ウインタブルック・ハウス通信

クリスティ・ファンクラブ機関誌

1998.9.15  NO.55

 この4月から5月にかけて、クリスティ関連本が二冊も出版されました。クリスティの戯曲「ブラック・コーヒー」をC・オズボーンが小説化した『ブラック・コーヒー〔小説版〕』(中村妙子訳、早川書房)とシャーロッキアン的手法でポアロを解剖したA・ハートの『名探偵ポワロの華麗なる生涯』(深町眞理子訳、晶文社)です。
 そして秋には、未訳の短編を集めた『マン島の黄金』が出るとか。
 なにかと忙しいでしょうが、読んでの感想をよろしく!! (S)


< 目  次 >

◎"The Passing of Mr Quinn"(By G.Roy McRae 1928)について――――――――数藤 康雄
◎A・クリスティの地、初見参の記―――――――――――――――――――――村上 由美
◎アガサ・クリスティを讃える―――――――――――――――――――――――トーキマーダ
                                                    安藤 靖子訳
◎ミセス鈴木のパン・お菓子教室(第8回、ヴィクトリアン・サンドイッチケーキ)―――鈴木 千佳子
◎クリスティ症候群患者の告白(その24)――――――――――――――――――数藤 康雄
◎ティー・ラウンジ
★表紙   高田 雄吉


クリスティ映画第二作

"The Passing of Mr Quinn"(By G.Roy McRae 1928)について

数藤 康雄

 世界で最初のクリスティ映画は、1928年にドイツで制作された「秘密機関」です。なぜ1920年代のドイツでクリスティの作品が映画化されたのかは知りませんが、同じ年ながら多少遅れてイギリスでもクリスティの原作を基にした映画が公開されました。『クィンの事件簿』の中の一編「クィン氏登場」("The Coming of Mr Quin")を脚色した表題の映画です。
 古いサイレント映画で日本では未公開ですから、クリスティ・ファンでも見ている人はほとんどいないでしょう。当然のことながら私も見たことはありません。どんな映画であるかを推理する手掛かりは、これまではクリスティ関連本の中で紹介されている映画の簡単な梗概と一枚のスチール写真(修道院の門扉を挟んで男女が出会っている写真)だけでした。
 ではそれらのデータから、まがりなりにもどのような映画だったのか、紹介してみましょう。まず手元にある『アガサ・クリスティ読本』(新版)の竜弓人氏の紹介文によれば「女たらしの夫が殺され、殺人の容疑が妻にかかる。クィン氏の綴りはQuinなのに、映画ではなぜかnが一つ余計についている」となっています。
 一方『アガサ・クリスティ読本』(旧版)のフィリップ・ジェンキンスンの説明はかなり長い。「この映画は出だしがよくないが不愉快なアップルビー教授がトリルビー・クラーク扮する妻を虐待するシーンで盛りあがった。彼は間もなくアーシュラ・ジーンズ扮するメイドと陰謀を実行に移す。妻は動顛して、近くの家の裕福な借家人に手紙を送り、完全に毒死している夫を殺害したかも知れないと述べる。裕福な隣人と、この映画のスター、スチュワート・ロームが演じた医者が彼女の救助にやってくる。すべてが一つのフラッシュ・バックで明らかになるのは、当時の犯罪映画の特徴だ」となっています。
 それらの文章を読む限りは、短編「クィン氏登場」との関連はなかなか想像できません。短編集の中では一番印象に残る人物サタスウエイト氏の名前が入っていませんし、第一クィン氏にもほとんど触れられていないからです。またスチール写真からみて映画では修道院が重要な舞台と考えられるのに、短編には修道院が舞台であるような描写も一切ありません。したがって「クィン氏登場」とはどんな映画なのだ、という興味は以前より持っていたものの、それ以上の内容はわかりませんでした。1920年代のサイレント映画を見る機会など、訪れるはずもありませんし……。
 ところが昨年の末、"Murder by the Mail"を主宰する森英俊さんから(というより、『世界ミステリ作家事典』の著者といった方がわかりやすいと思いますが)、映画 "The Passing of Mr Quinn"を小説化した作品が入荷したという手紙をもらいました。
 一瞬、手紙の内容が理解できませんでした。クリスティの初期映画の一本が小説化されているとはまったく知らなかったからです。サイレント映画の時代に映画の小説化が行われていたとは予想もしていなかったからです。
 さっそく Allen J. Hubin の"The Bibliography of Crime Fiction"で調べてみると、確かに載っています。へー、こんな作品があったんだ、と驚きながらもさっそく注文したというわけです。
 届いた本は日本の文庫版と同程度の寸法の小型本で、233頁の比較的短い作品です。出版社は" THE LONDON BOOK CO. LTD "という知らないとことで、" THE NOVEL LIBRARY "という叢書の一冊であることがわかりました。本書以外にも小説化された作品のリストが載っています。映画の小説化とは、大昔から流行っていたことがよくわかりましたが、考えてみますと、アクション映画とは違って、クリスティ映画のような謎解き主体のサイレント映画では、このような小説化作品を先に読んでから映画を見ないと内容がよく理解できないのかもしれません。
 物語は、なるほど「不愉快なアップルビー教授がトリルビー・クラーク扮する妻を虐待するシーン」が冒頭に登場します。ちょっとマッド・サイエンティストのような教授の悪役振りは、やはり一見の価値がありそうです。しかし教授は何者かに毒殺され、嫌疑は妻にかかります。
 そして場面は検死裁判に移ります。そこで妻は夫殺しの犯人として告発されますが、本裁判では逆転無罪の判決となります。このあたりは法廷ミステリーとしての面白さもあり、結構読ませます。ここまでで約半分といったところですが、不思議なことにクィン氏もサタスウェイト氏もまったく登場しません。
 これまでの主な登場人物は教授とその妻、その妻が助けを求めた隣人の中年男、そして妻の病状を心配する若き医者の4人です。裁判の後では、未亡人となった女性を巡る二人の争いという愛の三角関係が生じます。悩んだ女性は、罪の意識もあり女性用の修道院に逃げ込んでしまいます。『クリスティー読本』などに載っている修道院の門扉を挟んで男と尼僧姿の女が会っている写真は、男の一人が(どちらの男かは教えませんが)やっとその女性と会うことに成功した重要なシーンでもあります。
 クィン氏らしき人物が初めて登場するのは、この後、物語が3/4を過ぎたあたりからです。クィン氏らしき、と書いたのは、この本の題名に入っているクィン氏が" Quin"ではなく"Quinn"ということもありますが、実際に本文の中に登場する人物名は"Quinny"で、本書の冒頭には「本書のQuinny氏は映画のQuinn氏と同じ人物であることに留意すること」と書かれているからです。
 このように面倒な名前になった理由は、この小説化がクリスティの意向とは無関係に行われたからですが(つまり著作権の関係で"Quin"をそのまま利用できないわけですが)、それだけが理由ではないようです。ミステリー紹介のルールに則り、これ以上詳しくは述べませんが、一種の叙述トリックにも関係していると言っていいかもしれません。
 本書の著者名はこれまでまったく聞いたことはありません。ヒュービンの著作リストには、この作品一冊しか載っていませんから、ミステリー作家でないことは確かでしょう。裁判場面の描写はそれなりに緊迫感はありますし、三角関係の描写は通俗的ながら、まあまあ読ませます。それに比べるとトリックの扱いはそううまくないので、普通の小説を書いていた作家か、シナリオライターあたりが小遣い稼ぎで小説化に手を出したのかもしれません。
 私はあまり期待せずに読んだので結構面白いと感じました。英語はやさしいので、私のように筋を追うのがやっとの英語力人間には、特にそう感じたのかもしれませんが、いずれにしてもクリスティー・ファンには珍本であることは間違いありません。どこかで翻訳してくれると嬉しいのですが……。


