み終えたところなんですがね。アメリカの一件で、昨年新聞を賑わしていた"ダーキー"・ベリングハム裁判など、とてもおもしろいですよ。
セシリー:そういえば、そんな事件がありましたわね。
グリブル:ええ、彼は殺人未遂で裁判にかけられたが、うまく弁解して、無罪放免になったのです。無論アメリカでのことですがね。後になって新たな証拠が出てきて、彼の有罪が疑う余地のないことがわかったのだが、その頃には、彼はもうどこかに消えていたのです。(本のページを繰る)それに、やつはなかなか人好きのする顔をしている。ほら、ご覧なさい。(セシリーに写真のページを見せる。セシリーはソファの肘掛の後ろから、それを覗いている)なかなかいい男でしょう。"ダーキー(秘密めいた)"というあだ名がついたのもわかる。
セシリー:私はこの口ひげも、めがねも、ボタンホールも嫌だわ。
グリブル:ああ、それは、アメリカ人がイメージするところのイギリス人、という訳で、彼は仮装しているんですよ。アメリカではみんな彼を、オックスフォードの出身と思っていたようだが、私から見れば、少しもそんな感じはしない。
セシリー:そうですか?
グリブル:五人もの女性を殺すような男は、オックスフォードにしては野蛮だ。大量殺人を起こすような男は、たいてい同じです。ある一定の狂気まで、興奮の度合いをあげていくのには時間がかかるが、犯行そのものは、確信をもって行っているものだ。とにかくおもしろい読み物ですよ。ご主人は、アメリカをよくご存知だから、きっとおもしろいと思いますよ。
セシリー:(グリブルから本を受け取る)あら、でも、うっかりしていましたわ。ブルースはこの本をもう持っていますわ。
グリブル:ああ、それはがっかりだ。
セシリー:(本棚へ)最近も読んでいました。あら、どこへ行ったかしら?(その本を見つける)ええ、ここにあったわ。ムーディーズ書店からこの前届いたのですもの。(その本を持ってくる)
グリブル:(その本を調べる)ベリングハムの写真が、これには無い。
セシリー:そうですか?
グリブル:版が違うからでしょうな。
セシリー:(グリブルが持ってきた方の本を手にして、それを眺めながら)誰かに似ているかしら?
グリブル:肉屋のジャッドソンにちょっと似ているようだ。
(セシリー、耳をそばだてる)
セシリー:(グリブルの本をソファ・テーブルの上に置き、左手へ)ブルースが来ます。心配だわ、だって・・・
グリブル:(立って)大丈夫ですよ。うまく乗りこなして見せましょう。(ブルースの本は、ソファの上に置いてある) (ブルース、階段を下りてくる。グリブルがいるとは思っていない)
ブルース:ああ、やっと帰ったか、あの女。もう、口出しする人間は嫌いだ。(グリブルに気が付く)
グリブル:こんばんは、ロベル君。ちょっとおしゃべりに立ち寄ったんですよ。これを持ってきたんだが・・・
(ブルースは以前にも増して、常軌を逸した態度である。グリブルの話をさえぎる)
ブルース:(階段の下で、激しく)今言った言葉を、あなたにも捧げる、グリブル先生!
グリブル:(ギョッとして)なんですと?
ブルース:おせっかいな人間はたくさんだ!
セシリー:(左手のテーブルの左で)ブルースったら!
グリブル:ロベル君、聞いてくれたまえ、
ブルース:昨日はっきりと申し上げたはずなんですがね、診察はあれが最後だと。
セシリー:でも、ブルース、今日は診察じゃないのよ。グリブル先生はご親切に、これを持って・・・
ブルース:(グリブルが立っている中央へ)わかったぞ、明日旅立たないように、説得しようという魂胆か。よく聞け、グリブル先生。僕らは明日、朝一番に出かける。こうやって自分の足で立っているんだから、絶対だ。計画を練って、練って、練りまくったんだから、絶対に成し遂げてやる!これまで、やってきたようにな。
セシリー:ブルース、お願い、グリブル先生はとても心配してくだっているのよ。だから・・・
ブルース:(舞台前方へ、そして左に回り、背中をグリブルに向ける)こんな村はもううんざりだ。それが病気の理由さ。窮屈でしょうがない。船に乗ってしまえば、健康に戻るさ。
(しばしの間。そして、グリブルは切り口を変えて、説得を始める)
グリブル:(左手テーブルの右手に回る)だがね、ロベル君、奥さんの身になって考えてみたことはあるかい?例えば、君が・・・
ブルース:はっきり出て行ってくれといっただろう?それとも、こうやって心配してくれるのも勘定のうちなのか。
セシリー:ブルースったら!
(ブルースとグリブルは、テーブルをはさんで向かい合っている)
ブルース:そうなら、これを受け取るがいい。(何枚かの紙幣をテーブルに放り出す)五回の診察で、五百ポンドだ。この村での、いつもの稼ぎよりずいぶんいいだろう。あなたの実際の価値以上の額だ。
(大変気まずい沈黙。それからグリブル氏は気を取り直してソファに向き直り、帽子、杖、それから、ブルースの本である『有名な判例』シリーズを取り持ち上げる。セシリーは大変いたたまれず、医師の後について行き、玄関で彼を引き止める)
セシリー:(静かに)先生、申し訳ありません。
グリブル:いいんだ。道中、気をつけて。さよなら。
せしりー:先生、ありがとうございます。では、ごめんください。
(グリブルは去り、ドアが閉まる。間。セシリーは泣き出しそう)
セシリー:ブルースったら!なんてひどいことを!あんなにいい方なのに、あんな態度をとるなんて。(下手へ)あんな言い方、見ていられないわ。事態を悪くするだけで、あなたにもいいことなんてないのよ。(向きを変えて中央に立ち、フランス窓から、外を見る。ブルースが来て、やさしく彼女に腕を回す)
ブルース:悪かった。一日中、苛立っていて、もう限界だった。下に降りてきたら、二人きりでホッとできると思っていたのに、そうじゃなかったから・・・許しておくれ・・・先生には手紙を書いて謝るよ。
セシリー:そう?そうしてくれる?
ブルース:ああ、今夜書くよ。それとも、明日、船で。ああ、君を一瞬でも不愉快にさせたなんて、僕はなんていやな人間なんだ。でも、見捨てないでくれ。今日を境に、心を入れ替えるから。素晴らしい旅を過ごすのだから。許してくれた?
セシリー:しょうがないわね!
(ブルース、セシリーにキスする。そして、ソファ上に自分のノートを見つけて拾い上げる)
ブルース:おや、ここに僕のノートが。
セシリー:そうよ、そこに置きっぱなしだったわ。(セシリーは左手中央のテーブルの上を片付けて、夕食の準備をする。テーブルクロス、ナイフ、フォークなどはテーブルの引き出しに入っている) 九時って何のこと?
ブルース:九時?
セシリー:そのノートの今日のところに書いてあったわ。
ブルース:あ、そうそう、これか。今夜、暗室を掃除するんだよ。
セシリー:ああ、そうだと思ったわ。
ブルース:君も手伝ってくれるんだろう。
セシリー:手伝わなきゃだめ?
ブルース:おや、嫌なのか。
セシリー:だって、地下はとっても汚くて埃っぽいんでしょう。
ブルース:僕がそんな不精なやつじゃないってよく知っているだろう。塵一つないよ。
セシリー:わかったわ。
ブルース:(ソファ・テーブルの上から、薔薇を取り上げる)きれいな薔薇だね。
セシリー:(テーブルクロスを広げながら)ホッジソンが、お別れにくれたのよ。そうそう、ご存知?ホッジソンが言ってたけど、ダニング氏は、この家を九百五十ポンドで売るって言っていたんですって。
ブルース:ホッジソンがそう言ったのか。
セシリー:(薬味入れを戸棚からテーブルへ持ってくる)ホッジソンに間違っているって言ったんだけど、わかってくれなかったみたい。ねえ、あなた、私たちが払ったのは、そんな額じゃなかったわよね。
ブルース:(左にある鏡の方へよろよろと歩いていきながら、持っていた薔薇を夕食のテーブルに投げる)そんな訳がないだろう。ボケ老人の言う事だ。全く村のゴシップという物は。(鏡を覗き込む)
(セシリーは薔薇を拾い上げ、軽くキスをしてブルースが座る方のテーブルの端に、例のお金と一緒に置く)
セシリー:(愛情深く)ねえ、ブルース、気になっていたんだけど・・・
ブルース:(とても機嫌よく)何が気になっていたんだい。
セシリー:あなた、もしかして、過酸化水素を髪に使った事はない?
(ブルースは怒ったように振り返る)
ブルース:(感情を押さえられず、鋭く)なんだって?
