ウインタブルック・ハウス通信

クリスティ・ファンクラブ機関誌

1999. 9.15  NO.57

編集前記

 1977年の創刊以来、書評の一部を担当していた光文社のEQ誌が今年の7月号で休刊することになりました。年間百冊を越える翻訳ミステリーを読んでいたので、これで多少は暇になるかと思ったのですが、知らないうちに患ってしまったミステリー中毒症は簡単には治りませんでした。あいも変わらずミステリーの乱読を楽しんでいます。
 ということで今号の編集にも、これまでと同じ時間しか割けませんでした。当然これまでと同レベルの内容で……(S)。


< 目  次 >

◎ミステリチャンネルのクリスティ特集―――――――――――――――――安藤 靖子・林 克郎・原岡 望
◎インターネットもクリスティがいっぱい―――――――――――――――――田中 茂樹
◎黄金時代のアガサ・クリスティ――――――――――――――――――――ジャネット・ローレンス  要約:小堀 久子
◎クリスティの味――――――――――――――――――――――――――安藤 靖子
◎クリスティ症候群患者の告白(その26)――――――――――――――――数藤 康雄
◎ティー・ラウンジ
★表紙   高田 雄吉


ミステリチャンネルのクリスティ特集

安藤 靖子・林 克郎・原岡 望

 ミステリチャンネルとは、デジタル衛星放送SKY PerfecTV の中でミステリ映画を専門に放送するTV局です。そのミステリチャンネルが昨年の12月から今年の1月にかけてクリスティ映画を連続して放映することになり、それに合わせて自主番組を制作することになりました。
 企画されたクリスティ特集は、前半が「クリスティーの魅力」という題名で、元早川ミステリマガジン編集長(現ミステリチャンネル編集長)菅野さんの司会のもと、翻訳家の中村妙子さん、深町眞理子さん、そして私がクリスティの魅力を語るという内容の番組でした。そして後半はファン参加の[クリスティ・クイズ]という構成になりました。
 最初にこの番組の話をきいたとき、前半については、毎度おなじみのクリスティ会見記を話せばいいと思い、後半は単なるコンサルタントだから高みの見物に過ぎないと思い、つまりいずれにしてもたいした負担にはならないだろうと考えていました。そして実際、番組の収録はそう緊張することもなく終了したのですが、番組の企画段階で頼まれていたことが一つありました。それは、[クリスティ・クイズ]に数人のクリスティ・ファンが参加するよう働き掛けてほしいというものでした。
 これには二つの意味があります。一つは応募の参加者が少なかった場合の数合わせをするためです。そしてもう一つは、番組を盛り上げる関係上、結構な難問を軽々と(?)答えてしまうクリスティ・ファンが必要とされるということです。
 こういう場合の人選はなかなか大変です。そこで状況が変わってもすぐに連絡ができるように電子メールをもっていて、なおかつ一般の応募者が多すぎて参加できなくなっても文句を言わない気の優しい(!)ファンを最低限確保し、その後一般の参加者が少ないことがはっきりした場合には急遽手紙で参加を依頼するという方針で、ファンクラブ員に声をかけてみました。最終的には5人のファンクラブ員関係者が参加することになったというわけです。
 私がTVに出てもいいか、と安易に考えたもうひとつの理由は、こんなマイナーなTVなど誰も見ていないだろう(シツレイ!)と考えていたことがありました。ところが、これがとんだ大間違い。まったく予想もしていなかった人が見ていたのには驚きました。「あのセーターがダサい……」、「もう少し気のきいたことを言えばいいのに……」、「髪がボサボサで……」と、ミステリーに直接関係のない酷評ばかり。結局TV局から送られてきたビデオも、見る気が失せてしまいました。トホホホ……(S)。


これは本当にミステリー

安藤 靖子

 11月21日に参加するアガサ・クリスティ・クイズに備えて、1993年、サンシャイン劇場でクリスティの名作4戯曲が連続公演された時のパンフレットに「クリスティ・カルト・クイズ」が載っていたのを思い出し、参考までに見てみました。その中にはポアロのフラットの電話番号を二つ答えさせるものや、ホワイトヘブン・マンションの部屋番号を答えさせる難問まであって、「こんな問題が出たらお手上げだ」と、すっかり弱気になってしまいました。しかしそこは中年のしたたかさ、「こんな問題が出るはずはない」と勝手に決め込んで、とにかく字と写真の割合が半々位で、楽しみながら読める「生誕百年記念ブック」を読み直すことにしました。それも済んでしまうと、ずいぶん前に大宮の書店で見つけた"Agatha Christie Trivia"(Richard T. Ryan 著、Quinlan Press 1987)というクイズ問答集をパラパラと眺め……という具合に、結局はつまみ食い的な準備で当日を迎えることになりました。
 21日、会場の早川書房ビル地階のレストランには14名のファンが集合しました。第一部は中村妙子先生、深町真理子先生と数藤さんが「クリスティの魅力」を語るトークショウのかたちで進められましたが、私にとってはこのお三方に初めておめにかかる機会を得たことが何よりの収穫でした。まず、「火曜クラブ」に出てくる「トライフル」というお菓子と紅茶がサービスされてほっと一息。中村先生が、最近翻訳された「マン島の黄金」の中から「崖っぷち」という短編を例にあげてクリスティ失踪時の心理状態を解き明かされたり、数藤さんが実際に会ったクリスティの印象を披露なさったり、とても興味深いお話をうかがうことができました。マダム・タッソー館に展示された蝋人形をどうやって作ったか、クリスティがジェスチャーを交えながら説明してくれたというお話には特に興味深いものがありました。また、「第二のクリスティ」といわれるような作家が出てくるが、彼女の生きた時代は過去のものであって、クリスティのような作家はもう出ないだろうという深町先生のご意見には思わず大きく頷いてしまいました。
 休憩をはさんで、第2部「アガサ・クリスティ・クイズ」が始まりましたが、問題は三択で、与えられた番号札をあげて答えるようになっていました。ポアロやミス・マープルの目の色から始まって、作品に登場するペットの名前、音楽の曲名、聖書の言葉が題名になっている作品名、「書斎の死体」の髪の色を答えさせるものまで、勘に頼らなくてはならない問題が沢山ありました。結局、21問中14問以上に正しく答えられた5名が決勝に進出することになり、林克郎さんと私が16問正解で一位になったことを知った時にはビックリしました。
 決勝クイズは11問でしたが、接戦の末、1点差でリードしていた私を優勝へと導いてくれたのは、エドマンド・スペンサーです。クリスティの墓碑銘になっている詩の一節は"The Faerie Queen" からの引用で、この詩人と詩集の名前は30年以上昔に「英文学史」で、私の頭にインプットされていたものでした。 中村先生からCSテレビのチューナーの目録を授与された時には、思わず、「これは、本当にミステリーだ!」と叫びたい心境でした。スペンサーさんありがとう、あなたのおかげです。


