のんびり、25年

数藤 康雄


 WH通信を創刊してから、今号で50号、つまり25年になります。まあ「いつのまにか」に50号で、「のんびり」と25年なのですが、「イイカゲン」に続けた50号で、「ダラダラ」と作った25年でもあります。したがってどれを表題にしてもよっかたのですが、まあ4つの中では、「のんびり」が一番近いかな、といったことで上のような題名となりました。
 ところでものぐさ人間の典型のような私が、なぜクリスティ・ファンクラブを作り、なぜ機関誌WH通信を発行するようになったのか? という謎については、すでにWH通信NO.10の「号数が二桁になったので、少しは思い出話をしてみよう」に詳しく書いています。しかし創刊号からの会員はすでに30人を切っていますし、そのような会員でも、古い号の内容を覚えている人はほとんどいないでしょう。重なる部分はあるはずですが、もう一度思い出話を書いてみることにしました。 まずWH通信を発行しようとした直接の動機は以下の3つです。
(1)当時クリスティ・ファンクラブは世界中のどこにもなかったこと
(2)私の実家に古いガリ版印刷機がころがっていたこと
(3)「ミス・マープルのすべて」のお礼に送られてきた「じゅえる」という小冊子が大変面白かったこと
 つまり、今と違って英米には(もちろん日本にも)クリスティ・ファンクラブなどは存在していないので、それなら日本に勝手に作ってしまおう! そして個人誌「じゅえる」のような小冊子なら、実家にあったガリ版印刷機でも簡単に作れそうだ、と考えたからです。なお余談ですが、当時「じゅえる」を発行していた学生さんが、実は数年前に日本推理小説家協会賞を受賞した作家のK氏であることを最近知りました。国産ミステリーはあまり読まないのでそのことに気づかなかったのですが、若いときのK氏が手掛けていた「じゅえる」が面白かったのは、当然と言えば当然のことだと納得できました。それを、”私にも出来るんです”と勘違いしたとは赤面の至りですが、当時の私が、『スキップ』の主人公のように未来にスキップできるわけではないのですから、これも若気の過ちの一つなのでしょう。まさに盲蛇に怖じず、エンジニア個人誌を恐れず、ってなものでした。
 創刊号は、幼稚なタイトル・デザインをつけた真っ赤な表紙の文字通りの小冊子でした。奥付によれば、1971年9月15日の発行になっていますが、これは、最初から年二回の発行は誕生日号とクリスマス号にしようと決めていたからで、創刊号は確か7月中には完成していたはずです。ガリ版の正しい刷り方を知らなかったこともあり、印刷結果は読みにくい、汚い紙面になりましたが、作り直す気力はありませんでした。まあいいや、といったイイカゲンな気持ちで『ミス・マープルのすべて』を読んでくれた人に送ったのが、クリスティ・ファンクラブの出発となりました。
 このようなスタートでしたが、第2号からは高田氏が表紙を担当してくれたり、クリスティ・ベストテンの呼びかけには多数のファンが参加してくれたりと、順調に号を重ねることができました。まず外面上の、すなわち印刷形式や装丁といった物理的な面の変遷をまとめてみますと、次のようになります。

機関誌の作り方の変遷
号 数 版 下 印 刷 製本 備   考
NO.1〜NO.10(71.9〜75.12) 手書き 内部(ガリ版) 内部 表紙は2号から高田氏が担当。頁数は原則として64頁。
NO.11〜NO.19(76.9〜80.9) 手書き 内部(ガリ版) 内部 表紙は家シリーズで毎回変る。40頁のときもあった。
NO.20〜NO.27(80.12〜84.9) 和文タイプ+手書き 外部(オフセット) 内部 表紙デザインは固定となる。縦書きから横書きへ。
NO.28〜NO.32(84.12〜86.12) 和文タイプ+ワープロ 外部(オフセット) 内部 手書き版下がなくなる。
NO.33〜NO.40(87.9〜90.12) ワープロ+パソコン 外部(オフセット) 外部 表紙の色が2号連続となる。38号より編集にパソコンを使用。
NO.41〜NO.50(91.9〜95.12) パソコン 外部(オフセット) 外部 表紙デザインが多少変る。版下はすべてパソコン処理。