セシリー:(怖がる)怖いわ。(テーブルの引き出しから、ナイフとフォークを取り出す)いいのよ、ちょっと聞いてみたかっただけ。
ブルース:(威嚇的に)何と言った?
セシリー:た、た、ただ、過酸化水素を使って、髪を染めた事があるかどうかと・・・
ブルース:(怒って)僕が髪を染めていると、誰が言ったんだ!
セシリー:染めるのがどうのこうのというわけじゃなくて、私はただ・・・
  ブルース:(前に進んで、テーブルをはさんで、セシリーと向き合う)でたらめだ。なぜ僕が、髪色を変えなければならないんだ?僕は金髪なんだ。ずっとそうだったさ。
セシリー:ええ。そうよね。
ブルース:だからなんだって言うんだ。
セシリー:私はただ、あなたが白髪を少し見つけて、それを隠そうとしたのかと思っただけ。
ブルース:(とてもホッとして、笑い飛ばそうとする)ああ、白髪か。なるほど。ぼくはてっきり・・・
セシリー:何?
ブルース:(上手へ、そしてテーブルの後ろから中央へ)なんでもない。そんなこともう考えないでくれ。僕は過酸化水素なんて、この家に持ってきたことはないよ。
セシリー:じゃあ、H2O2って何?
ブルース:(鋭く)な、なんだって?
セシリー:メイヴィスが言っていたんだけど、それって、過酸化水素の化学式なんですって。
ブルース:嫌な女だ!なんだってそんなことで口をはさむんだ!
セシリー:別におせっかいじゃないわ。あなたが現像に使うのだって彼女には言ったわ。あなた、そう言ったでしょう、覚えていないの?
ブルース:もちろん覚えているさ。そうだよ、使っていたんだ。髪を染めるのなんだのと君がバカみたいな事を言うから、忘れていたよ。
セシリー:(あまり信用していない様子)ええ、わかったわ。(なだめるように)とにかく、たいしたことではないわ。話題を変えましょう。
ブルース:その通りさ。
セシリー:何か飲まない?(戸棚の方へ)
ブルース:いいとも。
セシリー:あら、ウイスキーが無いのだったわ。残っていたのをホッジソンにあげちゃったから。でもあなたはブランデーの方が好きなのだから、いいわよね。(彼のためにグラスにブランデーを注ぐ)
(ブルースはテーブルの上方に行き、お金を取り上げてポケットに入れる。それから薔薇を手に取り匂いをかいで、自分のボタンホールに差し込む。それからテーブルの上手に座る。セシリーが飲み物を渡す)
ブルース:オーケー。グリブル先生には失礼な事をして悪かったよ。しかし先生は、明日出発すると大変な事になると、君を脅かしていったのじゃないだろうね。
(セシリーは舞台を横切ってソファ・テーブルの上から、グリブルの物である『有名な判決』シリーズを取り上げる。
セシリー:いいえ、そんなことは無いのよ。そうじゃなくて、この殺人鬼にすごく興味を持っていらしてね、おかしいくらいに。(ブルースの椅子の左に立って、本を開き、写真を見せる)ねえ、誰かに似ていると思わない?
(ブルースはそれを見ると、怖がっている表情で、持っていたグラスを乱暴にテーブルに置く。
(セシリーは驚いて、彼から離れる)
セシリー:ブルース、一体どうしたの。
ブルース:(立ち上がり、後ずさるセシリーに向かって、不吉な雰囲気で迫っていく)な、なぜ、写真がこの本に戻っているんだ・・・
セシリー:戻っている・・・?
ブルース:破り捨てたはずなのに。
セシリー:破り捨てた?どういう事?
(ブルースは後ずさるセシリーに向かって、にじり寄っている)
ブルース:庭の隅で燃やしたのに。灰が風に飛ばされていったのを見たんだ。それがなぜ戻っているんだ?
セシリー:そういう事じゃないわ。説明するから。いい、グリブル先生が・・・
(二人は舞台中央下手で顔を見あわせている。セシリーは半分観客に背を向けている。ブルースは上手で、セシリーのやや左にいる)
ブルース:ああ、やつも陰謀に一枚噛んでいるのか。グリブル、メイヴィス、そしておまえだ。何を探っているのだ。
(セリーは恐怖に満ちた視線をしばし写真に写し、また戻す。恐ろしい事実に気が付き、その衝撃がさっと表情に表れる)
ブルース:本をよこせ。(セシリーから本を取り上げる。セシリーの両手は脱力し下がるが、その目はブルースを見つめたまま)なぜそんな顔で見つめる。
セシリー:あ、あ、あなたが驚かすからよ。
ブルース:驚かす、とはどういう意味だ。
(セシリーは、ここを切り抜けるには、怖がっていることを隠した方がい気がつきじ始める。力を振り絞ってソファの右手まで移動し、興奮して上ずってしまいそうな声を押さえつつ、無意識にソファのカバーを直す)
セシリー:ねえ、あなた、これは全くなんでもないことじゃないかしら。私が写真を見せた本は、グリブル先生があなたに貸してあげようと、持って来た本なの。あなたがすでに持っているなんて知らずにね。
ブルース:つまりグリブルの本だっていうのか。
セシリー:ええ、そうよ。
ブルース:(大変ホッとして)そうか、なぜそれを先に言わないのだ。
セシリー:あなたったら、そんなすきを与えてくれなかったわ。あんなにカッとするのだもの。病気が悪くなると思ったわ。それが怖かったの。
ブルース:(納得して)そうか、分かった・・・悪かったね、僕がバカだった。
セシリー:いいえ、私だわ、まるで子どもみたいに、バカね。でもあなたって、・・・今夜は、ちょっと不安定じゃない?(小窓のカーテンを引く)
ブルース:気分にむらがあるんだよ。だからぼくには・・・
セシリー:ええ、よくわかっていてよ。あなたには、何かと煩わしいことが多い一日だったわね。
ブルース:もういいんだ。明日には良くなっている。
(セシリーは階段へと横切る。階段を上ろうとするが、ブルースが振り返ったので、止まる)
セシリー:あんな本、見たのがいけなかったわ。いつも怖い思いをするのに。
ブルース:バカだなあ、かわいそうに。僕があの写真のページを破り捨てたのも、そんな理由からなんだ。これも今破り捨てたらどうだろう。(ページをちぎり、本をソファに投げて、フランス窓の方へ)これで、安心さ。
(彼は庭へ出る。セシリーは足に根が生えた様にしばらく立ちすくんでいるが、すぐにソファの上の本を取り上げて、ソファに肘掛に座って、ところどころ拾い読みする。食い入るように読む。それから急に苦しげなため息をついて、本を置く。台所のドアへと行き、パニックに陥ったように叫ぶ)
セシリー:(押さえた声で)エセル!エセル!(台所に飛び込み、また戻ってきて、コート掛からコートを剥ぎ取り、玄関ドアまで駆け込むように行ってドアを開けると、そこにブルースが立っている)
ブルース:(穏やかに)おや、どこへ行くんだい?
セシリー:ちょ、ちょ、ちょっと村まで行って何か買って来ようかと思って。
ブルース:ああ、そうか。何を?
セシリー:サラダに使うオイルがちょっと。
ブルース:そうか。でも、店が閉まる頃だよ。
セシリー:あの店なら、裏口から呼べば大丈夫よ。
ブルース:みんな祭りに行っていて、いないよ。それにもう八時だ。少々のオイルのために行くことはない。
セシリー:急げば大丈夫よ。
ブルース:だめだよ。この辺りにはよからぬ人物がたくさんいるから、行かせたくない。祭がどんなものか、知っているだろう。ジプシーとか、色々、来ている。(ドアに鍵を掛けて、その鍵をポケットに入れる)どんな奴らがうろうろしているか、わかったもんじゃない。(セシリーからコートを取り上げてそれをソファの上に置き、それからフランス窓を閉めてカーテンを引く)僕らは安全な所にいた方がいい。
セシリー:ええ、あなたの言う通りね。こんなに遅くなっていたなんて、気がつかなかったわ。夕食の用意をしましょう。(台所へ)
ブルース:手伝うよ。(一緒に行く)
(セシリー、しばし立ち止まる。動揺している)
ブルース:どうしたんだ?
(セシリーは、台所のドアの前に立って見ているブルースに背を向け、テーブル左の椅子にしがみつく)
セシリー:(気持ちを持ち直して)何でも、・・何でもないの。ちょっと立ちくらみがしただけ。
ブルース:ああ、何か食べたほうがいい、きっとそうだよ。ちゃんと食べていれば、めまいなんかしないんだ。そうだよね。
セシリー:(振り返って、ブルースと顔を合わす)いいえ、そうじゃないわ。(自分を励ますように)もう大丈夫。そう見えるでしょう?
ブルース:ああ、それどころか、きれいだ。
セシリー:良かったわ。・・・さあ、夕食にしましょう。
(ブルースは前に出て、右腕をセシリーに回す。そして二人で、次第に落ちてくる照明の中、台所へ)