賞品は旅行券

林 克郎

 縁あって今回の番組に参加させて頂くことになったわけですが、クイズ大会のために勉強をした方がよいものやらどうやらと、つまらないことをしばらく悩んでいました。と言うのも、数藤会長から「優勝賞品はCSアンテナとチューナー」と事前にこっそり教えてもらっており、「優勝すればオンエアが見られる!(言い換えれば、優勝しないとオンエアが見られない)」という出演者にとってこのうえ無いプレゼントが待ち構えていた一方、「当たれば儲け、外れれば仕方が無い」というぐうたらで楽天家な自分もいたからです。結局、受験勉強と同じで直前にあがいても結果は同じ、と勝手に理由をつけて何もせずに当日を迎えました(実際『クリスティ読本』を会場まで持ち込んで、直前まで読んでいらっしゃった方もいました……)。
 神奈川県に住む身としては、神田に行くことなどそう頻繁にあるわけでなく、一通り古本屋をめぐってからミステリの殿堂早川書房に向かいました。案の定、入場を待っていたのは女性が多く、少々心細かったのを覚えています。当日は身重の妻と義兄の三人で参加させて頂きました。義兄はクリスティを読んだことがあると言うので安心していましたが、妻はクリスティはおろかミステリなど全く興味が無い人で、「クイズ大会なんて恥をかくだけだ」とイヤがるのをなんとか説き伏せて参加してもらいました。
 本番の会場となった早川ビル地下のレストラン「ラ・リヴィエール」は、スタッフが多数いらっしゃったせいか、思ったよりも狭く感じました。数藤会長ご本人に会うのは初めてでしたので、短い挨拶をさせて頂き、後列端に着席しました。翻訳家の中村妙子さん、深町眞理子さんはお顔を拝見するのも初めてで、普段は人前に出ることなどないご職業ですからでしょうか、私にはとても緊張されているようにお見受けしました。
 前半の「クリスティーの魅力」は、お三方がそれぞれの視点から彼女の魅力を語られ、あっと言う間に過ぎ去りました。そしてしばしの休憩の後、いよいよクイズ大会が始まりました。これがなんと難しいこと。完全にカルトの世界でした。「『書斎の死体』で見つかった死体の髪の色は?」など、たまたま最近再読していたために答えられたものもありましたが、半分は当てずっぽうで答えました。妻はもちろん判るはずもなく、私が番号札を取るのを横目で見ながら上げていたようです。私もさりげなくゆっくり札を取ったりもしました。
 運良く予選を突破することができ、決勝に進んだわけですが、まさか前に集められるとは思わず、すっかりアガってしまいました。男性が私一人だったのも影響していたでしょう。安藤さんが早々に優勝を決められた後の2位決定戦は、何問にもわたり全員が正解し続け、ついには用意した問題が出し尽くしてしまうというハプニングに見舞われ、番組としては大いに盛り上がりました。スタッフはあせっていらしたようですが……。結局、数藤会長がその場でお出しになった問題を私が答え、決着がつきましたが、その頃にはすっかり疲れ果てていました。
 後日、優勝された安藤さんが御好意で本番のビデオを郵送して下さり、夫婦そろって楽しく拝見することができました。ありがとうございました。また、直前までイヤがっていた妻も、準優勝で頂いた旅行券に満足し、先日産まれた子供とどこへ旅しようか話合っています。義兄には帰りに焼き鳥をおごり、大満足してもらいました。


クリスティ・クイズ反省の弁

原岡 望

1週間前
 数籐さんより、出演の打診。喜んでOKする。対策を考えなければと『アガサ・クリスティー読本』と『ポアロとミスマープル』を探す。後者が何故かみつからない。
 [第一の失敗:教訓。本はちゃんと整理しておくこと]
3日前
 遅まきながら『クリスティー小百科』を読みはじめる。覚えようと思うとなかなか頭に入らない。
 [第二の失敗:教訓。昼休みでもなんでも、なりふり構わず本を広げるべきであった]
当日1時間前
 会場に入る前に並んで待つ時間が少々。自信有りげな若い方々が何人か。ツアーに行くとか行かないとかおしゃべりしている。もうここで、怖じ気づく。スタッフの方が、リハーサルの話をしている。なんでも髪の色とか目の色とかいっているようだ。なんとなく聞き流す。
 [第三の失敗:教訓。細かい情報を無駄にせずに行動にうつす。ボアロとミスマープルの基本的データなど5分位で復習できたはず]
予選開始直後
 いきなり目の色の問題が出てきてがく然。そもそも挿絵などで体つきや顔までは記憶しているが目や髪の色までは。考えてみると自分でミステリーを読む時外見の描写など殆ど気を配ったことがない。記述の不整合などは結構気がついていて作者に指摘の手紙を出したりしているのだが。もっともクリスティについては皆無。
 [ここでは舞い上がってしまって教訓どころではない]
決勝戦
 蚊帳の外になったので気楽に観戦。スリリングだった。優勝した安藤さんの笑顔が印象に残る。
帰宅して
 ウィンタブルックハウス通信のバックナンバーをみて、安藤さんも二位の林さんもかなりのマニアであることが判明。多少自分を慰める。しかし創刊当時の会員としては少々お粗末だった。


インターネットもクリスティがいっぱい

田中 茂樹

 職場ではインターネットを愛用していますが、家では時間がないこともあり、パソコンをインターネットに接続していません。そこでクリスティ・ファンクラブのホームページは、田中さんが契約しているプロバイダのディスクの一部をお借りして開いています。
 開いた理由は、クラブへの問い合わせ先を公開しておきたかったためです。文字通りの掲示板としての役割しか考えていないのですが、新しいWH通信を発行するたびにバックナンバーを電子化して追加しています(更新は7月と1月中の年2回)。No.38から掲載していますので、旧いWH通信に興味のある方は接続してみてください。よろしく!(S)


 アガサ・クリスティ・ファンクラブのホームページは1996年11月7日にスタートしました。すでに2年以上が過ぎました。何人の方に見ていただいたかを正確に知るのは難しいですが、1997年5月27日からスタートしたカウンタは、7000を超えたところです。7000という数が多いか少ないかは難しいところですが、個人で地道に設けているページとしては、まずまずのものではないでしょうか。もっとも、53号で著作リストのページをご紹介されていた永田健児さんのページは活発な活動をされ、カウンタも6万2000回を超えており、それにはとてもびません。
 ファンクラブのホームページについては、数藤さんに全面的にお任せしてあり、私は、サーバー上に登録する作業のみを行っています。会報の発行に合わせて、数藤さんが新しいページを作成され、それを私がサーバー上にアップするという形です。ファンクラブとしての永い活動の蓄積が、内容的には最大の強味となっています。ホームページを見て、会員になられた方も、既にかなりいらっしゃると思います。
 ファンクラブのホームページをスタートした時点では、クリスティ関連のページは、アメリカのコロンビア大学の学生のものぐらいで、専門のページはあまりありませんでした。それが現在では、国内外を問わず、数多くのサイトがあります。インターネット上の情報を分類して掲示しているYAHOO!というサービスのアメリカ版では、クリスティ関連のサイトを13カ所紹介しています。アメリカ、イギリスに加えて、ブラジル、チェコ、アイスランドといった国のものもあります。フランス、ドイツのページも見たことがありますし、その人気が世界的であることを証明しています。変わったところでは、Agatha Christie's family churchのページ"All Saints Torre"や、"AGATHA CHRISTIE COUNTRY"と名付けられたSouth Devonの観光案内まであります。
 ミステリ関連のホームページとしては、The Mysterious Home Page、Tangled Web、ClueLass Home Pageの3つが有名ですが、アクセス数の増加に伴って、商業ベースが入ってくることで、お金をかけるようになったぶん、かえって分かり難くなったりすることもあります。日本では、翻訳ミステリファンは、ミステリファンの中では少数派ですが、アメリカでは、勿論、大きなビジネスとなっており、それだけ商業ベースでのデータ提供も多くなるわけです。書店との連動は勿論、出版社もインターネットでの情報提供に力を注いでいます。日本では、東京創元社が、40周年を記念してようやく開設しましたが、早川書房はまだです。ハヤカワ・ミステリの全巻リストを作成され、公開している林克郎さんのような方はいらっしゃいます。
 私も、細々ながら、自前で翻訳ミステリ関連のページを作っていますが、ひとつには、自分が本当に関心を持っている情報が掲載されているページがあまりないためです。私のミステリのページでは、25人の作家を取り上げ、作品リストを掲載していますが、個別のページが他にある作家は、半分ほどです。インターネット上では、様々な情報を得ることができますが、本当に欲しい情報は、結局自分で探し出すしかない、ということであり、それが自分でページを開設する理由でもあります。私が必要としている情報を、他にも必要としている人がいるかどうか分かりません。自己満足といわれれば否定はしませんが、1人でも共感してくれる人がいれば、それで作った意味があると思います。
 インターネット上の情報を提供する場合は、URLと呼ばれる所在場所を伝えるリストを掲載するのが普通ですが、インターネットを利用されていない方にはなんの意味もありませんし、接続されている方にとっても、手で入力するのは煩わしいものです。今回の原稿に関連するリンク集を作成し、私のサイトに掲示しますので、興味をお持ちの方はそちらを参照して下さい。URLは、http://www.asahi-net.or.jp/~ph5s-tnk/mystery/aclink.htm です。