 この表を改めて眺めてみますと、仕事やその他の遊び(EQ誌の書評など)が忙しくなるにつれて、いかに機関誌の編集や作成を合理化していったかがよくわかります。今ではパソコンで作った版下を印刷屋に送るだけですから、製作時間は大幅に減り、発行日の1カ月前までの情報を盛り込むことができるようになりました。それに対して創刊号から19号までは完全自前で製作していた時期でした。私が若く暇があったから出来た方法といえます。
 この完全自前の時期は、製作費は安上がりでしたが、紙面の読みやすさは一向に改善されませんでした。いかんせんガリ版印刷機が古くて、きれいな印刷ができなかったからです。なにかいい方法はないだろうかと悩んでいたとき、会員の杉山さんが和文タイプライタで版下を作ってもいいと提案してくれました。ちょうど次号がWH通信の20号に当たっていたことも好都合でした。10周年記念号となるので、多少金がかかろうともタイプ印刷で読みやすいものを作りたかったからです。
 しかし問題が一つありました。WH通信のような横長の体裁ですと縦書きの方が読みやすいのですが、和文タイプライタによる版下作成は原則として横書きになってしまうからです。このため多少の浚巡はあったのですが、手間は省けるし、紙面は読み易くなるし、といったメリットを考えて、横書きに変更することにしました。
 これ以後の変遷は、いかに短時間で版下が作れるかで決めています。その結果、版下作成のハードは、和文タイプライタから、ワープロ、パソコンへと変わりました。ソフトは、仕事の関係で熟知しているVJE−Penというマイナーなパソコン・ワープロソフトです。パソコンのDPT(机上編集)ソフトを使えば、より見栄えする版下も可能なのですが、これは手間が増えるので利用していません。あと4、5年は今のハードを利用したいので、そうすぐに版下が変わることはないでしょう。皆さんは、どのような体裁のWH通信から読み始めたか、覚えているでしょうか?
 次に内容的な変遷ですが、創刊号から10号までは、私自身が熱心にテーマを考え、原稿を積極的に依頼・催促した時期にあたります。特に6号の刊行まではクリスティは毎年新作を発表するほど元気でしたから、クリスティに手紙を出してはその返事を掲載しようとした当初の計画はうまくいっていました。クリスティーの別荘に招かれたり、イェール大学にラムゼイ氏(当時のアメリカにいたクリスティ研究家)を訪問したりした、面白いほど物事が順調に進んだ時期でした。エンジニアの私でも、何かひとつ原稿を書くことはさほど苦になりませんした。もちろん原稿を依頼された人も、ほとんどの人が快く承諾してくれました。
 またその頃は、映画「オリエント急行殺人事件」がヒットし、ポアロ最後の事件である『カーテン』がベストセラー・リストに載った時期でもあります。クリスティに関する情報がマスコミに数多く載るようになり、埋め草記事に困ることはありませんでした。今回、そんな懐かしい初期に助けてもらった(実は今でもですが)三人の方に原稿をお願いし、またまた御協力していただきました。
 まず杉みき子さんは、創刊号に「アリアドネ・オリヴァー夫人のすべて」を書いています。その後も、「クリスティ・いろはかるた」や「へそまがりのクリスティ全集」といったユニークで楽しい原稿を寄せて下さいました。本職は児童文学者ですが、文芸はなんでもござれで、今回は短歌(?)です(横書きでスミマセン)。
杉さんに関しては、面白いエピソードがひとつあります。数年前に新潟放送のディレクターから、県内にいるクリスティ・ファンを教えてくれないかと、突然電話がありました。つまり本に関する連続ラジオ番組があり、クリスティ作品のコメンテータを探しているのだが、全然見つからない、という話でした。そこでおそるおそる杉さんの名前をディレクターに告げますと、つい最近まで別の本(児童文学書?)でお相手をしていたとのこと。途方にくれていたのに目の前にいたというわけで、大いに驚き、かつ安心した様子が電話線を通して伝わって来たのでした。
 次の高田さんは、第2号から今回の50号までのすべての表紙を担当されているデザイナーです。原稿にも書かれているように、今ではデザイン研究所の代表者として活躍されています。表紙に関して余計なことをひとつだけ付け加えておきますと、機関誌の題名である”ウィンタブルック・ハウス”の英文綴りは"WINTERBROOK HOUSE"が正解です。当初は正確に表示されていましたが、少しずつ"WINTER"と"BROOK"の間にスペースが入り込み、いつのまにか"WINTER BROOK HOUSE"になりました。個人的には"WINTER BROOK HOUSE"でもいっこうに構わないと思って訂正はしませんでしたが、勝手に作ったクリスティ・ファンクラブが公認され、正式に支部名として”ウィンタブルック・ハウス”を名乗るとなると、"WINTER BROOK HOUSE"では国際的に問題が起きそうです。というわけで、高田さんと相談し、49号からは元通りの"WINTERBROOK HOUSE"にさりげなく変更しました。お気づきの人はいたでしょうか?
 そして3人めは、WH通信3号に「クリスティと考古学」を書いてくれました岡本さんです。実を言いますと、早川ミステリ文庫『メソポタミアの殺人』の私の解説「中近東のクリスティ」は岡本さんの文章に触発されて出来上がったものですが、その解説はあちこちに再録されたり、それを読んだ編集者からミステリーとは関係ないオリエント文明の本に載せるエッセイを頼まれたりと、思ってもみないモテモテ振りとなりました。これも岡本さんのおかげです。
 岡本さんは一時体調を崩されたともお聞きしたのですが、どうして、どうして大いに生活を楽しんでいるようです。