第二場

 場面は同じ。先程から三十分ほど経過している。
(ブルースとセシリーは夕食のテーブルに着いている。ブルースは上手、セシリーはその左にいる。ちょうど食べ終えたところ。部屋のカーテンは引かれたまま。ブルースは今や正常ではなく、躁状態で、自意識過剰である)
ブルース:特筆すべき、素晴らしい夕食だった。エセルをこんなに上手にチキンサラダが作れるように仕込んだ君は、非凡な才能がある。
セシリー:喜んでくれて、嬉しいわ。
ブルース:僕も嬉しいよ。なにしろ、今夜は特別なんだ。お祝いだ。
セシリー:ええ、そうね、・・・明日旅立つのですものね。
(ブルース、笑う)
セシリー:何がおかしいの?
ブルース:なんでもない、なんでもない。
セシリー:もっとブランデーを召し上がったら。(テーブルの上にあるブランデーのビンを渡す)
ブルース:いや、もう結構。僕を酔っ払わせようとしているんだろう。僕は酒に強いんだ。
セシリー:あら、でも、まだ二杯しか召し上がっていないわ。
ブルース:それで十分さ。頭の中で、何かぶつぶつ聞こえる。いや、ぶつぶつどころか、ガンガンするよ。大丈夫さ。よくあることだし、ただもう、嬉しくて、(セシリーはブルースを見る) 明日出かけると思うと。
セシリー:荷造りを終わらせた方がいいと思わない?
ブルース:(立ち上がる)それで思い出した。スーツのポケットに、時計の鍵があったよ。(上手へ)あの古時計のネジを巻こう。何時だ?
セシリー:(腕時計を見て)九時十五分前よ。でも明日からいないのだから、巻いてもしょうがないわよ。
ブルース:(観客に背を向けて、時計の前にいる)古い置時計の針が動いて、一秒一秒時が過ぎていくのを眺めていると、いつも奇妙な興奮を覚えるよ。(ネジを巻きながら、話し続ける)学生時代、校長室で立たされていた時の事を、とてもよく覚えている。ぶたれるのを待つ瞬間、掌が飛んでくるのをなす術もなく、見ていたんだ。
(セシリーは立ち上がって、こっそりと台所へ。ブルースは、それに気がついていない様子)
ブルース:いろいろな感情が奇妙に混ざり合ったあの興奮をよく思い出す。それはとても)恐ろしかったが、妙な嬉しさもあった。裏口は鍵をかけたよ、ダーリン。夕食の準備をしている間にね。
(ブルースは振り返り、力が抜けたようにフラフラと自分のテーブルの席に戻る。しばらくしてセシリーが盆にコーヒーと、カップを二個のせて持ってくる)
セシリー:コーヒーを取りに行っただけよ。
(セシリーは盆をテーブルに置き、ブルースを盗み見る。ブルースの手はまた頭を抱えている。セシリーはコーヒーをカップに注ぎ、ブルースに手渡す)
セシリー:コーヒーをどうぞ。
ブルース:(ぼんやりして)なに?
セシリー:コーヒーよ。
ブルース:ああ、そうか、君の声が遠くに聞こえるよ。この頭のせいだな。
セシリー:横になった方がいいのじゃなくて?
ブルース:いいんだ、悪い気分じゃない。君は僕の発作の事を心配し過ぎているようだ。こう言うとおかしく聞こえるだろうが、とってもいい気持ちだって、わかるかなあ。心臓の鼓動の感覚が、だんだん速くなってくると、まるで音楽のようになるんだ。野性的で、性急な音楽。物の輪郭がぼやけて見えるけど、色はくっきりと浮かび上がってくるんだ。・・・・今何時だ?
セシリー:九時十分前。
ブルース:いや、もっと正確には、八分前だろう。七分に近いかな。
セシリー:いいえ、ぴったり、ちょうど十分前よ。
ブルース:そろそろ仕事を始めなければ。
セシリー:今夜はもう何もしないほうがいいとは思わない?
ブルース:だめだ。もう計画を立ててある。僕は計画を変えたりしない。
セシリー:(落ち着いて)そう、いいわ。
ブルース:君は勘がいいほうだよね。
セシリー:どういう意味?
ブルース:君は男に頼ってばかりいる女じゃないね。「そう、いいわ。」なんて言って、落着き払っていられる女はそうはいない。でもたいていの女は、みんなバカだ。(一人笑い)
セシリー:(会話を続けようと努力している)そう思う?
ブルース:そうでもないけど・・・なんと言うか、やっぱりもともと、バカだ。
セシリー:あなたの言う通りかもしれないわね。
ブルース:そして、そういう女の弱点に男はつけ込むのさ。誰かがそう書いたのだったか? それとも、自分で思いついたのか? 自分で思いついたのなら、たいしたものだ。えらいもんだ!「女の弱点に男はつけこむ」
セシリー:あなたの洞察力はすごいわね。・・・・コーヒーはいかが。
ブルース:いただくよ。・・・・そう、君の言うとおり。僕の洞察力はすごい。僕は女性を熟知している。ほんの若い頃から、僕のちょっとした仕草で、女性が言いなりになることを発見したんだ。素晴らしい才能だ。
セシリー:きっとそうでしょうね。
ブルース:少年っぽさ。そういうのが女性は好きなのさ。母性本能をくすぐるんだね。そう、その辺の男たちとは、ちょっと違う感じを出しておく。
セシリー:どうやって?
ブルース:例えば、アメリカにいる時は、イギリス人らしく気取った話し方をて、出来れば、肩書きがあるといい。イギリスにいる時は、植民地から来たような感じか、アメリカ人ぽい野暮な感じが受ける。男らしく冒険の話をしたりね。草原地帯での話とか・・・。結構うまくひっかかるものさ。不動産屋から、君が宝くじに当たったから、アパートを貸すことにしたと聞いたとたんに、これはうまくいく、と思った。そして、君に実際あって、本当の恋に落ちた。だろ?(セシリーの手を取る)めでたし、めでたし。
セシリー:(立つ)なんだか、空気が薄いみたい。あら、ドアも窓も全部閉めてしまったのね。息が苦しい。
(ブルース、立って、セシリーをとてもやさしく丁寧に椅子に座らせる)
ブルース:どうした。震えているじゃないか。夜風に当たるのは良くない。コーヒーがいいだろう。きっと効くよ。
(ブルースはコーヒーを注いでやり、それから、"メアリー・ウィドウ"ワルツをハミングしながらステージ右手の暗がりまでふらりと行って、ソファの上からグリブルの本を取ってくる。彼の声が暗がりから、大きく早口で聞こえる)
ブルース:先生が僕と同じ本を読んでいるなんて、おかしな偶然だなあ。そんな事って、あるだろうか・・・いや、まさか、そんなはずがない。不思議な偶然だが。
セシリー:偶然よ、そうじゃない?
ブルース:先生はこんな本を読んでどうする気なのだろう。この手の本はいつも、情けないほど間違いだらけなんだ。殺人者は狂人だと書いてある。どこかのネジが曲がっている、と書いてある。ばかばかしい。殺人者はたいてい、他の人々よりはちょっとだけまともなものだ。そう思わないか。
セシリー:ええ、なんというか、・・・おっしゃる通りね。