黄金時代のアガサ・クリスティ

ジャネット・ローレンス  要約:小堀 久子

 本稿は"AZ Murder Goes...Classic"(Edited by Barbara Peters and Susan Malling,The Poisoned Pen Press)の中の一編"Publishing in the Golden Age of Crime Fiction"の要約です。
 この本にはドイルやカー、ハメット、チャンドラーなどの作家論が取り上げられており、その中の何本かは、すでに「早川ミステリ・マガジン」に掲載されました。おそらく本稿の全訳も、同誌に載ることになるのでしょう。ここではその予告編というわけで、主としてクリスティに関係する部分をピックアップして紹介することにしました。
 機会がありましたら、ぜひ全文をお読みください(S)。


 恥ずかしいことに私は、長く当ファンクラブの会員でありながら、1920〜30年代がミステリーの黄金期と呼ばれている事すら知りませんでした。本当はクリスティ以外のミステリーはあまり読んでいないのです。
 そんな私にこの文章は、ミステリーの初歩を教えてくれたといえましょう。またミステリーの歴史に目を開かせてくれただけではなく、当時の出版事情を知り、そこから現在に至るマスメディアのあり方についても推察することができ、たいへん興味深く、有益なものでした。  著者ジャネット・ローレンスは、料理についての著書をいくつか出しながらミステリーも書き、英国推理作家協会の会員として活躍されている方ということです。
 ここに拙い抄訳ですが、クリスティに関する部分を抜き出してみましたので、ご一読ください。

