ウインタブルック・ハウス通信

クリスティ・ファンクラブ機関誌

2000.9.15  NO.59

 我が家の家宝"粘土細工のインディアン島"を制作されたイラストレータの桜井一さん(作家の風間一樹さん)が昨年亡くなりました。またかつての私の仕事仲間の奥さんも、最近亡くなられたことを知りました。いずれの方も私より若い歳です。
 誰にでも必ずやってくる死が、身近に感じられるようになりました。そこでWH通信の今後です。どうしよう? 続きは「クリスティ症候群患者の告白」で――(S)。


< 目  次 >

◎戯曲「三人でお茶を」――――――――――――――――――――原作:アガサ・クリスティー
                                           脚色:マージョリー・ヴォスパー
                                           翻訳:小堀 久子
◎クリスティ協会総会への二度目の出席―――――――――――――谷口 多美恵
◎ミセス鈴木のパン・お菓子教室  第10回 ローリィポーリィ ――――鈴木 千佳子
◎『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?』を読む ―――――――林 克郎
◎クリスティ症候群患者の告白(その28)―――――――――――――数藤 康雄
◎ティー・ラウンジ
★表紙   高田 雄吉


戯曲「三人でお茶を」

原作:アガサ・クリスティ
脚色:マージョリー・ヴォスパー
翻訳:小堀 久子

 この戯曲("Tea For Three")はクリスティの短編「事故」(『クリスティ短編全集2』に収録)を脚色したものです。おそらくクリスティに関するどの参考図書にも載っていないはずの珍品です。今の私の英語の実力を知っている人には信じてもらえないでしょうが、27年前に仕事で(!)ニューヨークに行った際、空き時間に立ち寄ったニューヨーク市立図書館で見つけました。
 表紙まではコピーしなかったので書誌的にはアヤシイ部分がありますが、出版社はボストンの"Baker's Plays"で、コピライトは1939年になっています。脚色者(Margery Vosper)についても不明ですが、1936年に公演された"Love From A Stranger"の脚色者がFrank Vosperなので、彼に関係した人間(妻?)なのかもしれません(S)。


舞台装置;幕が上がると、そこはメローデン夫妻の山荘の居間である。美しく整った部屋。チンツ地のカーテンや、陶磁器、生花などが部屋の空気を明るく新鮮なものにしている。奥の壁にはアルコーブがあり、玄関ホールとなっている。右手奥中央にはメローデン氏の研究室へ通じるドアがあり、舞台左手は台所へと通じている。右手の壁には窓。家具がいくつかある。小さなソファテーブルが一つとゆったりとしたソファ、そして肘掛けいす。左手奥の暖炉の上には、女性を描いた現代絵画が掛かっている。気品あふれる肖像画で、濃い色の髪を真ん中で分けたその姿は、美しいマドンナの趣がある。

時は夏の終わり頃のある午後で、暖炉は多年草の縁飾りで覆われている。

(舞台には誰もいない。しばらくして、玄関のベルが鳴る。小柄で学者風な男性、メローデン氏が、研究室から登場し玄関ドアへと行き過ぎる。メローデン氏は、町でよく見かける、古本屋の店先で本棚をじっと見つめていたり、小難しい週刊誌を列車の三等客車で読んでいたりというタイプである。"特徴のない人"の典型といえる。話し声がして、メローデン氏が戻り、その後から、エヴァンス氏、ヘイドック夫人が続いて登場する。エヴァンス氏は、身なり、体格とも申し分のない中年の男性で、充実した人生を送ってきたという自信と余裕がみなぎっている。ヘイドック夫人は、朗らかな女性で、年齢は不詳。仕立てのよい薄地のツイードを身につけ、帽子と靴に派手な飾りはないが、全身から女性らしさがあふれている。イギリスの田舎町のメインストリートに行けば毎朝でも、この手の女性が買い物袋を自家用車に押し込んでいる姿を見られるだろう)

ヘイドック夫人「エヴァンスさんとは初めてですわよね、メローデンさん」
メローデン氏「ええ、これまで機会がありませんでね。(エヴァンスに向かって)はじめまして、よろしくどうぞ」
ヘイドック夫人「私たち、奥様とはお昼過ぎに、牧師館の催しでお会いしましたのよ。奥様ったら、ぜひともあなたのところへ行って、私たちの新しい隣人を紹介しなさいっておっしゃるものだから」
メローデン氏「それは、嬉しい限りです」
エヴァンス「こちらこそ、よろしくどうぞ」
メローデン氏「我々の小さな共同体へようこそいらっしゃいました。田舎では、新しい出会いは嬉しいものです。孤立した生活になりがちですから、ご近所同士助け合って楽しみを見いださなければなりません。この村では退屈とは無縁ですよ」
エヴァンス「退屈ですか? 私はそれに浸りに来たのですよ。ロンドンにずっと閉じこもったような生活を送ってきますと、その平静さがありがたく思えてくるものです」
ヘイドック夫人「エヴァンスさんは、ロンドン警視庁を退職なさったばかりなんですのよ」
メローデン氏「ええ、聞いています。こんな小さな村にいると、何でも耳に入るものでしてね。警部さん、ですよね」
エヴァンス「ええ、そうです。でもそういうことは全て忘れていただきたい。今はただのエヴァンスですから。その方が、快適です」
メローデン氏「ヘイドックさんは、いつ外国に発たれるのですか」
ヘイドック夫人「今夜のフェリーに乗りますの。夕方ドーバーまで車で行きます。ここでお別れのご挨拶をしていきますわ」
メローデン氏「それは寂しいですな。そんなに頻繁にお目にかかっているわけではありませんがね。(エヴァンスに)妻も私も、それほど人づきあいが良い方ではありませんので。しかしあなた方より先に着いて出迎えられなかったとは、妻はがっかりするでしょう。いつ帰ってくるのやら...」
ヘイドック夫人「あら、気になさらないで。実は奥様は、お茶を一緒にとおっしゃってくれましたの。できるだけ早く帰るそうですわ」
エヴァンス「誰かに捕まっているのでしょう」
ヘイドック夫人「お別れする時、お医者様のブラッドバーン先生の、あのニキビ面の甥っ子が、それはみっともない豚の体重を当ててくれと、奥様にしきりに勧めていましたわね」
メローデン氏「大丈夫、すぐに逃げ出してくるでしょう。さて、まことに申し訳ないのですが、失礼してかまわないでしょうか。ご存じのように、化学に首を突っ込んでいましてね、実はちょっとした実験の最中で、目が離せないところなのです」
ヘイドック夫人「あら、面白そうね」
メローデン氏「ジェームス・マーシュの発明した砒素検出法の改良に取り組んでいるところなのです」
エヴァンス(笑いながら)「昔の仕事を思い出しますよ」
ヘイドック夫人「私たちなら、ご心配なさらないで。適当にやっていますから」
メローデン氏「それは助かります。妻は間もなく帰ってくるでしょう。座って、くつろいでいてください。テーブルにたばこがありますのでどうぞ」