ブルース:(本を持ったまま)アームストロングは頭のいいやつだったが、まだ十分に賢くなかった。ルゲリ―のパルマ―は、自信過剰だった。二人とも同じ様にへまをして、それが命取りだった。さあ、これがベリングハムだ。彼をどう思う、セシリー。
セシリー:私はこの分野は興味がないの、ご存知でしょう。彼のことは何も知らないわ。
ブルース:知らない? ああ、残念だ。彼は研究する価値のある男だ。一番賢い。しくじった事がない。いつだって女たちは彼に一目ぼれで、田舎に住もうと言えば一緒に行くし、遺産を譲るサインだってするんだ。(本を持ったままテーブルに戻る)
セシリー:とても頭のいい人なのね。
ブルース:天才さ。先生とこの事件のことを話したかい?
セシリー:(集中できない)どうだったかしら・・・ああ、そう、そう、何か、独特な事件だと言っていたわ。
(ブルースはテーブルの上の箱からタバコを取り、火を点けて、自分の椅子に座る)
ブルース:そうか。彼もいいことを言うな。確かにそうだったし、いや、そうなんだ・・・しかし、どうして先生が同じ本を読んでいたという事が、こんなに気になるんだろう。
セシリー:さあ、なぜかしら。趣味が同じだったのね。それに新しく出た本だったのでしょう。
ブルース:しかしなぜ今日になって・・・・
セシリー:いけない?
ブルース:(本を置く)いや、気にしないでくれ。
セシリー:(立って二階へ行こうとする)もういいかしら、ブルース。すぐにベッドに行って休みたいの。とっても疲れたわ。
ブルース:(セシリーの左手をつかんで、彼女を止める)だめだ。手伝うと約束したのを忘れたのか。座ってくれ。いい考えがある。この本を僕に読んで聞かせてくれ。(セシリーの前に本を差し出す)何千人もの読者がこれを読んだし、今も読んでいるだろうが、本当のことを知っている者はいない。気の毒だな!そう、そう、それがいい。ベリングハムの所を読んでくれ。序文から読んでくれ。そこが一番いいところなんだから。
(ブルースはイスをやや舞台内向きに動かし、ポケットから単眼鏡を取り出してつける。そして読書の喜びに浸るといった趣で、ゆったりと椅子にもたれる)
セシリー:(目の前のテーブルの上に置かれた本を、速く、機械的に読む)「ジョージ・エドワード・ベリングハムとは、裁判にかけられた名前だが、本名はいまだ知られていない」
(ブルース、くすくす笑う)
セシリー:「・・・数多くの偽名を持ち、広く知られたあだ名としては、"ダーキー"・ベリングハム、"カリフォルニアの青ひげ"などがある。証拠不十分と、素晴らしい弁護のおかげで、殺人未遂の罪を免れたものの、少なくとも五人の若い女性を殺害した疑惑がかけられている」
ブルース:(セシリーが読んでいるところに口をはさむ)五人だと!はっ、はっ、はっ!
セシリー:「罷免された後、ベリングハムは消息を絶ったが、三ヶ月の後、不確かだった証拠の正当性が明らかになった」
ブルース:もっと大きな声で。
セシリー:「彼がそのつど借りていた数々の家屋の地下室の床下から、四人の遺体が埋められているのが見つかったのだ」
ブルース:もっと大きな声で。
セシリー:(とても大きな声で)「彼の手口は、女性と親しくなって、数週間後、時には数日、という短期間で結婚する。そして、彼女が持っている財産を全て彼に譲るように書類にサインをさせるのだ」
ブルース:まだ良く聞こえないな。
セシリー:(ほとんど、叫ぶように)「人里はなれた場所に小さな家を借りるのが、彼の常套手段だ。二、三ヶ月そこで過ごした後、隣人や知り合いに、夫婦でしばらく外国へ出かける、と伝える。実際には、その時のベリングハム夫人が家を出るところは、全く見られていないわけだが、誰にも怪しまれない。どのケースでも地下室は、大変近寄りがたい場所として扱われているが、もし、・・・」(読むのを中断する)ねえ、ブルース、被害者のうち、事前に気が付いて命乞いをして、殺されずにすんだ人はいないのかしら。
ブルース:なぜ聞く。
(セシリーは機械的に煙草入れからタバコを取り出す。その箱を膝の上に置き、次のシーンの間中、もじもじとタバコをもてあそんで、バラバラにしてしまう)
セシリー:それは、そういう男性がそういう時、どういう反応をするのか知りたいからよ。もしその女性を愛していたら。何人かは本当に好きだったのじゃないかしら。
ブルース:ああ、そうさ。確かに、少しはね。
セシリー:それなら、その女性の頼みを聞いたのじゃないかしら。
ブルース:そんな事にはならなかったなあ・・・いや、想像だがね。しかし、ない、ない。彼は誰にも影響されなかったのは確かだと思う。
セシリー:でも、もし、あなたが言ったように、その人を愛していて・・・
ブルース:いや、君はわかっていない。それが彼の職業なのだから。その女性たちは、彼にとっては、お金なんだよ。
セシリー:わかったわ。でも、その女性がこんな風に言ったとしたら? 「ねえ、あなたが誰で、何者なのか分かったわ。後生だから、私の財産を全部差し上げますから」
ブルース:ああ、でも彼はその時点で、既に金を全部手に入れているんだよ。
セシリー:そうね、でも、もし彼女がこう言ったら?「かまわないわ、私の有り金、一ペニーも残さず持って行って。もし見逃してくれるのなら、決してあなたを訴えたりしないし、警察に言ったりもしないわ」こう言ったら、彼ならなんて言うかしら。
ブルース:決して見逃したりしないだろう。(笑いながら)どこに、女が黙っているかどうかに賭けるやつがいる?
セシリー:それでもね、彼だって実際に手を下すという恐怖から免れてホッとする、ということはないかしら。・・・でも、そうね、・・・それはおかしいわね、・・・彼には恐怖でもなんでもないのかもしれないわね。
ブルース:(夢見がちに)ないね。殺人には恐怖とは違う面もあると考えてごらん。音楽のクライマックスの時のように、神になったような力を感じる。誰かをこの腕をつかんだと思ったら、次の瞬間には、それは別の物に変わっているなんて。
(時計が九時を告げ始める)
(ブルースはゆっくりと立ち上がり、鐘の音に合わせてゆっくりと時計の方へと回っていく。彼の視線は時計に魅せられたように釘付けだ。セシリーは、檻に入れられているかのように、必死な様子で、辺りに視線を這わし、やがて膝の上の煙草入れに気が付く。それを手にすると、突然アイディアが浮かぶ。一か八かの決心がついた時、ブルースが向かってくる。
ブルース:(暴力的に)さて!
セシリー:だめよ、待って!言わなきゃならないことがあるの。
ブルース:聞きたくないね。
セシリー:重要なの。殺人の事よ!
ブルース:(はっとして)えっ?
セシリー:聞きたいでしょう? そりゃそうよ。だって、あなたの、命にかかわる事ですもの。
ブルース:なんだと?
セシリー:聞いて、ブルース、こういうのは変な話だと思うけど、もし、殺人鬼の結婚相手も殺人鬼だったとしたら。