A・クリスティの地、初見参の記

村上 由美

 なぜかこの機関誌は、多数のミニコミ誌を収集している新宿の住民図書館にも一冊送っています。村上さんは、その住民図書館にボランティアとして働いていたときに、ふとWH通信に目を留めたのが縁で、ファンクラブに入会された会員です。
 本会員の入会ルートは、以前はマスコミやミステリー専門誌の紹介記事を読んで、最近はインターネットのホームページを見て、というのが多いのですが、その点で村上さんは異色な会員といってよいでしょう。このイギリス旅行記にしても、かなりユニークなもので、大いに楽しめます(S)。


はじめに
 旧聞に属するほどの話になるが、1996年9月、朝日新聞の家庭欄に興味あるひとつの記事が載っていた。50歳をすぎた女性がイギリスの家庭にホーム・ステイしながら学校に通ったという内容で、エイ・エフ・サービスという会社が仲介の労をとってくれるというのだ。それを切り抜いておいた。
 わたしは飛行機が嫌いである。たくさんの乗客と荷物と貨物を乗せて空を飛ぶというのがそもそも信じられないという非科学的な人間で、旅をするならなるべく列車か船にしたいと思っている。ところが、つれあいがイギリスとフランスに行こうといいだしたのである。96年の暮のことだった。彼は35年勤めた学校を97年3月に定年退職することになり、文字通りの意味で糟糠の妻であるわたしに「ご苦労さん」の旅をプレゼントしてくれるという。何日間の予定かと尋ねたら、再就職の都合もあり、「せいぜい一週間かな」という。そんな短い旅のために片道12時間も不安な気持ちを抱えて空を飛ぶなんて、とても計算にあわないと考えた。そこで思い出したのは、切抜きの記事である。
 それからの行動は早かった。エイ・エフ・サービスに電話し、資料を送ってくれるよう依頼した。対応は早く、学校の紹介ビデオがたちまちの内に手に入った。それを片手にわたしはつれあいをどう説得するかの策をじっくりと練った。
 わたしの趣味の第一は読書である。中学生のころ学校の図書室で最初に借りて読んだのが『嵐が丘』。それ以来、「本」が与えてくれる世界にどっぷりとつかり、挙げ句のはては図書館学を勉強して、本の宝庫(倉庫?)である図書館に就職した。以来、他の才能に恵まれないわたしは読書を心のよりどころにして生活してきた。英語圏の作家のものを多く読んだ。そして、いつかはプロンテ姉妹、A・クリスティ、D・H・ロレンスの世界を自分の目で見、足で踏みしめてみたいと思い続けていた。間もなく還暦を迎える年になって、やっと「その機会」が巡ってきたのだ。わたしはこの幸運に感謝した。
 説得の結果、二か月の語学学校遊学と南イングランドの家庭でのホーム・ステイが掌中のものになった。つれあいには7月に運よく休暇のとれる娘(旅行業界で働いている)が同行することになり、三人は二か月後、ロンドンのホテルで落ち合うという手筈を整えた。こうしてわたしはクリスティのトーキイやブライトンに近いボーンマスをめざして97年5月中旬、成田を出発した。
イギリス探訪
 5月11日午後4時、ヒースロー空港に到着。12時間閉じ込められた空間から解放された。その後、入国審査の場で思わぬ足留めをくった。審査官はどうも「主婦がどうして二か月も英語を勉強するのか」と疑問をもっているらしい。わたしが彼のまえに開げた学校の人学許可証も受人れ先の証明も何の役にもたたないらしい。何しろ英語をすこしだけ勉強し、あとは念願の旅をするという不埓な企てをもっていながら、英語は殆ど理解しないに等しい。答えにつまり隣りのブースを見ると、学生らしい女性が審査官に紙幣を見せている。わたしも旅行の費用はどのくらいもっているのか聞かれたらすぐ答えられるのにと頭の隅で考えながら、何とかここを切り抜けなければとあせるばかり。じっとりと汗がにじんでくる。仕方がない、とわたしは帰りの航空券とシティバンクに預けた預金の額を彼に示し、「わたしはイギリスの小説が好きだ。とくにD・H・ロレンス、プロンテ姉妹、そしてA・クリスティ。英国にくるのはわたしの長年の望みだった。夫が退職してわたしにも長い休暇がとれる機会がきたので……」とまるで泣き落とし戦術に近い言葉をつらねた。その内のどれが入国審査官としての彼の質問に答えることになったのかわからないが、やがてたくさんの単語の並ぶスタンプを押し、1997.7.31まで滞在できると書き入れ、パスポートを押し返してくれた。やれやれ、やっとわたしの旅は始まったのだと、安堵のため息をついた。
 それからの経過はすべて順調だった。Anglo-Continental 校が差し向けてくれた三台のリムジンに同行者6人が分乗して約2時間後には無事それぞれの寄宿先に着いた。自己紹介をして夕ご飯をいただき、同宿の若い韓国人を紹介され、荷物をクローゼットに収めといったことを一つ一つこなした。夕食の席についたのが7時半、それから1時間半がたっても外はまだ明るい。そうなんだ、イギリスの夏は日没が遅いのだとやっと理解した。第一日目のこの驚きに始まり、次の日は、横断歩道とおばしい場所にシマシマが書かれていないし、所々にある信号も歩行者用のものはすぐ赤に変わるというのに直面。年寄りには危険な道路だと悟った。二、三日もすると、年配の女性に太っているひとが多いということを発見して驚いた。その結果、アイスクリームとフィッシュアンドチップスの類いには気をつけようと心に誓った。