(メローデン氏は研究室へと消える。エヴァンスは暖炉の前に立って、肖像画を見上げる)

エヴァンス(確信を持って)「同じ女性だ、間違いない」
ヘイドック夫人「どうしてそう自信を持って言えるの?」
エヴァンス「私は絶対に人の顔を忘れない。アンソニー夫人。そうだ、アンソニー夫人に間違いはない。君が今日の昼に紹介してくれた時、すぐにわかった」
ヘイドック夫人「ずいぶん昔のことでしょう。勘違いかもしれないとは、思わない?」
エヴァンス「9年。正確には9年と3ヶ月。君はあの事件を覚えているかな?」
ヘイドック夫人「そうねえ、ぼんやりとは。あの頃新聞では、持ちきりだったけど」
エヴァンス「夫のアンソニーが、砒素を常用していたとわかって、妻は釈放された」
ヘイドック夫人「そうね、妥当でしょう」
エヴァンス「動機が全く見あたらない。あの証拠からはその判断しかできなかった」
ヘイドック夫人「では、もう済んだことなのでしょう」
エヴァンス「済んだことではない」
ヘイドック夫人「その哀れな女性が、不幸にも殺人罪に問われるという恐ろしい体験をしてきたとしても、それを掘り起こして詮索する権利は、私たちにはないんじゃないかしら。(間)彼女は無罪だったのでしょう、さっきそう言ったけど」
エヴァンス「無罪だとは言っていない。釈放された、と言った」
ヘイドック夫人「同じことでしょう」
エヴァンス「君もロンドン警視庁で、数ヶ月でも働いてみたらいい。その二つが必ずしも同じ事ではないと、すぐにわかるだろう」
ヘイドック夫人「彼女が犯人だって、言いたいの?」
エヴァンス「そうは言わない。ただ、どちらだかわからない。アンソニーには砒素を取る習慣があった。妻がそれを用意していた。ある日、誤って彼はそれを取り過ぎてしまった。彼が間違えたのか、それとも妻が? 誰にもわからない。そのような状況下で、陪審が下せる評決はあれしかなかったと、そういうことだ。評決はどうでもよい、私は事実を知りたい」
ヘイドック夫人「でもね、私たちが首を突っ込むことではないわ」
エヴァンス「今日の牧師館の催しで、おかしな事があったよ」
ヘイドック夫人「あら、なに?」
エヴァンス「あの占いのおばあさんのところへ行ったら、ちょっと面白いことを言われたよ」
ヘイドック夫人「まあ、そういうことに興味を持つのは、女性だけだと思っていたわ。あんな馬鹿げたもの、真に受けただなんて言わないで」
エヴァンス「私が? とんでもない。面白かったというだけだよ」
ヘイドック夫人「なんと言われたの?」
エヴァンス「何か心を決めなければいけないと言われた。重要なこと。もし判断を誤れば、結果は、死」
ヘイドック夫人「なんて事!」
エヴァンス「もちろん、戯言だ。しかし、おかしな偶然ではある」
ヘイドック夫人「あなた、まさか」
エヴァンス「メローデン氏が、非常に容易ならざる危機に直面している可能性が考えられる。問題は、彼に忠告するべきか、それともこのまま、事を荒立てずにおくべきか」
ヘイドック夫人「どんな忠告ができるというの? 確信が持てないときは、極めて慎重にすべきだわ」
エヴァンス「メローデン氏が、マーシュの砒素検出法と言ったのを聞いただろう?」
ヘイドック夫人「ええ。でもあの方が奥様の過去について何か言うのを聞いたことはないわ」
エヴァンス「そうだろう。果たして、何か知っているのだろうか? 二人は結婚してどれくらいになる?」
ヘイドック夫人「6年くらいだと思うわ」
エヴァンス「賭けてもいい。彼は、自分の妻がかつての悪名高いアンソニー夫人だとは、知らない」
ヘイドック夫人「そうね、私からもそんなこと絶対に耳に入れないわ」
エヴァンス「一つ気がかりなのは」
ヘイドック夫人「何?」
エヴァンス(非常に落ち着いて)「殺人者というのは、一つの犯行では、なかなか満足しないということ」 
ヘイドック夫人(しばらく考え込んだ後)「今日の午後、あなたを紹介した時、彼女はあなたに気が付いたかしら」
エヴァンス「わからない。もし気が付いたとしても、おくびにも出さないだろう」
ヘイドック夫人「同じ人とは言えないのではないかしら。時々驚くほど似ている人って、いるものよ」
エヴァンス「アンソニー夫人の捜査の過程で、我々は過去を慎重に調べたが、何もわからなかった」
ヘイドック夫人「それじゃあ、ほんの小さなことを大げさに考えすぎているみたいだわ」
エヴァンス「でも一つ気になることがあった。彼女には義理の父親があった。若い頃、彼女はある若者に夢中だったが、義理の父親が二人を会わせないようにしていた。ある日、娘と二人で散歩にでた。危なっかしい崖に。迂闊なことだったのではないかな。事故が起こった。父親は崖の縁に近づきすぎたのだ。縁が崩れて、彼は落ちて亡くなってしまった」
ヘイドック夫人「ということは、つまり」
エヴァンス「それは事故だった。アンソニーの死も事故だった。しかしアンソニーの一件にも、もう一人男が関わっているとわかったので、彼女は捕まってしまったのだ」
ヘイドック夫人「その男はどうなったの?」
エヴァンス「ああ、いなくなったよ。判決が無罪とでても、彼には納得がいかなかったのではないかな」
ヘイドック夫人「とんでもない話ね。全部何かの間違いであってほしいわ。メローデンさんが何かしらの危険にさらされていると、本気で思っている訳ではないわよね?」
エヴァンス「もし彼女が、私が思っているとおり、あの時の女性なら、ガラガラ蛇のように危険な人物だ。わかるかい、利益のための殺人は癖になりやすい。人は時に生きていく上で、何かをぶち壊したいという衝動に駆られることがある。そんな衝動は、人の命をあやめるなど神をも恐れぬ事と、そう深く根付いている常識によって押さえられるものだ。一筋の良心が引き留めるのだ。しかしその一筋は、一度切れてしまうともう元には戻らない。そして禁断の権力を手にしてそれを行使する時、彼らは生と死を操る快楽に酔うのだよ」