おくればせの挽歌

杉 みき子


  殺されし故に不滅の名を得たるロジャー・アクロイドの奇しきさだめか

  復讐はのがれらるると思うなよオリエント急行が闇を切り裂く

  ABCいろはにほへとアイウエオ殺人学科の初歩のレッスン

  古き死体と新しき死体とそれぞれがメソポタミアの夜に横たわる

  地中海はてなき旅をゆきゆきてナイルに果てし恋と野望と

  誰もいないインディアン島に寄する波古りにし唄をうたうひねもす

  目をとじて歯科医の椅子に腰かけて殺されるのを待っている人

  完ぺきな書斎はこちらでございます死体もちゃんとついております

  危うくも鏡は横にひび割れて胸にも走る亀裂ひとすじ

  バートラム・ホテルの古き椅子に倚りお茶とマフィンの黄金の日々

  終りなき夜に生まれつく息子ゆえその母の夜も永遠に終らず

  街へゆきし五匹の子豚それぞれに殺人の荷を背負いて帰る

  強情な象の記憶を求めつつオリヴァー夫人のはてしなき旅

  柳荘という名の小さな喫茶店へ夢の中にて入りしことあり

  雪の夜の老女の夢はおそろしや暖炉のなかで赤んぼが泣く

  豪邸をめぐれる果てに行きつきしひつぎは花に埋もれてあり

  贈らんか伯爵夫人に赤いバラ オリヴァー夫人に赤いリンゴを

  裏木戸を入ればトミイとタペンスの元気印のらくがきのあと

  幸福をもとめてのぞく広告欄パーカー・パイン氏はいま旅行中

  虹いろのクィン氏の姿見しゆえに恋は死となる死は恋となる

  カーテンの閉じたるあとをいつまでも遠ざかりゆくうしろ姿よ


デザインはミステリー

高田 雄吉


 ウィンタブルック・ハウス通信の表紙を2号から25年間、デザインさせていただいた。最も後半の10年はフォーマットを固定してしまい、毎号デザインしたとは言えないが・・・。デザイナーになることを夢見る高校生から、今や曲がりなりにもデザイン事務所の経営者となってしまったことを思うと、自分はクリスティーを初めミステリーに育てられたように思う。
 デザイナーは探偵、クライアント(依頼人)は犯人だと思うことがある。エージェント(代理店)がついているときはワトソン役か、たまに共犯者のときもある。アーティストは自分さえ満足できる作品を作ればいいが、クライアントの意向を汲んで仕事をするのがデザイナーである。完全犯罪をもくろみ無理難題を投げかけるクライアントに対して、謎を解決してゆき解答を提示する。毎回違う答えが要求される。しんどい職業を選んでしまったと思っている。しかしデザインとしての解答を見いだす作業はミステリーを解いてゆく楽しみに似ている。違うことは、答が一つではなく、解答編までにたどり着くのに時間や費用が与えられないことがあり(もちろん能力不足で、未解決という悲しい結果に終ることも、あってはいけないがあることもある)、そして一番困るのは、必ずしもエレガントな解答が要求されたり採用されるとは限らないことだ。グラフィックデザイナーって派手でかっこいい職業と思われがちだが、結構ハードで、自分の思うように仕事ができる人は少ないのです。
 できることなら、ポワロのようにたまに現れては難問を解決し、クリスティのように息の長いデザイナーであり、ロングセラーを作っていきたいと思う。

Thank you Agatha!