 ホスト・ファミリーの老夫婦も太鼓判を押してくれたが、Anglo-Continental 校は規模・格式ともボーンマス随一の政府公認の語学校であるらしい。ロシア・アフガニスタン・イタリア・ブラジル・アンゴラ・東アジアと英語圏以外の世界中といってもいいくらいの国々から老若男女が勉強にきている。学校には質のいい先生が多く、生活上のケアも行き届いていて、何の不安もなくここで二か月を過ごすことができた。学校から20分も歩けば英仏海峡に突き当たり、その海岸には美しい庭園をもつRussel-Cotes Mus. があり無料で利用できるという、散歩の場所には事欠かないよい環境であった。一か月もすると本屋、映画館、銀行、ブティックの並ぶザ・スクエアという近くの大きな街にもなじみ、生活がスムーズに流れるようになった。
 学校の行事である週末のオックスフォードやソールズベリーヘのバス旅行などにも殆ど欠かさず出かけた。しかし、それらに参加していてもいつも何か上の空の感じがつきまとっていた。6月末、それを満たすためにわたしはブロンテ姉妹の故地ハワースヘの三泊四日の独り旅を決行した。その旅でヨークシャーの荒野を堪能し、怪しげな英語をあやつってヨーク見物もし、気持ちの「上の空度」がかなり落ち着いてきた。
 同行の6人がみんな帰国したころ、単独で日本からやってきた女性と仲良しになった。ある日、映画のあとクリームティで一息入れながらお喋りをしていた。2週間後にボーンマスを去るわたしが、「クリスティの故郷に行く計画だけが宙に浮いている」というと、彼女は「わたしも同行するから是非いこう」という。即断即決、その足でホテルを予約しに行き、駅のコンピューターで旅程を組んでもらった。
 7/5(土)の10:12分ボーンマスを出発、サウザンプトン〜ソールズベリー経由トーキイ着14:30分。予約したB&Bの Melbourne Tower Hotel は駅の近くの小ぢんまりした清潔な宿である。荷物をおき、時間を惜しんで、まず、手近な Torre Abbey の中の博物館へ行く。1990年に生誕百年を記念して作られた「 Agatha Christie Memorial Room」がある。タイプライターやエクスター大学の名誉博士号授与式の写真とともに少女時代の楽しげな生活を写しとった写真があった。自伝の中では「決して裕福ではなかった」と語る一方で、「人生の中で出会うもっとも幸運なことは、幸せな子供時代をもつことである。わたしは子供時代はたいへん幸せであった」と明言している。両親や兄弟姉妹に愛され子供時代を過ごせたことは、自信と生き抜く強さを約束されたといってもいいとわたしは思っている。
 博物館を出てトーキイの港を目指して下って行くと、海岸を眼下に白亜のグランド・ホテルが聳えている。そこから見るトーキイ湾とそれに続く海の景色は、イングリッシュ・リビエラと俗称されるだけあって、その美しさはわたしの貧しい言葉では表現不能である。私たちは、「今度はこの辺りの学校に人ろう」と冗談をいいあった。しかし、その明るい海岸の背後には、Dartmoor と呼ばれている945平方kmもの荒野が広がっている。ムーアランド・ホテルがあり、コナン・ドイルのシャーロツク・ホームズもので知られる『バスカビル家の犬』の舞台にもなった場所である。
 翌日、私たちは是非そこを見てみたいと、ホテルの若いオーナーに相談した。7/6は日曜日でバスの便は少ない。Taxiを使うのがベストだという助言で、何か所かの会社に連絡をとってもらったが、かなり高い。そこで彼は知り合いにわたりをつけ、半日£50で案内してくれる人を見つけてくれた。ここで断念するのは悔しいので、私たちはそれをOKした。午前中、近くの職人の集落 Cockington Village を訪れたあと、赤い車を運転してやってきた二十歳そこそこの若者に見知らぬ土地への半日のドライブを託して出立した。ホテルはE.プレックファストつきのTw.で£43と格安だった。
 私たちの英語力に合せて、ゆっくりと彼が説明してくれる言葉にうなづいたり、質問したりしながら、高速道路を抜けて、Dartmoor に入っていった。日曜日なので観光客は目についたが、それを除いた景色を想像してみれば、野生の馬の姿と荒地にヘばりつくように茂っているヒース以外には、所々に奇岩がそそり立つ一面の荒野であった。8月が最盛期だというヒースの花が疎らに咲いていたのがうれしかった。半日では行きたい所を自分の足で歩くということは不可能だった。約3時間、お茶の時間にすこし休憩しただけで荒野を走りに走った。Moorの端を通り抜けたという程度のドライブだったが、とても疲れた。私たちが通った道のずっと奥には、Dartmoor Prisonがあり、『バスカビル家の犬』には、そこを脱走したバスカビル家の執事の妻の弟がからんだ事件が展開されている。
 今回は私たちはムーアランド・ホテルもグリーンウェイ・ハウスも訪れることはできなかったが、「クリスティをすこし身近かに引きつけることができた」と話しあった。いつかきっと再訪の旅を計画したいものである。トーキイ側には、Torre Abbey Garden という花園が海に向かって開き、反対側には荒涼の地が広がっているというイングランドの奥の深さを噛みしめる結果になったが、これは土地に関してだけではなく、イギリス人が内に抱え込んでいる気質にもいえることなのではないかと愚考している。帰国してからあらためてクリスティの作品群を読みついでいる。