(玄関ベルが鳴る。メローデン氏が研究室より現れ、玄関に向かう)

メローデン氏「妻に違いありません。鍵を忘れたのでしょう」(玄関へと消える)
ヘイドック夫人(小声で)「どうするつもり?」
エヴァンス「わからない。おそらく何もしない。様子を見よう」

(メローデン氏が、細長い封筒を手にして、玄関ホールから現れる)

メローデン氏「残念ながら郵便でした。こんなにお待たせして、妻は申し訳なく思うでしょう。間もなく帰るでしょうが」
ヘイドック夫人「申し訳ないですけど、私そろそろ失礼しないと」
メローデン氏「ああ、もう少しお待ちください、妻ががっかりしますから。彼女もあなたの旅立ちを祝して、お別れを言いたいと思うのですよ」
ヘイドック夫人「でも遅くなりますの。すぐに家に戻って、荷物を最後に確かめなければなりませんの」
エヴァンス「君が羨ましいよ。私も世捨て人のような生活に収まっていないで、世界中の色々なものを見に行きたくなってきた」
ヘイドック夫人「だったら、行く先々から地域色豊かな、長いお手紙を書いてお送りするわ」
メローデン氏「(窓辺で)今、来ましたよ」

(玄関のドアが開閉し、メローデン夫人が入ってくる。あの永遠の美女の肖像画のモデルである。シンプルな服を身につけているが、魅惑的な本質は隠しようもない)

メローデン夫人「どうかお許しくださいね。あなた達がお着きになる前に家に戻れなくて、本当にごめんなさい」
ヘイドック夫人「気になさらないで」
メローデン夫人「刺繍のコーナーでヒールド夫人に捕まってしまって、抜け出せなくなってしまいましたの」
エヴァンス「豚の体重当ては、やりましたか」
メローデン夫人「とてもではないけど、できませんわ。黒豚のことなど、わかるはずもありませんわ。ねえ、ジョージ」
メローデン氏(封筒を開いている)「やれやれ、やっとだ。私の保険証券です。やっと送ってきた。(エヴァンスとヘイドック夫人は視線を交わしあう)保険に入ることは、男としての義務だと思いますがね、どうでしょう、エヴァンスさん」
エヴァンス「責任のある男性なら、そうでしょうね。ずっと独り者できた老人の私には、あまり関係ありませんが」
メローデン氏「私にとっては、これが唯一の貯蓄です。妻のアイデアでしてね。彼女は結構商才があるのです」
メローデン夫人「あら、あなた、とてもいやらしいレッテル。'商才のある女'だなんていやですわ。いつも、髪を後ろにひっつめて、てかてかした袖カバーをつけている姿が思い浮かびますわ」
ヘイドック夫人「ごめんなさい、本当に帰らなければなりませんの。出発のご挨拶によっただけでしたから」
メローデン夫人「本当に行かなければなりませんの? お茶を入れる間、お待ちになれない? (夫に)ジョージ、お願いだから台所に行って、やかんを火にかけてくださらないかしら。メアリーは牧師館に行って留守なのよ」
ヘイドック夫人「気を悪くなさらないで、帰らなければ。でも、エヴァンスさんは召し上がると思いますわ」
メローデン夫人「では、そうまでおっしゃるなら、無理は言わないわ。やらなければならないことがたくさんあるのはわかりますもの。いつお帰りになるの?」
ヘイドック夫人「そんなに長くはないでしょう。一年か、そうね、二年かしら。気まぐれに色々なところをさまよって来ますわ」
メローデン夫人「なんて、羨ましい。ご主人様にもよろしくおっしゃって。すばらしい旅になることをお祈りしていますわ」
ヘイドック夫人「ありがとうございます。旅の後にお会いするのを楽しみにしていますわ。(エヴァンスに)ジム、体に気をつけてね。お庭がどうなっているか、楽しみにしていてよ。(一同、玄関へと移動する)
エヴァンス「ハリーによろしく伝えてください。絵はがきをたくさん、待っているよ。さよなら、気をつけて行っていらっしゃい。(普通に別れの挨拶の握手をする)」
ヘイドック夫人「さよなら、ジム。よい収穫があることを祈っているわ」

(ヘイドック夫人、退場。残された人々はドア越しに手を振る)

メローデン氏「さて、行ってやかんをかけてこよう。お茶ぐらいは私にも入れられますから」(左手、台所の方へ消える)
メローデン夫人「ヘイドックさんて、楽しい方ね。ご夫妻ともとっても良い方だから、もっと親しくお付き合いしたいわ。田舎にいると、孤独な生活になりがちですもの」
エヴァンス「私がそうですよ。しかしこの村では盛んに社交が行われているようですが、あなたは、どちらかというと、そこから距離を置いていらっしゃるようにお見受けしますが」
メローデン夫人「その通りですわ。家も主人も、手が掛かるものですから」
エヴァンス「全くです。家庭と夫がある女性は、それだけで手一杯になってしまって、何もできなくなってしまうものです。メローデン氏は、それほど世話が必要な方には見えませんがね」
メローデン夫人「それがそうなのですわ。哀れなことにあの人ったら、私があの汚らしい古ぼけた研究室から引きずり出さなければ、何日も食事を取りませんの。自分のことには全くお構いなしなんです」
エヴァンス「それは、ある意味、得難い特質というものではありませんか」
メローデン夫人「そうですわ。自分のことに構うより、私のことばかり心配してくれますの。こんなに思いやり深い人っていませんわ。あの生命保険のこともですけれど。彼ったら、途方もない保険料をかけると言い張って。私が贅沢な物を手放さなければならないような生活を送るなんて、想像もしたくないと言うんです」
エヴァンス「なんて寛大な方だ」
メローデン夫人「全くそうです。そんな先のこと、考えないでと言っていますのに。彼に何かが起こるだなんて、考えたくもありませんわ」
エヴァンス「ご主人は、何か健康上の問題があるというわけではないのでしょう」
メローデン夫人「ええ、そういうわけではありませんわ。ただ、彼は繊細な人でしょう。それに私よりずいぶん年上であることは事実です。少し弱いところもあるし、心配ですから、先のことも考えてしまいます」

(メローデン氏が台所からやってくる)