*    *    *    *    *

 二つの世界大戦に挟まれた1920年から1940年の20年間は、探偵小説の出版事情が大きく変化した期間であった。1923年にはイギリス国内で年間7992冊の新刊書が刊行されたが、1933年にはその数は9905冊に昇り、その内フィクションは1950冊であった。平均すると毎週40冊程度の新刊小説が刊行されていたことになるが、実際には春、初夏、秋の3シーズンに密集しており、人々の注目を集めようとしのぎを削っていた。
 1940年以降も市場は拡大を続けるのであるが、第二次世界大戦によって出版事情はさらに大きく変わるので、作者は調査をこの20年間に限定している。
 この20年間、探偵小説は多くの中流家庭に受け入れられていった。1930年には、批評家やエッセイストが探偵小説を取り上げるようになり、文化的にも認められてきた。また養鶏場やマッシュルームの生産を始めるような感覚で、探偵小説家を目指す人も多かった。
 当時の出版社中、最大手はコリンズで、続いてゴランツ、ホダー・アンド・スタウトン、さらに格が下がってハイネマンとカッセルがあった。出版事業を始めるのはたやすいが、儲けを出すことは大変に難しく、幾多の小さな出版社は資本金と専門知識の少なさのために消えていった。
 アメリカの出版社がロンドンの出版社と提携するようになったのもこの頃である。アメリカ出版界においても英国作家は重要な位置にあった。1920年代の出版社の取引リストには探偵小説も多くみられ、じきにアガサ・クリスティの名前がその中に加えられることになる。
 しかし"犯罪小説の女王"といわれるアガサ・クリスティも、ただちに世の中に認められたのではなかった。彼女の自伝によれば、第一次世界大戦中、病院の薬局に勤めていた頃に『スタイルズ荘の怪事件』を執筆し、最初ホダー・アンド・スタウトンに送ったがすぐに送り返されてきたという。次に夫アーチーの空軍時代の友人が取締役をしているメシューイン社に送り、今度は六ヶ月程で戻ってきた。その次もどこかに送って、やはり戻ってきた。しだいに望みを無くしつつあったクリスティだったが、そのころジョン・レーンが創設したボドリー・ヘッド社が一、二冊探偵小説を出版していたので、そこへ送ることにした。やがて第一次大戦が終わり、夫が帰還し、新しい幸福な生活に追われるうちに、いつしかこの小説のことは忘れていった。
 ボドリー・ヘッド社ではクリスティの原稿を一時紛失していたが、ある時オフィス・ボーイがそれを見つけた。そして原稿を送ってから実に二年後に、ボドリー・ヘッド社から、連絡をくれるようにとの手紙がクリスティの元に届いたのだった。
 ジョン・レーンは、この原稿はなかなか見込みがあるが、多少手直しした方が良いと言った。たとえば最後の法廷シーンが良くないと言うので、クリスティは舞台を変えてみることにした(後には『検察側の証人』で熟練した法廷描写をみせるのではあるが)。
 この時のクリスティとボドリー・ヘッド社との契約内容は、前金無しで、最初の2000部までは印税無し、その後はわずかだが印税を支払う、連載または演劇化権の半分は出版社にいく、というものだった。
 その当時、ほとんどの作家の初版は900部も売れなかった。しかもそのほとんどの販売先は図書館だった。当時の平均として、印税は最初の2500部までは出版価格の10%、次の2500部までは15%、それ以降は20%となっていた。900部までのものには、前金が30ポンド支払われるだけで、また販売価格は7シリング6ペンスだった。
 クリスティの場合、不当な契約内容ではあったが、出版事情に無知だったため、自分の本が本当に出版されるということに舞い上がり、大喜びでサインをしたという。
 そして、最初の本がささやかでも売れた作家は、将来を見込んで一度に三冊の契約をするのが常だった。クリスティはこの契約時に次の五作をボドリー・ヘッドと契約した。
 ジョン・レーンはクリスティを不当に扱ったといえるが、一つ良い導きをしたとすれば、アガサ・クリスティという本名を使うように強く勧めたことであった。クリスティは探偵小説の場合、作者が女性名では偏見を抱かれやすいと思い、マーティン・ウエストかモスティン・グレイという男らしい名前がぴったりだと考えていた。しかしジョン・レーンは、アガサという名前は珍しいので人々の記憶に残りやすいから、ぜひ本名のままで、と主張したのだった。
 四冊目の『茶色の服の男』を書き上げる頃には、クリスティは出版界の事情に詳しくなっていた。自伝によれば、それまでの無知や愚かさを反省し、作家協会の定期刊行物も読んで勉強したという。そして出版社とのつきあいは慎重にしなければと考え始めた。
 この四冊目を出版する前に、ボドリー・ヘッド社はそれまでの契約を破棄して、新たに五冊の契約書を作ろうと持ちかけたが、クリスティは丁寧に断った。クリスティは、〈ヒューズ・マッシー〉社のエドモンド・コークを著作権代理人として雇い、彼を通してコリンズと三冊の契約を1924年1月27日に結んだ。そして通算六作目になる『アクロイド殺し』を、ボドリー・ヘッドとの契約の五冊目『チムニーズ館の秘密』の出版を待って、1926年に出版した。
 エドモンド・コークとクリスティは、それから40年以上も親しくつきあうようになるが、今日のように著作権代理会社が著しく活躍し始めたのも、この黄金期だった。出版社と直接交渉せずに代理人を通し、よりよい条件を求めて出版社を変えることが作家の常識になっていった。
 さてコリンズ待望の初めてのクリスティ作品『アクロイド殺し』は初刷りで約5500部刊行され、4000部が瞬く間に売れたらしい。残念なことにロンドン大空襲(1940−41)で当時の資料が失われ、はっきりとした数字はわからない。また、『アクロイド殺し』刊行直後に例の失踪事件があり、そのことも相当売り上げに影響した。
 その後『ビッグ4』(1927年)は8500部売り上げ、クリスティ自身が「それまでで一番ひどい作品」と言う『青列車の秘密』(1928年)は、売り上げが7000部をわずかに切った。続く『七つの時計』(1929年)は先の『チムニーズ館の秘密』の続編で、作風がそれまでとは違うものだったが、8000部以上売り上げた。
 1930年にコリンズは"クライム・クラブ"を旗揚げする。これはゴッドフリー・コリンズ卿とその甥のウィリアム・コリンズの独自の発想から生まれ、それまでのブック・クラブ(書籍の共同購入会)とは違い、巧妙な宣伝活動というべきものだった。毎月推薦作品を一つと、二つの準推薦作品を定め、雑誌でそれらの内容を紹介した。最初の推薦作品、フィリップ・マクドナルドの『The Noose』は、初版で約5500部刊行された。数ヶ月後に推薦作となったクリスティの最初のミス・マープル作品『牧師館の殺人』は、"クライム・クラブ"の宣伝効果が薄れていたので、5500部しか初版を出さなかった。しかし1935年に『三幕の悲劇』を刊行する頃には、刊行後1年以内に一万部を売り上げるようになっており、1943年の『五匹の子豚』の頃には二万部に達するようになっていた。それ以来、部数が減ることはけっしてなかった。
 この黄金期を通じて、連載権は作家の収入に大きな位置を占めていた。クリスティの最初の二冊は、二冊目の『秘密機関』でわずかな印税が入っただけだったが、《ウィークリー・タイムス》に連載権が売れて、一冊目の『スタイルズ荘の怪事件』で25ポンド、二冊目の『秘密機関』で50ポンドの収入をもたらした。四冊目の『茶色の服の男』には、《イブニング・ニュース》紙から500ポンドの申し出があった。しかし《イブニング・ニュース》紙は、タイトルを『女流冒険家アンナ』に変えたいと言った。クリスティは「こんなつまらないタイトルは聞いたこともない」と思ったが、500ポンドという信じがたい幸運のために口をつぐむことにした。
 自伝によれば、この30年代をクリスティは「私の財閥時代」と呼んでいる。作品がアメリカで連載物になり始め、その連載権料はイギリスでのものより遙かに高額だった。また資本利息の支払いとみなされ、所得税がかからなかった。
 探偵小説の適度な長さは、クリスティにとっては五万語だという。「出版社としては五万語では短すぎるだろうし、読者の方もお金を払ってわずか五万語では納得しないだろうから、六万語から七万語が歓迎される。しかしそれ以上長くなれば、もっと短い方が良かったと思うことが多い」と自伝で述べている。当時の探偵小説は実際、六万語から七万語の物が大多数であった。
 第一次世界大戦前の探偵小説の装丁には華麗な型押がみられたが、戦時中は一時質素になり、後にまた復興した。20年代初期にはまだ薄手のボール紙に低質の紙で作った本が刊行されていたが、20年代中期になると、挿し絵付のブックカバーが登場する。これらは中流階級の読者を狙った新しい試みで、特に探偵小説に多かった。しかしそのジャケットのイラストはだいたいにおいて本の内容を無視したもので、高級な服を身につけ手足を投げ出した死体が、けばけばしい色合いで最悪なデザインの活字とともに描かれ、また筋に関係なく武器を、それも東洋風の奇妙な装飾の短刀か、甘草色の自動小銃を大きく描くのが好まれていた。
 ボドリー・ヘッドは優れたブックデザインで知られているが、クリスティは同社から刊行された『ゴルフ場殺人事件』のカバーには大いに不満だった。色もデザインも最悪で、パジャマを着た男がゴルフ場でてんかんを起こして死にかかっているような絵だとクリスティは思った。きちんとした服装の被害者が短刀で刺されるという筋なのだから、もしカバーを内容と関連づけるのであれば、少なくとも間違ったことを描くべきではない、と本当に腹を立てた。そして今後はまずクリスティがカバーをみて同意するということになった。それは実行され、以来クリスティは、カバーにポアロが登場することをけっして認めなかった。一度『Poirot's Early Cases』のジャケットにポアロのエナメル革の靴を履いた足を描くのを認めたが、たとえ部分的であれ、快く思わなかったという。
 黄金期には探偵小説の批評家たちもまた力をつけてきた。20年代初期には匿名で執筆していたが、良い批評は本の売り上げを伸ばすとして、ゴランツ社を創設したビクター・ゴランツなどは、優秀な批評家を雇い入れ、やがてブックカバーや広告に、批評家名入りでその引用を載せるようになった。《パンチ》誌では、'ブッキング・オフィス'と題するコラムで、しばしば大きくスペースをとって、熱心にクリスティの作品などを紹介した。
 好意的な批評は売り上げを伸ばした。クリスティの場合は、大半が素っ気なく見下したような批評だったのに、部数には影響しなかったようだ。30年代を通じてポアロとクリスティの知名度の高さに比べて、ほとんどの新聞がそれらの作品の批評に割いたスペースは不十分で、「読みやすい」「ひねりが利いている」「非凡な名人芸」といった、絶賛とは言えないものが大部分だった。また批評家たちは、あらを見つけようとやっきになって、ほんの細部といっていいようなところまで標的にした。ちなみに1930年の『もの言えぬ証人』について《タイムス》誌に掲載された批評はこうである。「真夜中に数フィートほど開いたドアのそばで、トンカチと釘を使ったりワニスを塗ったりするなど、まともな人間のすることだろうか? それに女性たちは化粧着にブローチを付けたりするだろうか?」
 30年代、出版社が広告に投入する金額は、その20年前に比べて遙かに高騰していた。しかしその費用に見合うだけの売り上げがあったとは言い難い。広告は作家に対するまき餌だったのだ。条件面で大差がないとしたら、作家はより広範囲に宣伝をしてくれる出版社を選ぶからだ。
 そんな中で1936年に、広告をしないペーパーバックのペンギン・ブックスが創刊された。ペンギン・ブックスは広告を行わないが、書評や論説ページで広報活動を行い、また、いわゆる口コミで着実に売り上げを伸ばしていった。それまで広告を伴わない広報活動という概念は、商業界広しといえどもほとんど認識されておらず、(そうとは認識されずに行われることはあったが)創業者のアレン・レーンでさえ、自社に初めて広報活動部長という役職を設けたのは、それから十年も後のことである。
 アレン・レーンは、ボドリー・ヘッドの創設者ジョン・レーンの甥で、同社で叔父と共に働いていた頃から、クリスティとは親しい友人だった。ペンギン・ブックスのアイディアが生まれたのは、1934年、クリスティとマックス・マローワンのデヴォンシャーの家で週末を過ごした帰りに、エクセター駅で1時間乗り換えの汽車を待っている間のことだったという。駅の本売場は当時の重要な書籍販売拠点だったが、そこで売られていたのは、けばけばしい表紙の雑誌や高価な新刊本、くだらない小説の安っぽい再版本ばかりで、アレン・レーンには買いたい物が見つからなかった。ロンドンまでの長い時間を、読書もできないでどうやって時間をつぶそうかと考えているうちに、数年来漠然と考えていたことが具体化してきたのだった。
 アレン・レーンは叔父と袂を分かち、別の会社としてペンギンを始めたが、それより何年も早くスタンレー・アンウィンが同じような出版を始めていたので、ペンギンがペーパーバックを始めた最初の出版社というわけではなかった。しかしペンギンの新しいところは、他の出版社からすでに出版されていた作品を6ペンスで刊行するという点だった。とはいえ多くの出版社が協力し、快く版権を譲ってくれたわけではなかった。
 初版として、1万7000部から1万8000部売り上げれば損益無しというところで、2万部刊行された。前金は1000部の売り上げに対して25ポンド支払われ、交渉次第では最大の売り上げ数値に対して50ポンド、あるいは販売価格6ペンスでの収益の4%が支払われた。同じ本が第二版になるまで、それ以上の収入は無く、第二版になれば前金が50ポンド入ったが、4万8000部を越えるまで印税はなかった。
 しかし1935年の初版十冊のうち、ドロシー・セイヤーズの『ベローナ・クラブの不愉快な事件』でさえ1938年になるまで2万部に達しなかったし、クリスティの『スタイルズ荘の怪事件』も40年代に入るまで届かなかった。アレン・レーンは楽天的すぎると誰もが思った。とはいえペンギン・ブックスの最初の十冊は、30年代の探偵小説の隆盛を何よりも物語っている。
 ところで、アレン・レーンはクリスティと親しい友人であったが、「彼女には悪いが」と断って、ドロシー・セイヤーズは重要な作家だが、クリスティは器用なエンタテイナーに過ぎない、と1934年に語っている。
 ペンギン・ブックス成功の要因の一つには、総合小売りチェーンのウルワース社との提携があげられるだろう。出版事情を語るとき、販売会社も忘れることはできない。
(全体の1/4ぐらいの要約です。著作権的には問題もありますが、お許しを!(S))