アガサ・クリスティを讃える

トーキマーダ
安藤 靖子訳

 このエッセイは、イギリスのコリンズ社から刊行されたポケット・クラッシック叢書の一冊『アクロイド殺し』に載っている序文です。
 本書の刊行年は本の中に記載されていないのですが、本文を読む限り、1930年代の末期ではないかと思われます。
 本書を珍しい本と呼べるのは、次の二点のためです。ひとつはここに訳した序文が掲載されていること。もうひとつは、マッカー(Mackar)という人のイラストが本文中に数枚含まれていることです。特に中の一枚にはポアロが描かれていますので、本文の最後にコピーを載せておきました(ここでは省略)。そう魅力的なポアロには見えませんが、偉大な口髭はサスガ!といった風貌です。本邦初公開ではないかと思います。
 なお筆者のトーキマーダとは珍しい名前ですが、訳者の安藤さんの注によりますと、「もともとは実在の人物(Torquemada,Thomas de...1420〜98)で、スペインの宗教裁判所初代長官で異教徒に対する非道な弾圧を実施したことで有名。名詞で「迫害者」と言う意味もあるが、これはこの人名から派生したものだろう。スペイン語では「トルケマダ」となる」のだそうです。
 国書刊行会から刊行されている世界探偵小説全集の一冊『甘い毒』の巻末に小林晋さんが書いている解説によると、トルケマダは「1930〜40年代(?)に辛口の批評家で知られ『オブザーヴァー』紙で健筆を揮っていた人物」です。当時、どちらの名前で呼ばれていたのかは不明ですが、ここでは英語読みにしておきました。
 本文をお読みいただければわかりますが、辛口批評家にしてはクリスティに最大級の賛辞を捧げていて、嬉しくなります(S)。


 ある犯罪小説なり犯罪短編集を読者に紹介するにあたり、作品の主題にどのような価値があるのかを考えるために、おぼろげで、あいまいな過去に戻ることが必要になったとき、その時代はすでに忘れ去られている。例えば、ダニエルが木のことをあれこれ年長者達に聞き回って手こずらせていたときに、彼が探偵であったこと(あまり腕利きの探偵ではなかったが)を明らかにしようとしても、ダニエルを覚えている人はいないだろうし、ギデオン・フォーサイスという作家の作品『Who Put Back the Clock ?』のプロットが、『三銃士』の初めの頃のエピソードからどの程度影響されているかを推理しようとしても、フォーサイスの時代はずっと前に終わっているという具合である。
 だがアガサ・クリスティ作品の背景を述べようとするなら、彼女の最初の本が出版され、驚くような新しい技法を披露したおよそ20年前に、探偵小説にはどのような読者層が生まれていたかを、ごく簡単に考えるだけで十分である。
 イギリス全土がホームズに強い関心を示すようになった後もかなり長い間、探偵小説はまだいかがわしいものであった。つまり探偵小説を読むということは、少しばかり恥ずかしげに弁明する必要のある気晴しであった。だが、第一次大戦が始まるまでには立派なものに成長していた。探偵小説に熱中しているところを見られても、胸を張っていられる芸術の一形態として認められたのである。そして、ここまで地位が向上したのは、主として三人の男たちの見事な仕事によるというのが私の持論である。
 1907年、オースチン・フリーマン博士はその最初の法医学小説『赤い拇指紋』を出版し、正確な科学的知識と慎重な論理、そして学究的なイギリス人を登場させるだけで、中国人から連想される邪悪さと同じくらい読者を精神的に興奮させる効果を上げられることを証明した。それ以来、ジョン・エブリン・ソーンダイクに行わせているきわめて多種多様な実験室での問題解決が、そのことを証明し続けている。
 1911年にはチェスタートンの『ブラウン神父の童心』が世に出た。次に出版された『ブラウン神父の知恵』とともに、そこには今までに出版された短編探偵小説の傑作が数多く含まれている。というのは、この作品集には初期のブラウン神父ものの特徴となる生き生きとした文体の美しさがあるだけではなく、大半のプロットは巧みに工夫され、心理的にみても妥当性があるからである。チェスタートンは、赤い鰊(ごまかし、インチキな手がかり)ではなく虹色の魚を、不必要な挿入句の代わりに韻文を用いたが、最終頁で一転して毒蛇のようにあなたを襲う隠された真実を意のままに操作していたのである。
 最後に1913年には、E.C.ベントリーの『トレント最後の事件』が出版された。この作品は、最近まで著者の唯一の探偵小説として輝かしい弧高を保ってきた。丹念に書き上げられているので面白く読める最初の長編犯罪小説で、謎の中に謎があるというタマネギのような手のこんだ作品になっている。
 第一次大戦中の数年間には、もはや第一級の探偵小説は生まれなかったようだが、バカンやエドガー・ウォーレス流の上質なスリラーや、かなり質の高い怪奇小説には実りの多い時期だった。それらの作品が増大する需要に応えて書かれたものであることは明白である。ここで”逃避の文学”について考察するのは私に課せられた仕事ではないが、数多くの良識ある人々が、”死体の一つや二つを気にかけてはいられない”からと戦争中に「ショッカー」(扇情小説)を読み始めたことを知っている。
 やがて戦後数年のうちに、探偵小説の読者は再びかなりの数になっていた。そして、この読者層は、御存知のように、文学性や独創性を、あるいは純然たる流血を求めていた。ただ、彼らが完全に騙されたい、あるいは頭脳を徹底的に働かせたいと望んだ時には、それらを十分に手に入れることができなかった。そのためには、これまでの作家とはまったく異なった天才を必要としたのだ。
 繰り返すが、読者の二つの欲求を満足させることができる、これまでの作家とはまったく異なった天才は1920年まで、つまりアガサ・クリスティが『スタイルズ荘の怪事件』を出版するまで現れなかったと私は確信している。
 この作品をほめる前にまず最悪の点をあげよう。確かにある批評家が「スタイルの怪事件(文法や表現法が怪しげという意)」と揶揄したほどひどくはないが、書き慣れない作家の作品であることははっきりしていた。それゆえ稼ぎながら学び、肩が凝らずに楽しんで読める語り口をすぐに確立したクリスティには多大な敬意を表したい。世界の探偵達のうち、おそらくホームズに次いで最も有名で、最も愛されているエルキュール・ポアロもこの作品でデビューした。英語でたやすく意志を表現できるときに女学生のようなフランス語で突然話したり、口語的なフランス語で話して当然と思われるときに完璧な英語で話すという欠点をもって。以後この彼の短所も、完全にではないにしろ、だいぶ克服されてきた。
 さて、今度は『スタイルズ荘の怪事件』の最も優れた点を挙げよう。この作品は我々に全く新しい種類のブラフ(はったり)を紹介し、冷酷なまでにそれを利用した。これ以上の言及は不要であろう。我々はこの簡潔な物語を読み、いわば慈悲を求めて大声で叫びながらも、ついには大地にひれ伏すのである。
 アガサ・クリスティのブラフに対する素質は、つくづく彼女独自のものだと思う。彼女が全く公正なやりかたで読者を欺く才能は天才にふさわしいものであり、天賦のものである。彼女は目にブラフの輝きをもって生まれた。クリスティが得意とするのは読者を思うままに操ることである。まずはジグザグな道をとらせながら読者を庭まで誘導する。読者が獲物に向かって駆け出してほしいと思ったら、彼女は引き紐を手放すだけである。言い換えれば、クリスティは読者と言うウサギに催眠術をかける大蛇を演じているのである。読者の目をのぞき込んで、読者の鼻先にあるものを見てごらんと挑んでみせる。彼女は手がかりを隠すのではなく、皿の上にのせて我々に手渡す。だが手品師が切札を意識的に取らせるように、我々が手がかりを読み間違えるように仕向けるのだ。
 しかし、はっきりと理解していただきたいのだが、そのことは、クリスティがたった一種類のブラフ、つまり天賦の才を使っているだけという意味ではない。彼女の傑作の中で使われるブラフはつねに新しいブラフで、新しい騙しの手口なのである。
 二十数作のポアロ物の中から読者はどんな作品を選ぶであろうか。まず私の気に入っている四作品について述べてみたい。もしあなたがポアロ・ファンならば、あなたの好きな四作品と一致するだろうと確信しているが。
 まずは『オリエント急行の殺人』。ポアロはアレッポからイギリスへ帰りたいと思っている。一等車のシングル客室の中で殺人が起こる。被害者は体を十二ヶ所も刺されている。ポアロの網にかかった複数の赤い鰊は奇跡のようにまるで別の一匹の魚になってしまう。
 『邪悪の家』では、ポアロはかなり魅力的な女性を殺人から守っている。読者にはわからないが、胸のうちに一匹の赤い鰊を育てていることを彼は自覚している。
 『ひらいたトランプ』を選んだのは、読者への挑戦のためである。ここでは四人のうち一人が殺人を犯したことはわかっている。その後の調査は、ポアロが読者と知恵比べをする作品の中でも最も見事なものの一つである。
 さて、気に入った四つの中から最後の作品として私が選ぶのは、最近の作品『ナイルに死す』である。この作品は犯罪を扱った小説の中で最も破られにくい完全なアリバイの一つを紹介している。
 これまでのところ、私ははっきり言って、課せられた仕事を避けてきた。その仕事とは『アクロイド殺し』を紹介することだ。だが、いい加減だと咎められることはないだろう。卓越した探偵小説を紹介し、しかも内容をバラさないでいることは、ハムレットを紹介しながら、例の黒タイツをはいた優柔不断な王子の存在については「口をつぐもう」とするのとまったく同じことである。ただ私に言えるのは、本書が、アガサ・クリスティの書いた卓越した探偵小説だということである。また、私の個人的な知識を付け加えておけは、同じような深い罠を用意していた二人の著者が、クリスティのこの本の出版と同時に書いたものを破棄し、ずっと沈黙を守ったということである。だが、二人の著者が更にその先を続けていたとしても、ポアロがアクロイド殺しの調査で得たような成功があったかどうかは大変に疑わしいと思う。
 アガサ・クリスティの物語の着想には天才ならではのものがあった。さらに、その着想から生み出された作品にもそれはあった。注意して再読してみると、『アクロイド殺し』の真実を知るためには85の手がかりがあることがわかる。あるいは手がかりと呼ぶべきでないというならば、ウォルト・ホィットマン流の”婉曲表現”が少なくとも85あることがわかる。そして、これほど多くの手がかりらしきものが用意されている探偵小説を私は他に知らない。