メローデン氏「お湯はもうじき沸くでしょう。メアリーがパンとバターを用意してくれてあるよ。では、研究室に済ませてしまいたいものがあるので、失礼します」(頼りなげな足取りで、研究室へと消える)
メローデン夫人「私たち、お茶の時間にはあまりいただきませんの。よろしいかしら」
エヴァンス「私でしたら、お構いなく、アンソニーさん、いえ、メローデンさん。(わざと言い間違えて、彼女の反応を見る。反応は、かすかな筋肉の緊張という、微妙なものだ。しかし、彼は見逃さない)ご主人の趣味には興味をお持ちですか、メローデンさん」
メローデン夫人「いいえ、それほど。だって、私にはわかりませんもの。学校で化学を学びませんでしたし、今からやっても、もう遅いようですわ」
エヴァンス「そんなことはないでしょう。あなたはまだ若い。それに、付け加えるなら、とても美しい」
メローデン夫人「嬉しいことをおっしゃるのね、エヴァンスさん」
エヴァンス「このような静かな隠退生活に満足している若くて美しい女性には、なかなかお目にかかれない」
メローデン夫人「ありきたりな想像力しかお持ちでないようですわね。私が、大都会の華やかさ、きらびやかさを恋しがっていたり、熱帯の月明かりに満ちた夜にあこがれているなどと、お思いになりたいのでしょうけど、はっきり言いますわ、私はそういうものは欲しくないのです」
エヴァンス「自分が本当に欲しいものを知っている者などいますかな」
メローデン夫人(静かに)「私は知っています」
エヴァンス「本当に? 言葉にできますか?」
メローデン夫人「もちろんできますわ。欲しいものはもう持っています。平和で穏やかな、秩序立った暮らし、夫、この家、安全」
エヴァンス「あなたは大変幸運です。メローデンさん」
メローデン夫人「そういうわけではありませんわ。何が欲しいのかわかっていたのです。ずっとわかっていましたわ。そして今手にしているもののために、私は戦ってきたのです。情け深い神様が、膝の上にほおり投げてくれた物ではありません。ごめんなさい、なんだかつまらない話題になってきましたわ。お湯が沸いたかどうか、見てまいります」

(メローデン夫人は立ち上がり、台所へと消える。一人残されたエヴァンスは、立ち上がってしばし肖像画を見つめる。まるで、肖像画が秘密を明かしてくれるとでもいうように。さらに部屋の中を歩き回って、これからどうしたらよいのかと、そのあたりの飾り物からもヒントを求めているかのようである。メローデン夫人がティーポットなどを乗せた盆を持って入ってきて、それを暖炉のそばの小さなテーブルの上に置く)

メローデン夫人「あまり食欲を誘う物はないのですけど、お茶だけはとってもおいしいと保証できますわ」
エヴァンス「それは嬉しいですな」
メローデン夫人「一つだけ、とてもこだわっていることがあって、極上の中国茶ですのよ。いつも中国風の作法でいただきますの。カップではなくて、お湯呑から。(戸棚へ行って、中国の骨董の湯飲みを三つ取り出す。それらを確かめながら、不快な感情を露わにして、研究室の方へ声をかける)ジョージ! ジョージ!」
メローデン氏(試験管を手にして、研究室のドア口に現れる)「なんだい、おまえ?」
メローデン夫人「ジョージ、とってもいけないことよ。またこの湯呑を使ったのね」
メローデン氏「申し訳ない。ちょうどいいサイズなんだよ。浅めの鉢を頼んであるんだが、まだ届いていなくってね」
メローデン夫人「いつか、私たちみんな毒殺されてしまうわ。(笑う)メアリーなら研究室で見つけても、きちんと洗わなくてもそれで良いと思って、いい加減にしてしまうでしょうし」
メローデン氏「メアリーには研究室の物は触らせないよ。前にもそう言ってある。彼女は触ったりしない」
メローデン夫人「でも私たちいつも飲んだ後のカップを置いたままにするじゃありませんか。彼女に区別が付くかしら? よく考えてちょうだい、あなた」
メローデン氏「また言っておくよ」
メローデン夫人「いつかは青酸カリを入れていたでしょう。とてつもなく危険だわ。お願いだから、もうそんなことには使わないで、ジョージ」
メローデン氏「よくわかったよ。明日か明後日には鉢が届くと思うよ」(研究室へと消える)
メローデン夫人(湯呑をテーブルに持ってきて、三番目の汚れていない物を手に取る)「なかなか美しい陶磁器だとお思いになりません? この青と赤をご覧になって。良い陶磁器は、このように色彩豊かなのですわ」
エヴァンス「どうして私にそんな話を聞かせるのです、メローデンさん」
メローデン夫人「どういう意味かしら」
エヴァンス「弁護のための証人にするのですか」
メローデン夫人「おっしゃる意味が分かりませんわ」
エヴァンス「お分かりにならないのなら、説明する気はありません」

(メローデン夫人はお茶を注ぐ。湯呑の一つを、夫のために左手のソファの前に置く。もう一つを中央のいすに座っているエヴァンスに手渡す。エヴァンスは鷹のような目で、彼女を見つめている。心中恐ろしい疑惑が渦巻いて態度に現れているが、メローデン夫人は気が付いていないようである)

メローデン夫人「あなたは変わった方ですのね、エヴァンスさん。とてもおかしな事をおっしゃるわ」
エヴァンス「少しは変わっているでしょう。仕事柄、変質者と多く係わってきたせいかもしれません。いつも何か急に思いついたり、空想したり」
メローデン夫人「そうですの?」
エヴァンス(平静に)「今、おかしな妄想に取り付かれているのですよ」
メローデン夫人「あら、どんな?」
エヴァンス「ちょっとお願いできますか? 私の気まぐれに、付き合っていただけませんか? 大したことではありません」
メローデン夫人「よろしいですわ。私にできることであれば。何ですの?」

(押し黙ったままエヴァンスは、メローデン氏のための湯飲み茶碗を手にすると、立ち上がってメローデン夫人のいすの脇に立つ)

エヴァンス「ご主人のために注がれた、このお茶を飲んでいただきたい」

(しばしの間。一瞬、メローデン夫人がたじろいだ目つきを見せる。その後、気を持ち直した様子)

メローデン夫人「よろしいですわ、そうおっしゃるなら」

(メローデン夫人はゆっくりと湯飲みを口元に持って行くが、突然身震いをして、湯飲みの中身をそばにある花瓶の中に入れてしまう)