クリスティの味

安藤 靖子

 「早川ミステリ・マガジン」の読者ならご存知のはずですが、今年の1月から早川ビルディングの地下にあるレストラン"ラ・リヴィエール"では、毎月海外ミステリー作家にちなんだ特別メニューを提供し始めました。第一弾がロバート・P・パーカーの作品に登場する料理で、第二回がクリスティの料理。私はクリスティ・ファンの代表として(?)、その試食に呼ばれましたが、グルメとは対極に位置するような人間なので、料理についてはなんの批評も出来ない、という条件で出席しました(その結果はHMM1999年2月号を参照してください)。
 本稿やティー・ラウンジの文章などを読みますとかなりの人が足を運んだようで、多少はPRになったのか、と一安心しました(S)。


  「早川ミステリマガジン」2月号で数藤さんと前島純子さんの対談、「クリスティを召し上がれ」を読ませていただきました。昨年11月に結婚した娘が、神田多町、第三ハヤカワビル近くの商社で働いているので、誘って二人で出かけました。予め2月22日に予約の電話を入れると、24、25日はすでに満席ということで、26日の6時を予約しました。
 当日、ハヤカワビル地下一階のレストラン、"ラ・リヴィエール"には20人ほど来ていてほぼ満席でした。私たちの後から若い女性が二人入るとそれで空席はなくなり、途中から人が入ることもなく、落ち着いた雰囲気でゆったりと食事をとることが出来ました。食事の前に配られたメニューには、各料理の解説のかわりに、料理の出てくる部分が作品から引用されていました。オードブル、スープについで出たのは有名なフィッシュ&チップス。じゃがいもがとても美味でした。舌平目ノルマンディー風もさっぱりとした上品な味で、たっぷりとしたソースはフランスパンにつけていただきました。イギリスの料理の本には必ずといっていいほど出てくる、ステーキ&キドニーパイとローストビーフに添えられたヨークシャー・プディングは初めてなので印象に残りましたが、私の想像していたものとはかなり違っていました。ここまでの料理でほぼ満腹状態になってしまったので、デザートのアップルパイとトライフルは食べられるか心配でしたが、一皿にふたつ一緒に盛りつけられたお菓子は小さめで、胃の負担にはならない量でした。トライフルは「WH通信」51号のミセス鈴木のパン・お菓子教室でも紹介されています。このトライフルは、11月のミステリ・チャンネル番組収録の時にいただいたショート・ケーキ風のものとはちょっと違っていて、丸形で、甘みの中にもシェリー酒(?)の味がひきたつ大人の味でした。
 帰りがけに、支配人の篠田さんとお話しました。この企画は好評で、今後もずっと続けてほしいという要望があるそうです。2月のクリスティの後、3月にはD・フランシスのコースが始まります。篠田さんはじめレストランのスタッフは、5月のチャンドラーのコースに備えて目下作品の精読につとめているとか。ミステリチャンネルの宣伝を見て来る人が多く、当日、私たちの隣の席にいた10名ぐらいのグループもそういう人たちだということでした。「こないだは、放送を見てわざわざ神戸から来た人もいまして…」と、篠田さんは嬉しそうでした。つまり、それはあの「アガサ・クリスティ・スペシャル」を見た人も大勢いるということになりますね。


クリスティ症候群患者の告白(その25)