ミセス鈴木のパン・お菓子教室
第8回 ヴィクトリア・サンドイッチケーキ

鈴木 千佳子

 昨年は子供会やPTA、剣道の役員会の活動で忙しかった鈴木さんですが、今年も「ボーイスカウトの役員とほたるの会(地域の有志婦人の会)の世話役になった上、受験のために絵を習いたいという子が週に3回通ってくることになり……」という忙しさです。
 でも本欄は続きますので、御安心を!(S)


はじめに
 イギリスにはヴィクトリア様式と名付けられた建築物や家具などがたくさんあります。同じように”ヴィクトリア”を冠したお菓子も少なくありません。
 今回のヴィクトリア・サンドイッチケーキは、ヴィクトリア女王が好きだった、あるいは夫のアルバート公の死後、女王が中央に復帰する時のパーティーに出された、などと言われています。
 同じ型を使って2枚のケーキを焼き、間にラズベリーやブラックベリーのジャムを挟みます。バターケーキなので、中に挟むジャムはただ甘いものより、少し酸味のきいたものがあいます。庭先でベリー類が採れる季節に作るのもいいものです。わが家のブラックベリーは今、花が咲き始めたところで、ジャムが作れるようになるのは1カ月くらい先。ブルーベリーも熟してくる頃にはベリー類がお菓子作りに一役買ってくれるようになります。
材料

作り方

  1. ボールにバターを入れ、ハンドミキサーか泡立て器でクリーム状にし、砂糖を3回 くらいで加え、ふわっとさせる。
  2. しっかりほぐした卵を3回に分けて加え、混ぜていく。
  3. ふるった粉類を加え、へらで切るようにあわせる(へらをねかすとこねてしまうの で、へらは出来るだけ立てて使う)。
  4. 塩、牛乳も切るようにあわせ、全体が滑らかになったら、型に半量流す(同じ型が 二つある場合は、等分して流す)。 ★型には紙を敷いておくこと。
  5. 上面を平らにならし、180℃で予熱しておいたオーブンにいれ、180℃で10 分、150℃におとしてさらに15分焼く。
  6. 竹串をさして、何もついてこなければ、出来上がり。
  7. 型から外してアミの上で冷ます。もう1枚焼く時は、冷ました型に再び紙を敷いて 生地を流し、同じように焼く。
  8. 1枚のケーキの上にジャムを塗り、もう1枚を重ねて粉糖をふる。