エヴァンス「ありがとう。それでいいのです」(席に戻り、座る)
メローデン夫人(椅子にもたれ、エヴァンスを挑戦的に見据える)「これでよろしい? ご満足かしら?」
エヴァンス「もちろんです。メローデンさん、あなたはたいへん賢い女性です。私のことはご存じだったでしょう? しかし、ただ一つだけ、あなたによくわかっていただきたいのは、過ちを繰り返してはいけないという事です。二度とやってはいけない。何が言いたいのか、おわかりでしょうね」
メローデン夫人(大変落ち着いて)「ええ、わかりますわ」
エヴァンス「あなたのことはよく知っているつもりです、アンソニーさん。あなたの過去、現在の暮らし、そしてよくおわかりでしょうが、あなたの未来に対しても大変気がかりです。言っておきますが、少しでも兆候があれば、私は行動に移します。二度目は失敗しませんよ」
メローデン夫人「今後あなたにはご面倒をおかけしないと、お約束しますわ」
エヴァンス「誓えますか?」
メローデン夫人「ええ、誓えますわ」
エヴァンス(元の朗らかな態度に戻って)「では、いいでしょう。私たちはこれから、友人として付き合えるかもしれない。そうでしょう? 人間の感情は、不可思議で、おもしろいもので、我々哀れな人間は、その変化の発端には気が付かない。曖昧な言い方だが、あなたの気持ちがやや分かるし、同情すら感じます」
メローデン夫人「あなたも頭のいい方だわ、エヴァンスさん。あなたがいなくなれば、警察にとって、大きな損失でしょうね」
エヴァンス(自分の湯飲みを持ち上げて)「さあ、未来に乾杯をしましょう。あなたとご主人が、末永く健康で幸せにいられるように。お茶で祈りを捧げるのは縁起が悪いことではないと良いですがね」

(エヴァンスはお茶を飲み干す。と同時に、急に椅子から倒れ落ちて、死ぬ。しばらく間があって、メローデン夫人は平然と立ち上がり、考え深げに死体のそばに立つ)

メローデン夫人「あの世でお幸せにね、エヴァンス警部。あなた、ご自分を買いかぶりすぎたのではないかしら? 警察根性丸出しにして。わたしがジョージを殺すと思ったのでしょう? ジョージこそ、私が生涯賭けて愛した人。あなたは私たちの間に割り込んできた三番目の男です。だから他の者たちを殺したようにあなたも殺した。私の愛は完璧なものだから、守るためなら何でもするわ。あなたは弁護側の証人にはなれないのよ、エヴァンス警部。あなたは現場の死体です」

(メローデン夫人、死体に背を向け、舞台脇に女優らしくすっくと立つ。そして拳を握った腕を大きく振りながら、研究室の方へ向かい、興奮した声で叫ぶ)

メローデン夫人「ジョージ! ジョージ! すぐに来てちょうだい! 大変なことになったわ!エヴァンスさんが恐ろしいことに! 亡くなったの! 死んでしまったの!」



クリスティ協会総会への二度目の出席

谷口 多美江

 英国クリスティ協会の総会についての報告は、No.53に載ったスネル美枝子さんのもの(1996年:第3回)が最初です。この反響が大きかったのか、第4回の総会には新谷里美さん御夫妻が参加され、その報告がNo.54に掲載されました。
 したがって第6回となる今回の総会報告はWH通信に載る三回目の報告です。第3回総会への参加者は50人ほどでしたが、今回は150人近くだそうで、年々クリスティ協会が発展していることがよくわかります。
 報告者の谷口さんは二度目の総会参加ですが、スネル美枝子さんは第3回以来連続して出席されており、今回も総会の写真を送ってくれました。紙幅の関係で谷口さんの写真しか掲載できませんでしたが、余裕があれば、次号にでも載せたいと思います(S)。


 今年は9月10日〜12日まで、アガサ・クリスティの生れ故郷で彼女が生涯愛し続けた地トーキーで総会が行われました。私は、2年前にやはりトーキーで行われた総会に出席いたしましたので、「今回はどんな総会になるのかしら、懐かしい方々にお目にかかれるかしら」とワクワクした気分で、ロンドンのパディントン駅よりトーキーのグランド・ホテルへと向かいました。
 今回の総会は、約150名ほどのメンバーの方たちが、英国内ばかりではなく、アイルランド、デンマーク、オランダ、マダガスカル、アメリカ、そして日本からといろいろな国々から集まり、インターナショナルで華やかな雰囲気の中、大盛会でした。
 一日目は、夜の8時からグランド・ホテルのグロスペナー・スウィートにて洗練された大人の重厚感ある渋いパーティーが始まりました。今回の舞台は、"考古学総会のディナー・パーティー"の席上で、そこで殺人が行われるという、地元の俳優の方々による「考古学教授殺人事件」が展開されました。そして、私たちのディナー・パーティーも同時進行で行われていきました。私たちは、15グループ程度に分けられて、それぞれのテーブルにつき、フルコースのディナーを頂きながら舞台を拝見し、皆で推理し最後に犯人を解明していく、というおしゃれなパーティーを楽しみました。
 二日目は、アガサの若かりし頃のムーンライト・ピクニックとして甘い思い出のあるアンスティーズ・コーブ(Anstey's Cove)に行ったのですが、実際はそんなロマンチックな雰囲気は全くなく、かなり険しい岩場の連なるビーチでした。その後アガサの1924年に出版された『茶色の服を着た男』のハンプスリィ・カバーンのモデルとなったケント・カバーン(Kents Cavern)へ行きました。ここは、英国考古学においても、かなり重要な場所とのことで、ものすごく巨大な洞窟でした。
 その後トーキー博物館へ、そしてアガサが寄贈した紫の色がとても美しいステンドグラスで有名な「セント・メアリー・ザ・ヴァージン教会」(St. Mary the Virgin Church)へ行きました。そして一端グランド・ホテルへ戻り、軽い夕食を済ませ、ペイントン・パレス劇場へ(Paignton's Palace Theatre)行き、ミス・マープルの「牧師館の殺人」のお芝居を拝見しました。
 三日目は、午前10時にまたホテル内のグロスペナー・スウィートにメンバー全員が集まり、"アガサ"に関する「50問のクイズ」を解いて、テーブルごとに競い合うという和気あいあいの雰囲気の中、サンドイッチ、ケーキ、ペストリー等を頂きながらの"ティー・パーティー形式"で行われました。
 最後に、この総会が大成功で終了するにあたり、メンバー全員がソサエティのイレーン(Mrs. Elaine Wiltshire)、ルーシー(Ms. Lucy Oliver)、そしてイレーンのご主人であるマーティン(Mr. Martin Wiltshire)の隅々まで行き届いた深い思いやりのある心配りとゆったりとしたゆとりのある大人の優しいおもてなしに、大きな大きな盛大な拍手で私たちの感謝の念を表しました。まさに、そこはちょっとした英国の社交界を垣間見た思いがし、深い感動を覚えました。
 「アガサ・クリスティ・ソサエティ総会」の素晴らしいところは、メンバー全員が(今回は150名全員でしたが)、アガサをこよなく愛し慈しんで集まっているということです。ですから皆全員が心優しくて、思いやりがあり「あ、うん」の呼吸でお互いに理解し合うことが出来るので、最初から最後まで、とても私にとって居心地のよい空気がながれ、その中でしみいるような幸福感を味わうことが出来たように思います。
 私の生涯を通して、出来るだけ長く"アガサ・クリスティ・ソサエティ"のメンバーでいられ、出来るだけ多く英国の総会に出席できますことが、私にとって最高の幸せだと思っております。