ブルース:確かに変な話だな。
セシリー:そうでしょう。アラビアン・ナイトよりはるかに変な話だけど、事実なの。(きっぱりとした態度で、ブルースにうむを言わせない。立ち上がってイスの後ろに回る。必死で知恵を巡らす)それは、私のことなのよ、ブルース。一人の男を殺したことがあるわ。でもばれなかった。
ブルース:へえ、そうか。(自分のことは置いておいて、興味を持つ。座る)
セシリー:わかるでしょう、どんな感じか。あなたならわかるはずよ、隠し事をするって、どういう感じか。
ブルース:ああ、たまらないね・・・
セシリー:ええと、ええと、最初から言うと、私、結婚していた事があるの。私の母しか知らないわ。
ブルース:いつの事だ?
セシリー:十八だったわ。その男の秘書をしていたの。金持ちだったわ。私は貧乏にうんざりしていたし、そこから抜け出せるいいチャンスだと思ったの。でも彼は、意地悪で、ひどい男だったわ。一ペニーまでうるさく言う、けちな男だった。でも彼のおかげで、アイディアが浮かんだのよ。彼はよくこう言ったわ。「今節約しておけば、私が死んだとき、より多くおまえに残せるんだ」
ブルース:どこでの話だ?
セシリー:ええっと、東海岸よ。小さな、嫌な町だったわ。いつも風が吹いていて、止まないの。
ブルース:それで。
セシリー:私は頭の中で何度も何度も計画を練ったわ。そしてとうとう、チャンスがやってきたのよ。
ブルース:毒か? 女はたいてい毒を使う。
セシリー:いいえ、それよりもっと安全な物。その冬、彼はひどく具合が悪くなったわ。医者は肺炎だと言ったわ。私は打ちのめされたフリをしたの。みんな騙されたわ。病気の時でさえ、彼の意地悪は治らなかった。付き添いの看護婦は一人きりだったから、夜は私が代わってあげることにしたの。皆私の献身だと思ったわ。うまくやったわ。
ブルース:賢いな。
セシリー:お医者様は、仔細に渡って指示をくれたわ。部屋を温かく保つとか、色々。ある夜、彼と二人きりの時、危篤状態になったの。私は彼の枕もとに跪いて祈ったわ、彼が死にますように、と。ずいぶん長い間跪いて祈った後、見ると、彼はぐっすりと眠っていたの。危機は去って、良くなってきた。私は窓辺に行ったの。今でも目に見えるようだわ、窓枠に霜が、それは美しい模様を描いていたの。それを眺めているうちに、決心がついたわ。
(間)
ブルース:窓を開けたのか。
セシリー:外気はナイフのように鋭かったわ。私は彼の掛け布団を剥ぎ取って、ドアを開けたままにしたの。そんなに時間はかからなかったわ。後で戻ってみたら、もう死んでいたってわけ。私は窓を閉め、暖炉を燃やして、ベッドに熱い湯たんぽまで入れたの。それから、お医者に電話をしたわ。
(また、間)
ブルース:誰も疑わなかったのか。
セシリー:ちっとも。みんな私を憐れんでくれたわ。
ブルース:それで、金は?
セシリー:ああ、私って、バカね、すぐに使い切っちゃったわ。
ブルース:なるほど、よくわかったよ。(立つ)でも一つだけ分からないことがある。どうして今そんなことを話した?
セシリー:あら、分からない? これで本当の私がわかったと思うけど、こうやって秘密を明かしたのも、私たち、お互いに助け合っていけるんじゃないかと思ったからよ。
ブルース:そうだな、それはいいかもしれない。その話が本当だったらね。(間)なかなか賢いじゃないか、セシリー。僕の注意を引いて、話題をそらそうとするなんて。(中央に向いて、話しながら笑わずにいられない)どこから仕入れた話か、分かるさ。僕だってこの本を読んだのだから。
(セシリー、地下室そばの樫の木の梁の方へ後ずさる。ブルースは笑いながら声を張り上げ、テーブルの方へ下がる)
ブルース:その湯たんぽの話、覚えているさ。なかなかいアイディアだと思ったからな。(笑う)ま、ま、窓を開けて、死ぬのを待っただと!そんな話を僕が信じるとは思っていないだろう?
セシリー:(テーブルの方へ移り、必死で、落ち着いて話す)そうよ、あなたがこんな話信じるなんて、少しも思っていないわ。信じようが信じまいが、どうでもいいの。
ブルース:なに? どうでもいいだと・・
セシリー:なにか忘れている事があるわよ。・・・私はコーヒーを飲んでいないってこと。
ブルース:コーヒー? コーヒーに何をした?
セシリー:あなたの注意を少しでもそらして、時間を稼ぎたかっただけだから。
ブルース:時間を稼いで、なにを・・・?
セシリー:ことを済ますためにね。
ブルース:(湧きあがる恐怖から、凍るように立ち尽くしている)信じないぞ、それも作り話だ、おまえになんか、そんなこと・・・
セシリー:あなたは正しかったわ。グリブル先生が同じ本を読んでいるなんて、おかしな偶然だわよね。
ブルース:グリブル? 彼は・・・彼がおまえにくれたといっただろう? (セシリーの話を信じた様子で、椅子に倒れこむ)
セシリー:(彼に飛びついて、コートの襟首をつかむ)そうよ、そうなのよ。単純な話でしょう。彼はあなたの事をよく診察したから、もう取り調べる必要はないわね。
ブルース:取調べ、だと? お、お、おまえは・・!
セシリー:あら、効果がでてきたようね。だんだん息が苦しくなってくるのよ。そして体が麻痺してくるわ。動けないでしょう? 麻痺しているのよ!
ブルース:(息が絶え絶え)ぼ、ぼ、僕は・・・(頭を振る)ぼ・・・
セシリー:体が痺れてきて、寒気がするはずよ。体中の機能を奪っていくわ・・・手が動かないでしょう、足も・・・
(ブルースは咽喉から苦しげなうめき声をあげる。セシリーは、恐怖の瞳でブルースを凝視し、地下室そばの柱の方へ下がる。彼女が柱にたどり着くと、玄関を激しくノックする音がする。セシリーは玄関へと走る。外からナイジェルの声が聞こえる)
ナイジェル:(声)セシリー、セシリー、そこにいるのか?
セシリー:(ヒステリックに叫ぶ)ナイジェル!ナイジェル!助けて!すぐに!(ドアを開けようとするが、出来ない)ああ、鍵がかがっているわ!鍵は彼が持っている!開けられない!ここから出して!ここから出してちょうだい!気が狂いそうよ!(激しくドアを叩き、叫ぶ)
(ガラスが割れる音。ナイジェルがフランス窓を開け、中に入ってくる。彼はさっと室内に目を走らせて、まっすぐにセシリーのもとへ。その後をメイヴィスが続く)
ナイジェル:もう大丈夫だ・・・。静かに!落ち着いて!もう安全だから。
メイヴィス:戻ってきて良かったわ。
セシリー:(ヒスッテリックにわめく)ここから出して!外へ連れて行って!
(ナイジェルはセシリーを抱きかかえて、窓辺へと導く)
ナイジェル:安心してくれ、ダーリン。もう大丈夫だ。僕らがついている。やつはもう手出しできない。大丈夫だ。
(セシリーの泣き声が遠ざかっていく。静けさ。ブルースの体はイスの上に、だらりと乗っているばかりである。