★フランス菓子は厚く焼いたヴィスキィを2〜3枚に切って、間にクリームやババロアを挟みますが、イギリスではあらかじめ2枚のケーキを焼いて、間に何かを挟むというやり方が多いようです。ヴィクトリア・サンドイッチケーキに限らず……です。 同じ型を二つ用意しておくのも悪くありません。


クリスティ症候群患者の告白(その24)

数藤 康雄

×月×日 "in the footsteps of Agatha Christie"(text Francois Riviere,photoーgraphy Jean-Bernard Naudin,Ebury Press,1997)を読む。この本は、著者名からもわかるように、最初はフランスで出版され、それを英語に翻訳したものである。内容は一種のクリスティの伝記であるが、専門の写真家が撮影した写真が数多く掲載されていて、見て楽しめる本になっている。
 文章の方はクリスティの一生を年代順にまとめており、ごくオーソドックスな構成といってよい。全体は以下の4章に分けられ、それに観光案内というべき"Places to Visit" が付録として付いている。
"A Torquay Childhood"(結婚まで)
"A Hotel on Dartmoor"(マックスとの再婚まで)
"Burgh Island"(1930年代のクリスティについて)
"Greenway House"(クリスティの死まで)
 著者のFrancois Riviereは、ジャケットに書かれている紹介文によると、フランスのスリラー作家で、イギリスの大衆文学に造詣の深い親英派だそうである。内容はそれなりに読ませるが、モーガンの伝記にはない新しい情報が含まれているわけではなく、同じデータを再構成して語ったものといってよい。
 文章とは逆に、写真には珍しいもの、美しいものが多い。珍しい写真としては、クリスティ家から提供された古いスナップ写真が結構あるからだが(多分自伝や伝記に載せられなかったものと思われるが)、それ以上に目を奪われるのは、プロの写真家が撮った紙面一杯の美しいカラー風景写真の数々であろう。トーケイの海岸風景、ダートムアの村や荒れ地、バー島とホテルの室内光景、さらにはグリーンウェイ・ハウスの庭などなど、絵葉書やパンフレットの写真とはひと味異なる視点から撮影されていて新鮮である。
 前号にも書いたが、昨年出た『小説TRIPPER』(1997年冬号)では、「アガサ・クリスティー大研究」という特集が企画された。そのトップは「クリスティーの足跡を訪ねて」で、最初はこの本の写真を使ったらいいのでは? と編集者に提案したのだが、残念ながら実現しなかった。見てのとおり、雑誌では十分な写真スペースがとれなかったし、著作権の関係もあったのだろう(なにしろ英国政府観光局の写真であれば無料(?)と思われるので)。私のように旅行嫌いの出不精な人間には好適な本であることは間違いない。
1月×日 正月休みに、やっと『抱擁』(A・バイヤット、新潮社)を読む。ミステリーではないが二巻本の大作で、こういう超大作は一気に、しかしじっくり読みたいと思うと、宮仕えにとってはこの時期しかない、というわけである。本当は出版された年の正月休みに読むはずだったが、時間がとれず1年遅れとなってしまった。
 物語は、大学の時間講師の男が図書館で19世紀の有名な詩人の手紙の下書きを見つけるところから始まる。いわゆる文学作品だが、ミステリー的面白さも十分というわけで、作者の「芸術とは楽しめるものでなければならないとつねに考えている。芸術とは、政治のため、教育のためにあるものではなく、まず何よりも楽しむために存在するのであり、楽しむことができなければ無にひとしい」という主張には全面的に納得。小説の国の小説は、確かに面白い。
×月×日 図書館でふと目にした『達人たちの大英博物館』(松居竜五・小山騰・牧田健史著、講談社選書)を読む。メソポタミア考古学の章にクリスティのことが紹介されていたからだが、内容には間違いはないものの、英文の資料を基にして書いているらしく、『ロジャー・アクロイドの殺人』とか『曲った家』、『パーカー・パインの調査』などといった訳題が出てくる。このあたりは編集者がチェックしなければいけないところだが、この本は、そうでなくとも「1830年にクリスティが二度目の結婚をする」などといった単純な誤植が多い。まあ、ミステリーの編集者ではないから許されるのかもしれないが。唯一の収穫は、ニムルドやニネヴェなどの遺跡は湾岸戦争などによる被害を受けなかった、ということを知ったことか。
×月×日 突然朝日新聞の記者から取材を受ける。全国版として報道されたのかどうか知らないが、1998年1月17日(土)の「この人に再会35アガサ・クリスティー」という記事のためである。誰の文章か忘れたが、朝日新聞記者の傲慢さを批判するのに、社旗を翻しながら走る運転手付きの黒塗りの車にふんぞりかえって乗っている、というのがあったように記憶しているが、突然取材に来た記者が運転手付きの黒塗りの車(社旗は翻っていなかったが)に乗っていたのは驚いた。しかしここで書きたいのはそのことではない(記者の名誉のために書いておけば、てきぱきと取材する態度には傲慢さなど微塵もなく、感心すること大であった)。
 駅前の喫茶店で1時間ほど取材され、その際クリスティから最初にもらった手紙(『アクロイド殺害事件』に登場するディクタフォンについて質問した私の手紙の返事)を見たいという。そこで再び我が家に戻ったが、我が家にはコピー機などあるわけがない。手紙はごく短いものなので筆写していったが、十日ほど後、記事に誤りがあるかどうかチェックして欲しいという前書きとともに、ファックスで送られてきた原稿には、その手紙が以下のように訳されていた。
 「お手紙の技術的な説明は私には難しすぎて・・・でも大変興味あるご指摘です。もう四十年前ですね。ディクタフォンがやっと使われはじめたころでね、私も見たことなかったのですよ」
 私がひっかかったのは最後の「私も見たことなかったのですよ」という訳である。これではクリスティがディクタフォンを見ないでトリックに利用したイイカゲンな作家であるような印象を読者に与えてしまうではないか!
 これには焦りました。原文は、"I do not think it was particularly small,but I cannot say at that time that I had ever seen one."であり、これまで私はこの文章を「ディクタフォオンを見た当時のことは、遠い昔なのでよく覚えていない」と理解していたからである。このため、クリスティが当時ディクタフォンを見たのか、あるいは見なかったのか、という白熱した(?)議論になったが(なにしろ相手はロンドン特派員も経験している英語に強い人なので、語学力では太刀打ちできないから大変です)、最終的には「ディクタフォンがやっと使われはじめたころでね、私も初めてお目にかかったのですよ」と変更されていた。
 記者はヘンナことに拘る人だといささか驚いていたようだが、クリスティの名誉のために訂正されたようで、まずはメデタシ、メデタシ。ただし、英語の正しい訳はどっちなのだろう?
×月×日 シャーロック・ホームズ研究委員会からクリスティ・ファンクラブについて40分程度の卓話を依頼される。もともと出不精な人間なので、仕事以外では外で話をすることは珍しいのだが、日本のクリスティ・ファンクラブもモグリではなく正式に認められこと、後述するようにコナン・ドイルははたしてクリスティの作品を読んだのだろうか? という問題の答えを教えてもらいたかったこと、さらには出席した話を書けば本欄の埋め草になることなどを考慮して、承諾の返事を書いた。
 当日は、鎌倉で海外のシャーロッキアンを招いてのセミナーが開かれたとかで、出席者は十名少しであったが、なかなかのシャーロッキアンばかりであった(本クラブ員のとおのさんも出席していた)。その時もらった『シャーロック・ホームズ紀要』などを後でパラパラ見ていると、本クラブとホームズ・クラブの両方に入っている人が数名いることがわかった。
 告白するなら、私もシャーロッキアンにでもなろうかと考えた時期があった。しかし幸か不幸か、ベアリング・グールドの"The Annotated Sherlock Holmes"(注釈シャーロック・ホームズ全集)を注文してみて、びっくり。こんな本が出版されているなら、素人にはホームズ研究(?)など簡単に出来るはずはないと、まだ誰も手を付けていないミス・マープルに対象を変更したわけである。
 今のシャーロッキアンの人達は、グールドの"The Annotated Sherlock Holmes"を基礎資料の一つ程度にしか考えていないのには本当に感心してしまう。あっ、あと1行になってしまった。まだ書きたいことがある。続きは次号で――。