ミセス鈴木のパン・お菓子教室

第10回 ローリィポーリィ

鈴木 千佳子

 編集上の手違いからNo.56で中断していましたミセス鈴木のパン・お菓子教室を再開します.。鈴木さんのお便りによると「寒い夜にぴったりの熱い蒸し菓子」ということで、季節的にはまったく合いませんが(これも編集上のミスですが)、「クリスマス・プディングより我が家では人気があります。作り方はそう難しくないし、やはり出来立てが一番おいしいので、ぜひ、お菓子作りに挑戦してみて下さい」とのことです。
 私も挑戦してみるか? (S)


はじめに
 プディングというと、イギリスの食物の代表選手のようで、とにかくたくさんの種類があります。豚の血にハーブ、スパイス、パン粉、脂を入れて作ったソーセージはブラック・プディング、肉や野菜、果物まで使うスウェット・プディング、ワインにフルーツたっぷりのスノードン・プディング、ローストビーフの付け合わせと思われているヨークシャー・プディング、子供達の大好きなカスタード・プディングにブレッド&バター・プディング等など(プディングは、もともとソーセージの一種だそうです)。
 そんな中で、Rolypoly(巻き棒−Roll Poll?)というかわいい名前のついたものがこれです。プディングの中では、かなり古いタイプで、作り方はパイ生地に少し似ています。オープンの出現後は、パイへとつながっていったそうです。
 たっぷり時間をかけて作るもので、寒い季節には蒸し器に種を入れて蒸している湯気で部屋を暖めつつ、こんなお菓子を作って、皆でフーフー言いながら食べるのかなぁ……と勝手に想像してしまいます。
 いろいろ考えましたが、中にはさむのは、いちごジャムが一番! というのが我が家の評です。初夏に作り置いたジャムを使っていけるイギリスの気候がうらやましくなります。
材料
薄力粉 120g
B・パウダー 小匙1/2
ひとつまみ
バター 60g
牛乳 60g
いちごジャム 適量
溶かしバター 5g
強力粉 少々……打ち粉
ジャムソース(いちごジャム、ラム酒・湯を適量煮詰めて作っておく)

作り方
1. 薄力粉、B・パウダー、塩をふるってボールに入れる。
2. 冷えたバターをボールに入れ、ドレッパーやスケッパーなどで刻み込む。
3. バターが小さな小豆粒くらいになったら牛乳を加えて混ぜる。ひとまとめにして、ラップかビニール袋に入れて、冷蔵庫で30分休ませる。
4. 打ち粉をした上で、生地を約22×22cmに伸ばし、いちごジャムをへらで塗る。周囲は1cmくらいあけておき、溶かしバターをハケで塗る。
5. ジャムがはみださないように気をつけてはしから巻き、蒸し用ペーパーか布巾でしっかり包み、両端を糸でしばる。
6. 蒸気の上がった蒸し器に入れて、中火で2時間ほど蒸す。湯がなくならないように気をつけて、途中で注ぎ足す。
7. 蒸し上がったら、熱いうちに紙をはがして好みの大きさに切り、ジャムソースをかけて食べる。

★ さめたら、蒸し直すか、レンジで軽く(強で20〜40秒)あたためるとよい。


ジャレッド・ケイド著、中村妙子訳、早川書房刊

『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?』を読む

林 克郎

 前号の「クリスティ症候群患者の告白」で簡単に紹介した『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?』は、昨年の11月末に早川書房より刊行されました。本稿はその書評です。
 林さんは、インターネット上で私立本格探偵小説「風読人:フーダニット」というHPを開設している人で、クリスティの古本(原書)も熱心に集めています。
 本文中にも記されていますが、著者のケイド氏はこの本をインターネット上で派手に宣伝しています。なにしろ私費一万ポンドを費やして調査したようなので無理からぬ気もしますが、極端な恥ずかしがりやのクリスティの評伝を、"恥ずかしげもなく"大宣伝しているのですから、本当にクリスティを理解しているのか、疑問をもってしまいます(S)。