数藤 康雄

×月×日 昔『ミス・マープルのすべて』をまとめるとき、ミス・マープルの趣味について「スケッチなどもよく行なっているが、やはり鑑賞のほうが好きらしい。好きな画家はアルマ・タデマ、それにフレデリック・レイトンなどである」と書いた。しかし実際にはアルマ・タデマもフレデリック・レイトンも知らず、単にクリスティの書いた文章を引用しただけ。いまでも美術オンチなので、イギリス美術といえば、相変わらずターナーとロセッティしか知らない人間だが、昨年、岩波新書の『イギリス美術』(高橋裕子著、1998年刊)を読んでいたら、この二人の素性がわかった。
 その本によれば、アルマ・タデマ(1936-1912)は、古代世界を身近にさせる画家で《カラカラ帝の大浴場》が有名、フレデリック・レイトン(1830-1896)はギリシャ神話や旧約聖書を取材した作品が多く《灼熱の6月》が有名で、二人ともヴィクトリア朝に人気の高かった画家である。つまり「ミス・マープルに、好きな作家はアルマ=タデマとフレデリック=レイトンといわせているのは「ヴィクトリア朝の遺物」という彼女の自己規定を決定的に印象づけるものだった」そうである。イギリス人ならば、アルマ・タデマやフレデリック・レイトンが好きといえば、すぐに時代遅れな人物と判断するのだろう。まさにミス・マープルが好きな画家にふさわしいというわけである。
 この本には、もう一回クリスティが出てくる。それは、クリスティ・ファンにはすでにお馴染みのことだが、クリスティの晩年の傑作『鏡は横にひび割れて』の題名は、その「シャーロットの乙女」から採られていると紹介して、テニスンの「シャーロットの乙女」の挿絵を描いたウィリアム・ホルマン・ハントや、それに影響されて絵を描いたジョン・ウィリアム・ウォーターハウスに触れている部分である。
 実は、クリスティのペーババックの表紙を数多く手掛けていたトム・アダムスは、『鏡は横にひび割れて』の表紙画として、このウォーターハウスの絵を模写したものを利用している。本人は、この程度の出来ではウォーターハウスに申し訳ないと不満を漏らしているが(『アガサ・クリスティー・イラストレーション』(早川書房))、この絵が『アガサ・クリスティー・イラストレーション』の表紙にとられていることからもわかるように、トムの表紙画の中ではベストの一つといってよいであろう。なお黄金時代のミステリーに詳しい小林晋さんに教えられたことであるが、ウォーターハウスの「シャーロットの乙女」は、1989年の秋に新宿の伊勢丹美術館で本邦公開されたそうである。
×月×日 鈴木孝夫著の『教養としての言語学』(岩波新書)を読む。この人は、前から自説の例証にクリスティ作品をよく引用しているが、本著においても「人称をめぐる諸問題」という章で、クリスティ作品からさまざまな文章を紹介している。例えば、独り言なのに一人称ではなく二人称を使っている例として『カリブ海の秘密』におけるミス・マープルの独白を載せるという具合。英文法にほとんど興味のない私のような人間にはいささか退屈な議論でもあるが……。
 それにしても鈴木氏はクリスティ作品をかなり読んでいることは間違いない。
×月×日 以前この欄で簡単に紹介したことのある"Agatha Christie's Poirot"(By Peter Haining)が『テレビ版 名探偵ポワロ』(求龍堂)と題して翻訳された。テレビはスポーツに限るという人間なのでポアロ物の放映はあまり観ていないが、ポワロ物は全部で45話あり、ビデオも日本では33話が発売されている。テレビ好きのポアロ・ファンには面白い本だろう。
 なお英国クリスティ協会の会報(1999年春号)によると、スーシェのポアロ物二本(『アクロイド殺し』と『エッジウエア卿の死』)が今夏に製作されるそうだ。乞う、ご期待!
×月×日 シャーロッキアンとして著名な河村幹夫さんから対談のお誘いをうける。目的は、日本におけるシャーロック・ホームズの商標を登録している会社がホームページ(HP)を開設することになり、その一部に、ホームズ・ファンとクリスティ・ファンがチャットしているような仕掛けを作りたいというものであった。ミステリーとインターネットが大好きな人間に断わる理由などあるはずがない。喜んで参加させてもらった。
 4月末現在、対談の結果はまだアップされていないようだが、会社のHPは試験的な運用を開始している(URLはhttp://www.myst.co.jp/)。全体が四階建ての建物を想定していて、二階は、当然のことながらシャーロッキアン専用のフロアー、三階はイギリス文化を紹介するフロアー、といった凝った構成になっている。試しに二階に接続して見ると、主に河村さんの文章が載っている。それによると、ホームズはカール・ムアーという別名で秘密裏に長崎に滞在していたことがあり、日本人との間に一子をもうけた。それがカール・ムアー−>カルムラー−>カワムラとなって、なにを隠そう、河村さんはホームズV世なのだそうだ。そしていつの日か、ルパンV世と対決したいというのだから、まあ、ビックリ!
 HPは、若い女性プログラマが一人で作成しているようだが、グラフィックの美しさ、センスの良さには目を見張るものがある。興味のある方は、ぜひ一度アクセスを。