ティー・ラウンジ

■No.54は大変読みごたえありました。クリスティ協会の総会へのご出席の方とか、クリスティとポアロを訪ねた方とか……。とても大変で、そしてすごいことだと思います。昭和59年写真展出品作品のため、ヨーロッパ5ヶ国15日間旅した私は、イギリス5日間は、路地ばかり歩いておりました。鎧窓とか、石堂の猫だとか、本屋とか文具店とか、そんな光と影を追って、霧の晴れ間をぬって歩いていました。今でもシャーロック・ホームズを絶対に見たと確信しております。はい!! できますことなら、お二方の旅日記の写真をもっと載せていただきたかったなぁ〜。特にベルギーはぜひ見たかった。ブルージュはあこがれの地です。卵形の顔に逢えるかも?(土居ノ内寛子さん)
■シャーロック・ホームズの立像が軽井沢に建てられているのを不審に思うと投稿された方がありました。どなたかの解明があるかと期待しましたが、みられませんでしたので、ここに遅まきながら記します。実際こつねんとシャーロック・ホームズが、お馴染みの姿で建っているのは何故かと私も思いましたが、その立像の近くに由来が委しく述べられ、その献像に参加した方の名前が彫られていました。すなわちわが国に最初にシャーロック・ホームズを紹介し、熱心なるシャーロッキアンであった延原謙氏がこの地の出身であるのです。それで、その延原氏の業績を讃えるために、この像を建立したものなのです(竹内澪子さん)。
■いつもWBH通信、ありがとうございます。誌面がイギリス・ムード一杯になって素敵です。「ティー・ラウンジ」は、いろいろな情報に満ちていて、とても楽しいです。ペンション「ポアロ」とやら、行ってみたいですね(菅野敦子さん)。
■地域のミニコミ紙で働いています。去年「あなたの知っている内外の探偵は?」の企画をたて、記事にしようと思いましたが、まずスタッフから聞いて回って、ポアロを知っている人が非常に少なく、アゼンとして企画そのものがついえてしまいました。もう少し身近な人からPRの必要ありかなと……。広報部長をしたいところです(戸塚美砂子さん)。
■スケッチの合間をみて、推理小説をむさぼり読んでいます。最近はクリスティにとどまらず、海外・日本物を手当りしだい乱読気味。歳のせいか、読む片端から忘れてしまいそうなので、読了後、2行程度メモ書きしています。この正月は、評判の『フロスト日和』と『破線のマリス』など楽しみです(都甲宰弌さん)。
■クリスティ・ファンクラブに入って本当に良かったと思います。私は神奈川県の逗子で約10年前からクリスティの原書の読書会を開いています。月に一回、短編を一作読み切りというペースです。そのうちに東京でも出来るといいなと思っています(鈴木芳枝さん)。
■97年秋の英国旅行で、ハロゲイトのオールド・スワン・ホテルへ行ってきました。1926年にクリスティが失踪中滞在していたホテルです。ハロゲイトの駅から歩いて15分くらいで、落ち着いた良い感じのホテルです。クリスティが滞在していたことを示すプレートもあります。ラウンジでアフタヌーン・ティを楽しんできました。
 また97年と98年の旅行ではロンドンのクリスティの家を三軒回ってきました。ブルー・プラークがかかっているチェルシーの家(ここは有名なのですぐわかります)、シェフィールド・テラス(ここにはプラークはありません)、そしてローン・ロード・アパートです(自伝にも出てきます)。ここは実際にはイソコン・フラットといい、素人目には何の変哲もないアパートですが、建築物としては有名で、建築関係の本や雑誌には図面や写真入りでよく紹介されています。専門家かクリスティのファンでなければわざわざ行かないでしょうね〜(私は後者ですが、浜田さんの旦那様は前者でしょうか?)(とおのはるみさん)。
■『翻訳入門』(松本安弘・松本アイリン著、1986、大修館書店)の中に『オリエント急行の殺人』と『カリブ海の秘密』が取り上げています。各々半頁程の原文ですが、それでも訳にかなり問題があるようで、ぞっとしました(原岡望さん)。
■egg-shaped head なるほど! そーですよね!! hips とか back shoulder(s)とか、upper lip とか、ときどき対応がうまくいかないところって、多いですもん。集英社の文庫にそんな面白い解説があるとは知りませんでした。文庫は足がことに速いから、まだ手に入るかどうか(海保なをみさん)。
■フィレンツェからヴェネチアへバスで移動中に、「オリエント急行」も通るという線路と平行して走っていることに気付きました。海のすぐ脇で、クリスティもこの景色を眺めたのかと思ったら急に旅情を……、と書きたいところですが、寒くてまいりました。ミラノは冷たい雨で、ローマの晴天が懐かしくなりました(安藤靖子さん)。
■泉淑枝さんが触れておられた赤沢栗介さんのペンネームの件で、突然思い出したのですが、息子が小学生のころですから1960年代、NHKの子供向け連続TVドラマのある回に、文学青年(?)が登場し、阿笠栗助と名乗ります。子供たちがヘンな名前と笑うと、これはイギリスの「由緒ある名」というのが妙におかしくて、今でも覚えているんですけど(杉みき子さん)。
■新聞の広告で見て、本屋さんへ早速チェックしにいった「トリッパー」という雑誌にお名前を見つけて、なんとなく嬉しく、それに写真もいろいろあり(数藤さんのお姿も……)、いそいそと買い求めて参りました(野坂典子さん)。
■年末NHKで「ポアロのクリスマス」を放映。うっかりビデオをセットし忘れてしまい、見損ねました。原作はとても気に入っている作品だっただけに残念でした。また再放送するでしょうからその日を楽しみにしています(八代到さん)。