 1926年12月3日、突如として行方をくらましたアガサ・クリスティの有名な失踪事件を、膨大な資料と関係者の証言から再構築したノン・フィクション『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?――七十年後に明かされた真実』が早川書房より発売されました。著者ジャレッド・ケイドは1962年オーストラリア生まれの熱狂的なアガサ・クリスティ・ファンで、この本を書くために6年の歳月を費やしたといいます。クリスティの死から20数年、事件からは70年以上もたった今、本書は現代の私達に何をもたらしてくれたのでしょうか?
 今日まで知り得なかった様々な事実が本書では明らかにされていますが、そのなかで一番注目に値するのがアガサの義妹ナン・ワッツの存在です。ナンはアガサの姉マッジの夫ジェームズ・ワッツ・ジュニアの妹で、アガサにとって終生の友人でもあり、失踪事件の一部始終を知っていたとされます。ナンは自身も離婚経験があったことから当時のアガサの気持ちをよく理解し、アガサと共に失踪事件を計画、その逃亡を助けたというのです。
 もうひとつ驚くべき事実として、アガサの二度目の結婚相手マックス・マローワンにも愛人がいたことが書かれています。その相手とは、アガサの死後マローワン夫人となるバーバラ・パーカーで、アガサの存命中は考古学者マローワンの教え子として発掘調査にも同行していました。愛人がいながらも離婚を求めないマックスと、それを見て見ぬふりをするアガサとの関係はアガサが死ぬまで続いたとされます。つまりアガサは生涯自分の夫の愛人問題に悩まされ続けたことになるのです。
 書誌学的にも興味深いことが書かれていました。例えば、処女作『スタイルズ荘の怪事件』がボドリー・ヘッド社から1920年末に単行本として出版される前に《タイムズ・ウィークリー・エディション》という雑誌に同年の2月から6月まで5回にわたって連載されていたという事実です。まだ無名の新人ですから、一度雑誌に掲載させることでその作品に対する読者の反応をみていたのかもしれません。そのほか、彼女の執筆時の環境や感情がどのように作品の中に表れているかをいくつかの作品を例にとりながら示しているのも興味深いです。残念ながら翻訳書にはありませんが、原書の巻末にはクリスティーの著作リストが付せられており、そこには初期の短編の掲載雑誌名までもが記され、書誌として重要なものとなっています。
 一方、本書の最大の欠点であり致命的なところは、アガサ・クリスティ自身がそこにいないことです。膨大な資料といえども、そのほとんどが状況証拠であり、関係者の証言も間接的なものばかりです。本書に書かれていることは一見真実のようですが、推測の域を越えていないのがほとんどで、アガサ自身が何を思い、何を感じ、何をしたかは一切語られていません。彼女が語らなかったゆえに本書があるわけですが、当の本人を除いて話を進めるには限界があります。
 アガサ・クリスティの孫であり、英クリスティ協会の会長でもあるマシュー・プリチャードは、不快感をあらわにしながら本書の非買をクリスティ協会の年次総会で求めました。その原因はアガサの二度目の結婚までもが不幸であったと書かれていることにあるようです。家族の不幸を本に書かれて喜ぶ人はいないわけで、彼が主張するのも至極当然です。これに関する詳しい内容は、この本を紹介しているホームページ「Agatha Christie and the Eleven Missing Days」http://www.jaredcade.whodunit.co.uk/(注:現在はリンク切れ)に書かれていますので興味のある方はご覧になってみて下さい。
 本書を読んで驚くことはありましたが、楽しいと思うことはありませんでした。ノン・フィクションであるから仕方が無いのかもしれませんが、事実が新聞記事のように書かれているのは読んでいてつまらなくなります。著者ジャレッド・ケイドの個人的な考えもほとんど書かれておらず、物足りなさを感じました。故人の過去をあばくということに対する不快感も残ります。やはり作家は作品のみで評価されるべきだと思います。
 アガサ・クリスティという女性が人間の心理を読むことに長けていたことはその作品を通じて容易に想像できましたが、それも彼女がこのような体験をしたからだと思うと感慨深いものがあります。きっと人を傷つけることが嫌いな心優しい女性であったに違いありません。


クリスティ症候群患者の告白(その28)

数藤 康雄

×月×日 本号の冒頭にも書いたが、最近身近な人が亡くなるようになった。いかにイイカゲンに生きている人間であっても、多少は来し方行く末を考えざるをえない。とはいえ私自身のことではなくWH通信のほうである。
 WH通信のようなファンジンについて一般的なことをいえば(といっても、ミステリーのファンジンをそう多く知っているわけではないが)、ファンジンには、例えば「SRマンスリー」のように編集長を次々に代えて何十年も続いているものと、発行者が好き勝手な紙面作りを行いながら何号かで突然消えてしまうものとがある。
 WH通信がどちらに属しているかといえば、後者であろう。No.50号にも書いたように、WH通信は、当時クリスティ・ファンクラブが世界中のどこにもなかったこともあり、発作的に個人で作ったものであるからだ。つまり最初から正統的なクリスティ・ファンクラブの機関誌を作りたかったわけではなく(そんなことは第一クリスティが許してくれるはずもない!)、書きたいテーマがいくつもあったから機関誌と偽って個人誌を発行したというわけである。
 それが80年代に入っても潰れなかったのは、個人誌からの脱皮や内容のレベルアップに精力を注ぐより、なにはともあれ出し続けることに意義がある、と考えるようになったからであろう。どうも私自身が怠け者で、さっぱり向上心のない人間であることを証明しているようで恥ずかしいが、まあ気にしてもしかたないか。
 ところが90年代になると、英国にはクリスティの孫が主宰する立派なクリスティ協会ができ、私を含めてかなりの日本人が参加するようになった。協会の機関誌も、年を追って充実してきている。もはやWH通信を正しい意味の日本のファンクラブ機関誌に変身させる必然性はないであろう。WH通信の出発を考えるなら、個人誌のままでひっそりと終焉を迎えることこそ相応しいはずだ。蔵書一代、機関誌も一代! というわけである。
 したがって問題は、いつカーテンを下ろすかである。機関誌は年二回しか発行しないので、半年の間に私が事故死、または病死してしまう可能性だってそう低いものではない。つまり読者に終りを予告できずに突然終ってしまう状況もありえるわけである。個人誌ならば、それはそれでいいのかもしれないが、私の性格としては、それではどうも落ち着かない。クリスティがポアロの死を生前に発表したように、やはりきちんと終刊を予告するほうがいい。
 60号での終刊はどうか? これではあまりに近すぎる。では100号では? あと20年以上もこんなことを続けるのはさすがに恥ずかしいし、第一体力がそこまで続くかどうか疑問だ。70、80号あたりでの終刊が妥当だが、もっともらしい理由が見つからない。理由などなくてもかまわないが、"遊び"ならではのもっともらしい理由が欲しい。
 ということで最終的に思い付いたのが、85号での終刊である。つまりクリスティが亡くなった歳と同じ数の号数で終るのである。これならあと13年。どうにか続けられるであろう。
 それにしても13年後の終刊を予告するファンジンなど、過去にあったのだろうか? この日本初(?)の"怪挙"が自慢したくて、この駄文を書いたようなものである。誰もしないことばかりやりたがるエンジニアの悪癖がまたでたか。
×月×日 昨年11月に講談社の青い鳥文庫から出た『オリエント急行殺人事件』は、小学高学年から中学生を対象としているにもかかわらず全訳であった。このため同文庫ではもっとも高い定価になったようで担当者は売上を結構気にしていたが、まあ好評であったらしく、第2弾を出すことになった。その第2弾『ABC殺人事件』の解説も書いたので、対象の子供さんがいる人にはよろしく、とPRしておきます。もっともいつ出版されるのか、知らないが――。