"エジプト・ロマンの旅"に参加して

伊東 絹子

 NHKアニメの放映や「クリスティー全集」の刊行のおかげでしょうが、このところクリスティ関連の雑文書きに追われていて、もはや一年前のことはあらかた忘れました。阪急交通社から、“エジプト・ロマンの旅"をファンクラブ会員に紹介してほしいと頼まれたことも、記憶は曖味なのですが、昨年の10月頃だったと思います。興味を持ちそうな会員の住所・氏名を独断で知らせたのですが(ご迷惑をお掛けしましたらスミマセン)、伊東さんはその旅行に参加されたので、早速レポートを書いてもらいました。
 クリスティは何回もエジプトに滞在しているはずですが、はっきりしているのは、1933年に夫マックスや一人娘ロザリンドとともにナイル河を遡る旅行をしていることです。『ナイルに死す』(1937)は、その旅の経験から生れました。また古代エジプトを舞台にした戯曲『アクナーテン』も、執筆は1930年代後半ですから、やはりその旅に影響を受けたのでしよう。  それにしても、伊東さんはクリスティ・ファンらしい旅行をしていて、羨ましいですね(S)。


 エジプトへの旅行は、『ナイルに死す』をなぞってみたいという単純なキッカケだったわけで、ピラミッドやスフインクス、神殿などは絵をみれば判ることだし、今更といった軽い気持ちでしたから、オプションはほとんどパスでした。どうせ手垢のついた観光資源だし、去年の記憶さえ定かでない自分なのに五千年前の神殿やお墓を見たってしょうがないでしょう……と、まぁ、ひねくれた老婆のつぶやきだったわけです。ただひとつの楽しみは、1937年に書かれたこの作品のなかの数々の気になる個所が今はどうなっているのか……と云う点だけで、ひたすら”オールド.カタラクト.ホテル”のみ旅のメインとして出発したわけです。
 アリタリア航空でミラノ乗換え、4時間待ちでカイロに着いたのが成田から数えて19時間半(この時点で早くもUターンしたかった)。バスに1時間揺られて、何とかいうリゾートホテルに着いて、(真夜中)寝たか寝ないうち、朦朧とバスに揺られて着いたのがギザの3大ピラミッドです。
 なんと言えばいいんでしょう! この建造物を!! どこのおバカさんが作ったの??? みたいな……砂漠。完全武装の警察官が乗っているラクダが1頭、あっちのほうをとぼとぼと……。朝早いので観光客は我々14名だけ。どこからみても、よくあるエジプトの風景です。もう、寸ぷんたがわず!こんなはずないでしょ? ったって、あの絵のまんま。
 まさに不変の文化をこの足で踏んでるわけで……。簡単に、ただちに、情けないほど感動している自分に驚きました。ろくな知識もない私は、どうしてもあの国のことは語れません。どうか、数藤さん、騙されたと思ってご自分の足で歩いてきてください。
 さて、アスワンの「オールド.カタラクト.ホテル」(下の写真)ですが、始まりは王宮だったそうです。ナイル川に面していて正面中央の玄関をはいって、ロビーを抜けると広めのテラスがあって、目の前の庭はいちめんブーゲンビリアでした。小説のP81にあるようにテラスには沢山の籐椅子がおかれています。小説では真っ赤に塗られた……とありますが、茶色でした。わたしは殆ど1日、ここでお茶を飲み、ケーキを食べて、滞在客たちを探訪しておりました。

 客の殆どは英語を話す人種で、働いてる人々は、マネージャー以外はエジプト人、たまに英語を話せるヌビア人の娘が接客しています。小説には、ホテルの対岸にあるエレフアント島のことが出てきます。ここへは、専用の船が……と書かれています。そうです、ヌビア人が操る帆掛け舟があって、ホテル客専用の渡し舟ですから渡し場にいけばいつでも乗れます。 この島以外にも、レストランのある小島があって、ここから見たホテルはほんとに素晴らしいです。川を行き交いながら、ホテルを眺め、エジプト人でも解読できないヌビア人(現地人)の歌う舟歌(のようなもの)を訊きながら万感の思いをもってホテルの偉容を眺めたものです。
 さて、「籐椅子が赤く塗られていた」という文章にちょっと拘って、マネージャーに尋ねてみました。そしたら、当時メインダイニングで着用する使用人の制服は真っ赤だったそうです。その写真がメインダイニングの入り口あたりに掛けてありましたから本当でしょう。このダイニングで、着いた夜、食事をしましたが、我々団体客は一般客から見えないような場所でした。
 小説の大きなアクセントになっている、134本の大列柱室のある世界最大の神殿、カルナック神殿。この神殿までは3Kあって、両側はスフインクスが並び、半分は羊の頭、半分は、ラムセス2世の頭で作られています。それで、早速列柱室に入り、いったいどうやって石を落としたかを調べました。なかなか難しくて、これはひょっとしたら……と思い始めた頃、一箇所に、柱に登れる隠れて見えない梯子がありました。これは、古くなって周りが生い茂って見えないだけの話であって、べつに隠しているわけではないそうです。ですから、その予定のある方は、うまい口実をもうけてルクソールに出かけてカルナック神殿で実行されたらいかがでしょうか?
 小説P83に、ポアロがミセスアラートンと2人で、ホテルの門をでて左に曲がって、公園の涼しい木陰に入っていった……という文章があって、わたしもその通り歩いてみました。公園もそのまんま、涼しい木陰もその通りです。
 1937年いらい、67年も経って、当時の小説にでてくるポアロと同じ体験ができることの感激ったらないですね。蝿のように群がる物売りの子供たちの風景もいっしょです。エジプトが大好きです。何度でもいきたい。それは、私の子供時代と大差のない生き方や人々の優しさが、日頃から何か違うんじゃないの?と疑問に思っていたことの答えがあったように思います。難しいことはなにも分りません。でも、はなはだしく、わたしの琴線に触れたことは事実です。
 一冊の小説が、73歳の女性をこのように感動させてくれた事実をアガサ.クリステイーに心から「有難う」と申しあげたい。