■ヨーロッパに行かれた際の顛末記(No.53)、大変興味深く拝見しました。私ども夫婦も、10年前英国に半年間程参りましたが、マダム・タッソー蝋人形館にクリスティのお人形がございましたのを覚えております。小さな村(ヘンリーやマーローの近く)に滞在。ウィンターブルック・ハウス通信を読みながら、その頃を懐かしく思い出しました(成瀬幸枝さん)。
■新春早々、インターネットのホームページにて「アガサ・クリスティ・ファンクラブ」を見た者です。その情報によりますと、約28年も前に設立されていたのですね。私が読み始めて15年になりますから、13年も前からファンクラブがあったなんて信じられませんが、昨年『アガサ・クリスティー自伝』(上下)を読み終えて、その偉大さを認識させられたところです(田村正子さん)。
■昨年の12月初旬よりロサンゼルスに滞在しておりますので、恒例の通信をまだ読んでおりません。アメリカでは最新の007の映画が話題となり、サンタモニカの青い空に飛行機文字で”007”と描かれています。クリスマス・シーズンには何故か、007のリバイバルがTVで連日放映されました。銀行のチェックの模様にまでなっており、英国ものだとばかり思っておりましたジェームズ・ボンドは、ここアメリカでも人気は衰えません。さて、アガサ・クリスティはどうかといいますと、ボンドまではいかなくても、図書館の本棚、ビデオ・ライブラリーでしっかりと陣取っておりました。さっそく、図書館でフリーのビデオでミス・マープルの" 4:45 from Paddington "を借りて見ました。アメリカでイギリスものはいかが? という感じで、これからどんどん楽しみたいと思っています。アメリカでクリスティにもっと出会いたいと思います(浜田ひとみさん)。
■今年は外に出るより、家に居る時間が多くなりそうなので、絵を描いたり、ミステリを読む時間は多少増えるかも。最近はV・I・ウォーショースキーやキンジー・ミルホーンなど、女性探偵物を手にすることが多くなりました。ミス・マープルのようなゆったりした時間の流れはありませんし、ミスも多いけれど、思わずガンバレ!!と声をかけたくなる主人公たちです(鈴木千佳子さん)。
■この頃は、子供の手も離れ時間ができたので、よく映画館に足を運ぶようになりました。最近見たのでは「タイタニック」「The Ice Storm」「フル・モンティ」などです。話題の「タイタニック」はとても面白かったです。なにしろこちら(注:シンガポール)では入場料がS$7と、とても安いので(500円くらいですが)、この値段で、見たいと思う映像が、これでもか、これでもかと出てきて、飽きることなくたっぷりと楽しめました。
 「The Ice Storm」は日本でもやっていますか? 内容はいまひとつ、ピンとこなかったのですが、70年代のアメリカの風俗がうかがえ、’61年生まれの田舎育ちの私には懐かしいというより、なるほどそうだったんだ、という確認のような気持ちがしました。「フル・モンティ」はアカデミー賞にもノミネートされているので、日本でも有名かもしれませんが、面白くてどこか悲しい映画でした。しかし英国の労働者階級の英語はとてもわかりにくくて、英語も色々だなあと思いました。私は、この頃シンガポール英語、シングリッシュにようやく馴染みつつあるところです。こちらは超ブロークンで、すごいです(小堀久子さん)。
■「ゴー・ナウ」は未見ですが、「フル・モンティ」、「ブラス!」と英国映画は元気の出るのが続きます。『作家別映像化事典』(菅正明著、自費出版)がなかなか参考になります(今朝丸真一さん)。
■映画「ブラス!」はやっぱり良かった。ブラスバンド演奏の「アランフェス交響曲」の素晴らしさに、肌が粟立ちました。「エイリアン4」も満足。このシリーズは「1」「2」「4」が良くて「3」が少しヘコむけれど、1作ごとにそれぞれの監督がまったく違った作家性を発揮し、しかも連続物としての一貫性を保っているところが見事だと思います。夏公開の米製「ゴジラ」も楽しみです。年2回、WH通信誌上でお目にかかることができる私たち会員は、織姫・彦星よりは恵まれているといえるでしょうね(泉淑枝さん)。
■7年近く使ってきたパソコンのハードディスクが壊れました。いまさら代替品など手に入らないので、フロッピー・ベースでパソコンを動かしています。今時こんな人間などいないと思いますが(ケチだねー)、まあWin98が出るまで我慢するか、といった心境です。会員ファイルなどのバックアップだけは定期的に行っていましたが、一部のデータは最新でない可能性もあります。住所が古い、会費管理がオカシイ、などといったことがありましたら、申し訳ありませんがご連絡ください。
 なお会費切れの方には、宛名の右下に*印が付くはずですし、メモも同封します。また会費継続の方は2年分の会費(千円)を振替で送っていただけますと、一人制手工業としては事務が簡単になって助かります。よろしく!!
■「フルモンティ」も「ブラス!」も観ました。言いたいことをきちんと言っているのには、やはり感心してしまいます。夏休みにも、いい映画を観たいですね(S)。


 ・・・・・・・・・・ウインタブルック・ハウス通信・・・・・・・・・・・・
 ☆ 編集者:数藤康雄 〒188      ☆ 発行日 :1998.9.15
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 ☆ 発行所:KS社             ☆ 振替番号:00190-7-66325
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