ティー・ラウンジ

■以前ホームステイしたイギリス婦人より10日ほど前にクリスマスカードと一緒に、タイムズの切り抜き(1999.12.7)が送られてきました。この種の情報のキャッチには容易なお立場においでのようですから、すでにご存知かもしれませんが、コピーしてお送りします。グリーンウェイ・ハウスがナショナル・トラストに寄贈され、その庭が来年から公開される旨の記事です(野川百合子さん)。
 インターネット上でも評判になっていたので知っていましたが、英国クリスティ協会の機関誌(No.28)に載ったクリスティの孫プリチャード氏の記事が一番正確かと思います。それによりますと、グリーンウェイ・ハウスの公開は来年からで、週に3日。ただしクリスティの娘ロザリンドさんたちが生存している間は、庭と特別展示室だけの公開で、本格的な公開は、夫妻の死後になるとか。私もぜひ再訪してみたいものです(S)。
■9月に一週間ほど、短い英国への旅行を致しました.。ブラウンズ・ホテルのアフタヌーン・ティーとか、レイントン・ハウス(ミス・マープルのお気に入りの画家レイントンの家)への訪問などです。村上由美様の記事を読ませて頂いて、私もあの豪華でゆったりとしたアフタヌーン・ティーの時間を思い出しています。私はなんといってもポアロが好物のラプサンスーチョン・ティーの独特の香りを思い出しています。この時ほど美味しいと思ったことはありませんでした。普段も時々日本で買ったこの紅茶を、家族に遠慮(?!)しながら飲んでいますが。
 それからレイントン・ハウスですが、別名「アラブ・ホール」と言って、美しいアラブのタイルを敷き詰めた異国情緒たっぷりの館です。ここでレイントンの絵画をゆっくりと鑑賞することが出来ました(新谷里美さん)。
■子育て中の身のゆえ、なかなか自分の時間はとれませんが、たまーに、優雅に(?!)紅茶でも飲みながら、ウィンタブルック・ハウス通信を読み、そこに出てくるクリスティの本をもう一度読み直したりと、なかなか充実した時間を過ごさせてもらっています(村田有規子さん)。
■二十分時間があれば本を読むというか、頁をひもとく本好きですが、クリスティを読むときが一番嬉しい充実した感じがします。その割には読み進みませんが(駒形千代子さん)。
■クリスティ・ファンのベスト7。チェスタートン、アイリッシュ、ロス・マクドナルド、M・ミラーは納得のいく顔ぶれ。ナイオ・マーシュなんて嬉しいですね。ところで古いと言えば、ボアロー&ナルスジャック。今も読まれているのかしら。彼らの『魔性の眼』のラスト、長らくミステリーの中のミステリーと思っていました。浜松のアガサの庵原さん、クリスティ亡き後、時間が止まっていた私に、新しい喜びを紹介して下さって本当にありがたかった。お元気で活躍、嬉しい(大森朋子さん)。
■先日NHKのBSにて放映された「蒼ざめた馬」、ご覧になりましたか。原作とは設定が違っていましたが、楽しめましたよ。そうそう、ミセス鈴木のお菓子教室は、もう終了したんでしょうか。私の旧姓、長女と同名で、何か他人様とは思えない気が勝手にしておりまして。それにミステリーを読んでいると、何かつまむものが欲しくなるのは、私だけでしょうか。『予告殺人』の"デリシャス・デス"のレシピも、お願いしたいものです(中嶋千寿子さん)。
■マイベスト7を拝見して少し嬉しくなりました。私もダールが好きなので!! ついでに一つ質問させて下さい。『パディントン発4時50分』に登場するマクギリカディ婦人は、背が高いのですか、低いのですか? ファンの間では、どうなっているのですか?(西村瑞枝さん)。
 TVは見てないし――。誰かご存知の方はお知らせください(S)。
■相変わらずの乱読です。読む端から忘れていくので二行のメモ書きをしていましたが、それでも思い出せず……。といって、いまさら系統だって整然と読書する気もなし……。この調子は、今年もかわりそうにありません。正月はジャレッド・ケイドの『なぜアガサ・クリスティは失踪したのか?』を『クリスティー自伝』の再読とともに、楽しみにしています(都甲宰弌さん)。
■エッ、もうクリスマス? たいへんだ、年賀状まだ一枚も書いてない! と一瞬あわてふためきました。やっと我に返ってカレンダーを眺めれば、まだ十一月半ば。やれやれと胸をなでおろし。クリスマスにはクリスティの思い込みがいかに深いかをあらためて認識した次第です。この手の錯覚をアリバイ作りに利用できませんかね(杉みき子さん)。
■泉淑枝さんのお便りを興味深く読ませて頂きました。まさか「ティー・ラウンジ」で長沢節さんのエピソードに出会えるなんて、夢にも思いませんでした。知人より送られた新聞の追悼記事で、[薄れゆく意識のなか、自分で帽子の乱れを何度も直した]ということを知って、「さすが」と思う半面、何だか哀しい気持ちにもなりましたので、試写室での暖かい逸話に感激も一入でした(古川洋子さん)。
■旅芸人(司会の仕事)はやめたのに、何故か相変わらずの『鞄と旅する女』の暮し。村上さんや安藤さんのように、ゆったりと外国を旅してみたいけれど、今失業中なので予算的にちょっと……ネ。それでお金が無くても行けるようなその辺を、風の吹くまま気の向くまま、ウロウロ旅して歩いています。あっ、そういえばこの前金沢に行った時、"栗介"という名前のでっかい栗まんじゅうを立ち喰いしました。まんじゅうを噛んで中からアンが飛び出した瞬間、ちょっと"身近な世界のクリスティ"している気分になりました。ところで、私が第一回を書いたアノ連載、続きはどうなっちゃたんでしょうか?(泉淑枝さん)
 そういえば、そのような企画を昔考えたことがありましたね(S)。
■昨年12月下旬に引越しました。新住所は下記のとおりです。天気の良い日には、文字通り南のベランダから富士山が見えます。北のベランダからは西武ドームやトトロの森も見え、なかなか快適なところです。ただし12月末という引越し時期が悪かったためか、この冬は寒くてマイリました。正月休みはもちろん、2月、3月も外出するのが面倒になってしまい、ついに5月の連休を過ぎても一回も新宿に出かけずじまいでした。したがって映画を一回も見ない有り様ですが、さすがに人混みが恋しくなってきました。今後もよろしく! (S)


 ・・・・・・・・・・ウインタブルック・ハウス通信・・・・・・・・・・・・
☆ 編集者:数藤康雄 〒189      ☆ 発行日 :2000.9.15
  東村山市XX町XーXーX        ☆ 会 費 :年 500 円
☆ 発行所:KS社              ☆ 振替番号:00190-7-66325
                        ☆ 名 称 :クリスティ・ファン・クラブ


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