クリスティ症候群患者の告白(その37)

数藤 康雄

8月×日 突然のことながら、久し振りに神田の早川ビルー階にある喫茶室「クリスティー」に行く。文庫版<クリスティー全集>の百巻めについて早川書房編集部と相談するためである。編集部の意向は、クリスティ辞典を作りたいということで、打ち合せの結果、1990年に出した『新版クリスティー読本』の中の「クリスティー主要登場人物事典」と「クリスティー小百科事典」に、作品事典や映画化・テレビ化リスト、戯曲リスト、略年譜、エッセイなどを収録することになった。だが問題は作品事典にあつた。
 というのも、作品事典については、戯由や普通小説を含む全長編作品82冊の内容を、各一頁に収めるために42字×14行で、短編集は各短編を42字×4行でまとめてほしいと依頼されたからである。しかも刊行は11月中旬になるので、原稿締め切りはlヶ月後という厳しさ!
 そこでクリスティ会員に全面的に協力を仰ぐという大作戦を即座に開始することにした。会員1人に3冊を担当してもらい、約30人の会員の協力が得られるならば、 lヶ月でも可能と考えたからである。
 まず私のアドレス帳に載っている30名ほどの会員にお願いのメールを送った。もっとも早い人からは20分ほどでOKの返事がきたが、夏休みのせいか、期待したほどの人数にはならなかった。そこで次なる作戦というわけで、前回『新版クリスティー読本』に協力されたファンクラブ員を中心に、約30名ほどの会員に郵便でお願いの手紙を発送した。しかし郵便だと返事がくるまでに早くても三日、遅くなると一週間もかかり、一ヶ月のうちの貴重な一週間を浪費する結果になってしまった。もちろんこの間に、協力可能と返事をくれた会員には、次々に担当作品を割り当てたりと、事務的な仕事に勤しんだが、協力率(?)は50%に満たず、10日たっても70冊ほどの担当者が決まっただけだった。そこで思い寸いたのがピンポイント作戦である。例えば杉みき子さんには『謎のクィン氏』を、正田巌さんには『ねじれた家』を強引にお願いするというものだが、これは数多く実施できるものではない。結局人気のない長篇や戯曲を何冊か私が担当しても、未担当作品をゼロにすることはできなかった。
 だが救いの神はどこかにいるもので、残りはすべて私の担当と決めたとき、なんということか、長い夏休み(?)から戻ってきた一人と、パソコンの買い換えで数週間インターネットに接続出来なかったもう一人から遅れてメールが届き、二人とも快く数作の作品を担当してくれたのである。最終的に全作品の担当者が決まったのは8月15日を過ぎていた。
 当然のことながら、それらの調整作業と併行して、前回の「クリスティー主要登場人物事典|と「クリステイー小百科事典|のチェックも始めていた。前回の人物事典は、会員30人ほどで分担した手書きの原稿を私が文字通り鋏と糊で切り貼りして作成したので、もはや誰がどの文章を書いたかまったく見当がつかない。このためチェックは私の責任で行なつたが、当初考えていなかった問題のあることがわかった。だが、それらは次号にまわすということで(忘れなければですが)、重要なことを一点だけ書いておく。
 実は会員の原稿を全部集めた段階で、文庫版<クリスティー全集>の短篇集には抜けている短篇のあることがわかったのだ。「愛犬の死」と「白木蓮の花」である。それらが抜けていては、全集として画竜点晴を欠くというもの。そこで、そのことを編集部の人に話すと、その後の展開の早いこと、早いこと。 lヶ月後の10月中旬に発売された文庫版『マン島の黄金』には、その2本の短篇が追加収録されていた。より完壁な全集に近づいたわけだから、これは今回の仕事の嬉しい副産物といっておこう。
 それにしても百科事典と名のつくものをlヶ月ほどで完成させたとは、珍記録ではないか? 短期間の作業では、どうしても間違いが起きやすいと思われるので、不明・不備な点はぜひ指摘してください。
8月×日 一番1亡しいときであったが、江戸川乱歩展が池袋の東武デパートであり、立教大学所有のあの幻影城が公開されるというので、寸暇を惜しんで池袋に行く。特に見たいのは幻影城の内部であったが、入り口のガラス扉にはしつかり鍵がかかっている。許されるのはそこから覗くだけという状態で、土蔵の三階に昇ることなど不可能であつた。熱心な人は、そのガラスに顔を押しつけるようにして書庫の様子を見ていたが、老眼の身には内部が暗くて本の題名などほとんど判別がつかない。というわけで早々に引き揚げてしまったが、私の予想より幻影城は小さかった。学会出席などで、工学部や医学部のある大学には結構足を運んだものだが、立教大学には工学部も医学部もないので、校内に入ったのは実は今回が初めて。蔦の絡まる校舎なども見え、大学の方が印象に残る始末だった。とはいえ、かなりの人出だったのには驚いた。江戸川乱歩の人気は、クリスティの比ではない?


ティー・ラウンジ

  ■いろんな本を読んできましたけれど、クリスティだけは繰り返しなんども、それもほとんどの作品をまとめて読んでいます。読み終わると本は処分して、次に読むときはまた買い揃えます。最初は、創元推理文庫とHPBで揃えましたが、そのころは揃えるのに古本屋をあさりました。次はハヤカワ・ミステリ文庫が発刊され、出るたびに読みました。さらに古本屋さんでもう一度揃え直して、この時は探偵別、時代順でまとめて読みました。そしてこんどはクリスティ文庫100巻を発行順に読んでいます。新刊で全8万円はちょっとつらいですが、字が大きくなったのがなによりすばらしいです。出るたびに残さず読んで、次の配本が待ち遠しいくらいです。どの作品も3〜4回は読んでいるので、ある程度は思い出すのですが、結末を覚えていても、覚えていなくても、楽しめます。私はもともと、ファンタジィとしてミステリを読んでいますので、メロドラマ風のところもあるクリスティがぴったりです(佐々木健太さん)。
■それにしてもクイーンもカーも、あるいは他の30年代の本格物でも、やはりある程度構えて読む覚悟がいるのに対して、クリスティはいまだに新鮮さを保っているのは驚きです。なにかホッとする読み易さを感じます。『三幕の悲劇』を久し振りに読んでいるところです(佐藤康則さん)。
■目下の楽しみは、ミステリチャンネルの「名探偵ポアロ」。短篇シリーズが終了し、長篇ものが始まりました。デビッド・スーシェはポアロそのもので、まったく見飽きません。私の書棚には赤い表紙のハヤカワ・ミステリ文庫がズラリ! さながらサンクチュアリといったところです(小川淳子さん)。
■私の原稿(「クリスマスにはクリスティのロンドン」)が巻頭で恐縮しました。メールで送った原稿末尾の写真(10頁)は、「ねずみとり」が初演された記念すべきノッティンガム・ロイヤル・シアターの写真です。説明不足だったでしょうか? セント・ポール大聖堂は青い丸屋根の有名なロンドン名所だから、読んだ人は一読して間違いだとわかってくれると思いますが。知らない人は、「大聖堂」にしては小さい、十字架が付いてない、教会らしくない、セント・マーティンズ・シアターにしては大振りだ、はて……と首をひねるでしょうか?(阿部純子さん)