ティー・ラウンジ

■今回同封されていたチラシを見て思わずワアーっと声をあげてしまいました。というのも私、昨年11月末から12月にかけてトーキーを訪ねたところだったからです。英国の魅力にとり憑かれ、2人の子どもと過去3回訪英しましたが、肝心のクリスティの故郷へは行けずじまいだったので、今回、高1の娘と中2の息子を主人と母におしつけて憧れのデヴォンへ9日間の一人旅をしてきました。宿はB&Bを利用したので航空運賃も何もかも含めて16万円程度の貧乏旅行でした。トーキー美術館は良かったですが、オフシーズンのためトアアビーは閉館。非常に残念でしたが、かもめが飛び交い白亜の建物が高台に建ち並ぶ風景は、さすが英国のリビエラと呼ばれるだけありますね。今度はぜひ夏に訪ねてみようと誓って帰国した私です。その時は思い切ってバーアイランド・ホテルにも最低一泊はしようと考えています。も〜う、とにかく I love England ! なのです(無量井志帆さん)。
■先日出た久世光彦の『泰西からの手紙』、これはいわゆる<泰西名画>への思い入れをそれぞれの絵について語っているものですが、中でアルマ=タデマの絵について、ミス・マープルのことばを引用しています。「わたしの好きな画家といったらアルマ=タデマとフレデリック・レイトンなんだからね」で、久世氏は自分もこの二人が大好きなので、ミス・マープルとほとんど意見が合う、とありました。この本で私もはじめてアルマ=タデマとレイトンの絵を見ましたが、私にはただ綺麗なだけという気がしましたけど……(久世氏は同世代だからときどき読みますけど、頽廃趣味みたいなものについていけなくて)。でも、いかにもヴィクトリア朝時代という感じで、ミス・マープルがこれらの絵を好きだというのは自然に思います(杉みき子さん)。
■クリスティ以外の話で申し訳ありませんが、日本の推理作家、どうして、こうも、文章がヘタなのか。ひと様に文章を教えている身には、もう耐えがたい悪文に頭が痛くなることも再三。文句ナシにみごとなのは、さすがに松本清張。いま張り合ってシノギを削っている才媛二人、高村薫と宮部みゆき、このお二人は、お上手。それにしても高村サンの『レディ・ジョーカー』60万部突破。宮部サンの『理由』直木賞。日本のエンターテインメントは今やこの二人の才媛に支えられている感じです。毎年長者番付には載るけれど、ワンパターンでマンネリの赤川次郎、西村京太郎……洪水の如く書けばいいというモノではない。推理小説史に残る名作なら生涯一本でもいいと、思うのですが……。
 金稼ぎマシーンになったら、作家とはいえないと思う(斎藤信也さん)。
■西インド諸島にあるバルバドスに私の高校時代の友人が結婚して、もう15年余り暮らしています。この4月に5年ぶりに帰国してリゾートの話になり、クリスティがバルバドスに休暇に訪れていたことを知っていたので聞いてみると、あの『カリブ海の秘密』の舞台になった"コーラル・リーフ・クラブ"というホテルの話をしてくれました。バルバドスの西海岸に面した古いホテルで、もうすぐ改造されるとのことです(老朽化のため)。本当は彼女に誘われているのですが、あまりの遠さに(最低二日はかかる)今だ実現していなくて、改造前の"コーラル・リーフ・クラブ"を見ておきたかったのですが、残念です。
 それから数藤さんは以前グリーンウェイハウスに行かれた時、執事のジョージ・ガウラーさんにお会いになったのですか?(S氏の注:会っていません) 昨年の総会で私達はお目にかかって、それから時々、お手紙やカードを頂いています。新聞のコピーや写真を送って下さって、その中にはかなり貴重な(!?)ものもあるように思います。この方はポアロのあのジョージのモデルなのでしょうか(新谷里美さん)。
■ところで"ラ・リヴィエール"には、サントリー・ミステリー大賞選考会で知り合った女性二人と一緒に行ったのですが(2月16日(火))、予約をしないで行ったためアガサ・クリスティの料理は出してもらえず(他にも二人同時間に行った人がいて、その人たちも予約をしていなかったのでダメでした)、他のものを食べてきました。リーフレットに「予約承ります」と書かれていましたが、"必らず"とか"要"と書き加えられるべきかと思います。数藤様に文句を言ってごめんなさい。残念でした(小森桂子さん)。
■ミステリ・マガジンやEQのベスト・オブ・ベストなどで、昨年のベストに『完璧な絵画』をあげておられたので、さっそく一読しました。ダルジール、パスコー、ウィールドのチームが乗り出し、エンスクーム村の風景や地主一家ら人間関係の描写が果てしなく続き、小生、何度もあくびが出そうになる始末。ところが最後の数頁で、まことに見事な背負い投げを食わされました。プロットのトリックとでもいうのでしょうか。『骨と沈黙』では、それほどとは思わなかったレジナルド・ヒルに、見事にやられました(都甲宰弌さん)。
■"ミセス鈴木のパン・お菓子教室"は、一般のお菓子づくりの本では見かけないようなイギリスらしいレシピを毎回分かりやすく紹介してくださり、一番最初に開くページです。最近話題になっている『アガサ・クリスティーの食卓』を読みました。"フォートナム・アンド・メイソン"など、日本でもなじみ深いものがありますが、やはり、クリスティの作品に出てくる"食卓"の雰囲気を味わうには、イギリスに行かなくては……、できれば長期にゆっくりと……、などと思っているところです。スコーンと一緒に食べると美味しいクロテッド・クリーム、日本でも手に入りやすいですが、ハチミツと混ぜると、またまたいけますヨ! イギリス人に教えてあげたいくらいです!!
 同封していただいた日本交通公社のパンフ。参加したいのですが、日程などの都合上、あきらめなければならず、残念です。目の毒でした(金井裕子さん)。
■アメリカでは100局程のTV番組があり、ミステリ番組では、アメリカもの、イギリスものが交互に放映されていました。シャーロック・ホームズ・シリーズとポワロ・シリーズは定番です。私の好きなミス・マープルにはお目にかかれませんでしたが、セント・メアリー・ミード村のようなカントリー・ビレッジが舞台になったストーリーはありました。我が家に9年ぶりに、アメリカ人になりそこねた三男が誕生しました(長男はイギリスで生まれました)。久々の育児に追われ、当分読書などしていられないかも知れません(浜田ひとみさん)。
■NHKの総合テレビで昨秋より放映された「名探偵ポアロ」を録画し、楽しく見直しています。ポアロ、ヘイスティングス、ジャップ警部のトリオ、それにミス・レモン、4人は役柄の上でも、俳優さんとしても絶妙のトリオ、クィンテットです。なかでも男性3人の交流の仕方がさわやかで、安心して見ていられます。たまたま手元にあった "Poirot's Early Cases" に上記の作品のほとんどが入っているのがわかり、大まかに読み返してみました。端的にいって、映画化されたものの方は、思いきりふくらまされ、脚色が施されていて面白く、原作が物足りないくらいシンプルに感じてしまいました。クリスティ生誕百年祭で放映されたものは長篇であったせいか、もっと原作に忠実だったと思います。
 確かに肝心なところはそのままですが、あんなに大幅な脚色が許されるのでしょうか? 小さいエビに、おいしい味付けされた衣がいっぱい付けられたテンプラのように思えてなりません。衣に気をとられてエビのおいしさを味わっているような気がするのです。ビデオを楽しみながら、どうにも納得ができず、お便りしてしまいました(野川百合子さん)。
■「クリスティ症候群患者の告白」を読みながら、そういえば高校の英語の教科書に、クリスティの写真と何か文章がのっていたなあ、と思い出しました(英語が苦手なので内容は忘れてしまったのです。ごめんなさい……)。大学の入試問題集では、トミーとタペンスの、確か『運命の裏木戸』からの出題があって、なんとなくニンマリとしてしまったことなども思いだしました(野坂典子さん)。
■昨夏、仕事でロンドンに出張。仕事の合間を利用してパディントン駅に行ってみました。4時50分ちょうどの列車はなく「物語」の再現とはなりませんでした。なんでもパディントンとヒースロー空港を直結する鉄道(所要時間なんと15分)が開通したばかりで、活気にあふれていました(八代到さん)。
■1998年冬は『ポワロの華麗な生涯』を読み、TV版の『名探偵ポワロ』の写真がたくさんの読物が出て、NHKではPM3:00〜「ポワロ」が放映されて、この年末年始は「ポワロ」のビデオをみて、本に浸っています。NO.56の原岡さんのブックレビュー、おもしろかったです(和田恵美子さん)。
■私の駄文が……と思うものの、恥ずかしいやら嬉しいやら(?)、ありがとうございました。年末スペシャルのNHKのTVドラマ(アメリカ製のホームドラマで「フルハウス」という題名です)を観ていたら、TVを消してお掃除しようという父親に、もっと観せてと子供がいうと、父親が「アガサ・クリスティじゃないんだから(途中で消してもいいだろう)」という場面がありました。ギリアン・ロバーツの『毒入りタルトを召し上がれ』にも、「ミス・マープルごっこはだめだよ」とたしなめられる場面がありました。本国イギリスのみならず、アメリカにも浸透しているんですね、クリスティ(中嶋千寿子さん)。
■先日、『テレビ版、名探偵ポワロ』(求龍堂)の本を読みました。私がポワロ、クリスティを知ったのは、小学生の時初めて見た、このNHK版のドラマがきっかけでしたので、思い入れが深い作品です。ポワロ役のデビッド・スーシェさんの役作りや、入念なセット作り、イギリス各地でのロケやヘイスティングス役、ジャップ警部役(「ブラス!!」に出ていましたね)の方へのインタビューなど、興味深い内容でした(趙賢愛さん)。
■三月に「検察側の証人」の舞台を観に行きました(自転車キンクリートSTOREが新宿の紀伊国屋ホールで公演したクリスティ劇)。私にとっては、久しぶりのアガサ・クリスティの舞台で楽しんで観ることができました。また関西では、年に一度はアガサ・クリスティの舞台が、大・小劇場を問わず、行われているようです。ぜひ東京でも最低年に一本は上演してほしいです(栗原陽一さん)。
 今年東京では6月22日から7月11日まで、新大久保の東京グローブ座で「そして誰もいなくなった」が上演されることになっています。出演者は佐野浅夫、三浦洋一、藤谷美紀などで、期待がもてそうです(S)。
■ツアーは会社の休みがもうないので参加できませんが、いつか個人で行く時の参考にします。'98はマープル役の女優さんも亡くなり、ポワロのTVもあまりなく、私はクリスティものをあまり目にしませんでした。教育TVの英会話でブラウンズホテルが出て、懐かしく見ました。どなたかがブルージュを憧れ、と書いていらっしゃいましたが、本当にステキです。特に若い女性向。緑の多い春夏がいいと思います。ぜひプチホテルかペンションに宿泊を。ヨーロッパが好きな私は、今年は南仏か南伊に行くつもりです(浦このみさん)。
■今年こそ独力でビデオ予約を間違わずにできるようがんばります。自分のビデオライブラリーを作るのが目標なのですが、先ず第一歩から。私の最終目標は、同封いただいた「南西イングランドゆかりの地を訪ねる旅」に参加することです。教育の森を抜け出せたら是非行きたいです。実家においてある早川書房の文庫版、娘が見つけて「ハマルゾー」とつぶやきました(橋本和子さん)。
■クリスティ・ファンクラブの件は、ミステリ・マガジンで知りました.以前『クリスティ百周年記念ブック』(早川)にこのクラブが紹介されていたときから入りたかったので、先日ミステリ・マガジンに連絡先があったので、早速申し込んだのです。ポワロ物は『ナイルに死す』、マープル物は『復讐の女神』が好きで、どっちかというとミス・マープルが好きです(向笠聡子さん)。
■朝日新聞で「クリスティ失踪の謎」についての記事を見て、一般誌に載るなんてやはり根強い人気と興味がある人だったと感心しています(佐藤春子さん)。
■まさに"クリスマスにクリスティを"となり、ありがとうございました。一気に読んでしまうのがもったいないようで、通院中の歯科医の待合室などで、少しずつ読んでいますが、場所柄も考えず笑い出しそうになることもしばしば……。最近ドラマや映画などビジュアル系に走っていますので、また落ち着いて読書もしたいと思います(古川洋子さん)。
■同封のクリスティゆかりの地への、イギリス旅行のちらし、一読して、くやし涙にくれています。まちにまったチャンスだというのに! 今、私の病気では長時間乗り物に乗っていられないのです。車ですと、あちこちで身体を休めたり、横になったりで何とかなるのですが、列車で浜松・東京間の二時間位がようやくといった有様です。
 そんな風ですので外出する事が少なく、本当に"アガサ"をやっていてよかったと思うのです。ミステリーの好きな方がいらして下さるので話相手に困る事もなく、本を読み、ビデオを楽しみ(今、デクスターのモース物を見はじめました)、身体の調子の良い時だけ家事をこなす日々です。これで痛みさえなければ言うことないのですがね……(庵原直子さん)。
■クリスティは失敗作が無くてどの作品も好きなのですが、個人的に特に気に入っている作品は、『そして誰もいなくなった』を別格として、ポアロ物は『ひらいたトランプ』『ABC殺人事件』、マープル物では『ポケットにライ麦を』、単発物では『ねじれた家』『死が最後にやってくる』『終わりなき夜に生れつく』などです(スパイ物はあまり読んでいません)(薗田竜之介さん)。
■もう昨年のことになりますが、ジョーン・ヒクソンが92歳で亡くなりましたね。ミス・マープル役で出演当時から、すでに高齢であったとはいえ、あんなに役にぴったりの女優さんは他にいないと思っていたので本当に残念です。小柄でいつも上品なムードを漂わせた落着いた物腰、そして清楚な装い。自宅にいるときは大抵ブラウスかワンピースの上にカーディガン、外出時はツィード(多分)のスーツ姿で、地味だけど色のとり合せがいつもシックで、さりげないおしゃれ感覚の勉強にもなりました。彼女の表情によくマッチしていた、声吹き替えの静かな語り口が印象的だった山岡久乃さんも今年に入ってから亡くなられ、寂しい限りです(日名美千子さん)。
■『ヴィクトリア朝珍事件簿』(原書房)を新聞の書評欄で知り購入しました。十九世紀の「東スポ」と帯にあるとおり、イギリス国内だけでなく世界各地の驚きの事件を伝えた絵入り新聞集です。現代のワイドショーを賑わすようなびっくり事件が載っていて、絵を見ているとディケンズやホームズの時代が浮かんできます。ほんとうに珍書です(大江美代子さん)。
■"ティー・ラウンジ"の懲りない面々の皆様方、どちら様もお元気でなりよりです。誌上にてお目にかかれる日を心待ちにしております。泉淑枝様へ一筆啓上!!
 あこがれのブルージュに行かれまして路地裏でお叫びになっておられますお姿、目に見えるようです。実は何をかくそう、この私も過ぎ去りし日の昭和60年、イギリスはかの有名なベーカー街にてすれ違った人物こそ、誰あろう、かの、かの、かの、シャーロック・ホームズ様だったのであります。あヽ、この幸運を誰に告ぐべきや〜。ホテルに帰り、友人にこの事を神のご託宣のごとく告げますと、友人曰く、バックの中から風邪薬なる物を取り出し、それはもう聖女の如くやさしいまなざしで私に渡し、「早くベッドに入りなさいね」と……。ウッウッウッ……、泉様なら、きっとこの気持ち、理解していただけることを信じておりますです。はい!
    いきなりの殺人の章読みはじむ    寛子         (土居ノ内寛子さん)。
■つい先日、ホームズ像のある軽井沢追分に行ってまいりました。ホームズ像からそう遠からぬ所に娘の勤める会社の保養施設があり、そんじょそこらのホテルに泊まるよりずっと快適。何しろ安い。それで娘にせがんで(困った親だ!)時々行くのです。そこは1泊2食つきで3000円。そんなに安くて、夕食は有名ホテルのシェフだった人の作るフランス料理のコースで、これがとても美味しいのです! だから娘に「決して会社を辞めるなよ」と頼んだりして、軽蔑されている。先日行ってフランス料理の夕食を頂いた時、不思議な味のスープが出たので「材料は何ですか?」と尋ねたら、なんと「ポアロです」との答。「ポ、ポアロって、それなんですか?」と重ねて問うと、「洋ネギです。ポロネギともいいます」と教えてくれました。「そのポアロが残っていたら、見せて頂けませんか」とお願いしてみたが(しつこいなあ)、残念ながら全部使い切ってしまったそうで、見ることはできませんでした。帰りしなに、シェフがいつも素材を仕入れている店に寄って「ポアロは有りませんか?」と尋ねてみましたが、「ポアロなんて知りません。何ですか、それ」なんて言われちゃった(泉淑枝さん)。
■前号はやはり誤植が目立ちました。これは利用した文字認識ソフトがまだ不十分なためですが、こちらも時間がなく(そして目が悪くなって)校正がイイカゲンになったためです。老眼がすすんだといえば、封筒の宛名貼りで封筒の表裏を間違えたのにはマイリました。やり直す気力も時間もないのでそのまま投函しましたが、一部の方は驚かれたと思います。スミマセン。相変わらずすべての作業を一人でやっていると、昔に比べてどこに老人力が付いたかがよくわかります。もっともJリーグのTV中継を横目で見ながら作業したためでもありますが……。
■今年の正月映画は、迷わず「マイ・スウィート・シェフィールド」となりました。「フル・モンティ」と同じ脚本家、同じ舞台で、主演者は「ブラズ!」に出ていた人ですから、安心して楽しめました。謎のピンク色の鉄塔は爆笑物ですが、それにしても、中年男には未来はないようです。WH通信にも未来はないようですが、こちらは、まあ、のんびりと……(S)。


 ・・・・・・・・・・ウインタブルック・ハウス通信・・・・・・・・・・・・
☆ 編集者:数藤康雄 〒188      ☆ 発行日 :1999.9.15
   田無市南町6ー6ー16ー304      ☆ 会 費 :年 500 円
☆ 発行所:KS社              ☆ 振替番号:00190-7-66325
   品川区小山2ー11ー2          ☆ 名 称 :クリスティ・ファン・クラブ

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