 セント・ポール大聖堂は上の写真のとおりでした。無知なのがバレましたが、ご容赦のほど、よろしく。なお写真はインターネット上の「行きたいのは山々」(http://www.asahi-net.or.jp/~nm3k-tgc/index.html)にある使用自由な写真をダウンロードしました。HPの管理者に謝意を表します(S)。
■余談ですが、先月、スーシェの声を担当している熊倉一夫さんに、虎ノ門病院でばったりお会いしました。先方は私のことを知らないのですからご挨拶などするはずもありませんが、診察室の中から「くまくらかずおさーん」と呼ばれて中に入り、診察を終えて私の前を通って受付の方へ歩いて行かれました。テレビ出演で顔を見知っていたのですぐにわかりました。この病院では、場所柄、国会議員の先生やテレビのレポーターをときたま見かけます。でもあのポアロの声優さんと会うなんて……(安藤靖子さん)。
■今回はナショナル・ポートレイト・ギャラリーに行きまして、数々の肖像画を見てきました。D・L・セイヤーズは相当目立つ場所に他の二人のこわい表情の女性と共に鎮座していました。右手にバイブルらしき本(?)、左手にタバコをもって少し目を左に寄せて、一筋縄ではいかない表情が彼女らしくて、苦笑してしまいました。クリスティの肖像画は調べてもらったのですが、収蔵されていなくて残念でした。D・L・セイヤーズの絵ハガキもなく、不公平ですよね(村上由美さん)。
■NHKの「名探偵ポワロとミス・マープル」、少々もの足りない思いをしながら、でも楽しんでいます。番組の終わりには「アガサ・クリスティ紀行」もつけ加えられ、NHKのなみなみならぬ意気込みを感じます。メイベルとアヒルをつけ加えたことで、家族向けに制作された意図も感じられます。英語に吹きかえれば、本国イギリスへも送り出せそうです(野川百合子さん)。
■イギリスでドラマ化された分のDVDをセットで買ってから、私の頭の中は「修道士カドフェル」一色になっています。随分前に一度読んだのですが、もう一度読み返し、映像と活字の両方で楽しんでいます。しばらくは(20冊読み終わるまで?)カドフェル熱が冷めそうにありません(上地恵津子さん)。
■わたしの書きなぐりに佐竹剛氏が感想を寄せていただき、うれしく思います。そうか、『そして誰もいなくなった』のオリヴァ-は別人なのね……ちょっとつまんない。アガサならやりかねない気がしたのですが。手塚治虫は私も大好きで、『ブラック・ジャック』のある物語では、アトムまでが人間で、兄の復讐に燃える少年で出演しています。楽しいですよね。確かにミス・マープルとポアロの接点はないですね。私なら"バートラム・ホテル"のラウンジで隣り合わせのテーブルになったとか、そうだ、ヘイスティングズ夫人の親戚がセントメアリー・ミードにいる、なんていうのはどうでしょう。ま、アガサは途中からヘイスティングズを中南米に追っ払いたくなったそうだから、ダメか(山田由美子さん)。
■イギリスに住む娘より、津野志摩子先生の『アガサ・クリスティと訪ねる南西イギリス』が面白いよと言われて近くの本屋に聞いたら、もう無いとのこと。娘にメールしましたら、津野先生よりメールが来て、岡山に住んでいる原田豊美さんが持っているとのことで、原田さんにメールしましたら、まだ在庫があるそうで、すぐ申し込みました。もしご希望の方がおられましたら、どうぞご連絡下さい。(上竹實さん)。
■朝日新聞社2001年2月発行のAERAMook「恐竜学がわかる。」:絶滅をまねいた地球環境(平野弘道氏)の中で、ペルム紀末の絶滅の原因についての説を紹介した後[アメリカの古生物学者エルウィンは、この状況はアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』とよく似ていると思った。「すべてが怪しいが、決定的証拠が欠けている」というわけだ。]と書いています。ちょっと畑違いの、意外なところで見つけたクリスティでした。またスティーブン・ジェイ・グールドの『フルハウス・生命の全容』第二部で「それが、まるでアガサ・クリスティーの小説のように、一種また一種と死滅していき、最後は一種もいなくなったのである」。馬の進化に関係した文章のなかで見つけました(秋山哲夫さん)。
■昨年の11月に「そして誰もいなくなった」を大阪で見たのですが、配役が役柄にあまりあっていなくて、平凡な演出(ストーリーを追っていくだけ)のように思いました。最近クリスティ文庫の原作を読んだのですが、最後の結末も違いますが、それぞれの登場人物の性格描写や息詰まるような緊張感はこの演劇からは感じられませんでした。心理描写や場面展開は原作の方が数段上質でした(新谷里美さん)。
■大正から昭和期にかけて発刊された雑誌「新青年」の復刻版のごく一部を複写しましたので同封しました。「ポアロの頭シリーズ」の紹介文と本文、「敗れし人」の掲載目次と紹介文です(成瀬幸枝さん)
 ありがとうございます。すでに禿げのポアロが登場しているのですね(S)。
■今、旅の荷の中には生まれ変わった<クリスティー文庫>があります。文字も大きく、すばらしい装丁がまず気に入りまして、全百巻の刊行を心待ちにしております。第一回配本『スタイルズ荘の怪事件』の解説はS氏ではありませんか。晩年のクリスティに招待され、あの別荘グリーンウェイ・ハウスに一泊などされたことは、すばらしい人生の想い出のひとつとして大切になさっているのでしょうね。私の旅も人と出会う、自然と一体となる、その一期一会があるからこそ、再びの旅ごころをかきたてられ、出かけて行くのかもしれません。
     パディントン発4時50分や冬の雷    ひろこ         (土居ノ内寛子さん)
■NHKアニメのおこぼれ(?)で、この機関誌が届く頃にNHK出版から『アガサ・クリスティ紀行』(仮題)が出版されているはずです。私は監修ということで、いくつか雑文を書いています。興味がありましたら手にとってみてください。今号は戯曲だけで30頁を占有しましたが、戯曲の連載は今号で終了です。次号からは紙面が大幅に空きますので、文庫版<クリスティー全集>を始めとして、戯曲「ナイル殺人事件」、戯曲「春にして君を離れ」、HNKアニメなどの感想をどしどしお寄せください。よろしく!
 会員協力による文庫本完成記念! ということで、今号の会費はサービスとします。もっとも、もはやスタミナ切れで、会費切れなどと書いたメモを入れる手間を省きかったこともありますが。年末年始は、様々な媒体のクリスティ作品をお楽しみください。メリー・クリスマス! & 謹賀新年!


 ・・・・・・・・・・ウインタブルック・ハウス通信・・・・・・・・・・・・
☆ 編集者:数藤康雄           ☆ 発行日 :2004.12.24
  三鷹市XX町XーXーX          ☆ 会 費 :年 500 円
☆ 発行所:KS社              ☆ 振替番号:00190-7-66325
                        ☆ 名 称 :クリスティ・ファン・クラブ


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