ストーリーの一コマ

岡本 冨士枝


 WH通信発行二五年おめでとうございます。一年に二回の発行が正確に行なわれ、今回が五十冊めになるなんて、本当にすばらしいことです。
七十ウン歳の白髪のおばさんが、立教大学でスペイン語を勉強しているというスリリングな話をミステリ・マガジンで読まれた方は、ホラー小説を地で行っていると大きなショックを受けられたことでしょう(93年9月号ミステリ・マガジン”レディのたくらみ”)。
 スペイン語訳『バグダッドの秘密』は、スペイン語の文法を終えた頃から読み始めました。スペイン語の本屋にクリスティの作品が並んでいるのを見た時はワクワクしました。
  バビロンまでは何マイル
  二十の三倍と十マイル
  ろうそくの火たよりに行けますか
  行って、帰って来られます
 マザーグースの童謡が英語のままで出ていました。考えてみると、自分でスペイン語に訳せばいいので、別に驚くほどのことはないわけです。
 課外の読物で「スペインの歴史」を二、三年かかって読了しました。スペインの興亡、特に二十世紀になってのスペインの内乱のくだりでは、『ポアロのクリスマス』を思い出しました。空襲を受けた列車で死んだ娘の代りになって、スペインの娘が邸に乗り込むエピソードがあったことに気がつき、ニュース性にびっくりしました。やはりクリスティの作品は読んでおくものです。
 『ねじれた家』の冒頭、糖尿病の老人がインスリン注射の代りにエゼリンを注射されて死亡する事件が起きます。糖尿病は、大ざっぱに言うと、体内のインスリンの代謝異常によっておきる病気で、不足するインスリンを注射によって補うことで正常を保つことが出来ます。1921年インスリンが発見され、翌年には治療に実用化されました。糖尿病治療に革命が起きたのです。欧米ではそれと同時に、患者自身が医師の指導を受けて自分でインスリンを注射することが実行されました。当然ねじれた家の老人も、自宅にインスリンを常備し、定時に定量を注射していたわけです(作品では夫人が注射していますが)。
 物語からはずれますが、私も糖尿病患者です。日本では、明治以来注射は医師によって行なわれることが規則となっているので、この病気の治療は大変遅れました。日本でインスリンの自己注射が認められたのは1981年です。これらのことが行間から浮き上がってきました。
 年をとるにつれて、物忘れが激しくなるとは悲しいけれど事実です。しかし、本を読み返し新しい感銘を受けることは何とたのしい経験なのでしょう。私はクリスティのミステリーの行間からひろがる美しさ、奥深さ、人生のゆたかさの再発見に夢中になっています。「この不思議な風格のある機関誌」がいつまでも続きますように!


 ここでまた思い出話の続きになりますが、WH通信10号を発送して20日もたたない1976年1月12日、クリスティは亡くなりました。すでに2、3年前から新作を出していませんでしたから、多少心配はしていましたが、実際に訃報に接しますと、やはりファンクラブへの熱意は薄れてきます。また機関誌を10冊も一人で編集していますと、書きたいテーマ、特集したいテーマが無くなってきました。もう、ファンクラブを止めようかな、などとイイカゲンに考えて、11号からの2、3冊は、惰性で編集を行なっていました。こちらの熱意不足が伝わるのか、当然のように会員も少しずつ減っていきました。
 ところが皮肉なことに、クリスティが亡くなってから、クリスティの一般的な人気は一段と高まりました。ずっと昔の映画「そして誰もいなくなった」が岩波ホールで上映されたり、クリスティ読本や自伝なども刊行されました。出しても売れっこないと思っていたポアロとミス・マープルに関係するマニアックな本さえ出版されました。矢野浩三郎氏と私が共同で編集した『名探偵読本、ポアロとミス・マープル』(パシフィカ発行)ですが、編集者の話によりますと結構な売行きであったとか。その証拠でしょうか、本の中にクリスティ・ファンクラブの紹介文を載せたところ、問い合わせが殺到(でもないか?)しました。
 前掲の表でおわかりのように、その当時はまだ印刷・製本をすべて家内製手工業に頼っていましたから、機関誌の作成は150部が限度でした。しかし会員も減っており、会員数は確か130名を切っていました。2、30人の入会希望者がいても問題はないと高を括っていましたが、実際の問い合わせは、最終的には100通を越えたはずです。もちろん中には単なる冷やかしもありましたが、真面目な問い合わせが圧倒的でした。なんとか希望に応えられるように、次号は頑張って200部作成した記憶がありますが、それでも30名近くの希望者は待機リストに入ってもらいました。
 次頁の正田さんも、『名探偵読本』が縁で入会された一人であったはずです。東京創元社が昭和30年代に出していた世界推理小説全集(花森安治の装丁でおなじみ!)の月報にクリスティについての文章を投稿していた私より先輩のクリスティ・ファンですが、たまたまその月報が手元に残っていたことも不思議な縁でした。
 その後も不思議な縁は続き、こちらが企画に困った時になると、なぜか興味深い原稿が送られてきます。今回の原稿(お手紙)も実にタイミングよく届き、喜んで掲載させてもらいました。


私の見つけたペンギン・ブックの序文

正田 巌


 六冊ほどもっていた1953年版のペンギン・ブックのなかに、うまい具合に”Crooked House”と”The Moving Finger”がありました。一応訳はつけてみましたが、あまり「忠実な」訳ではないので、原文のコピーも一緒にお送りします。
 ”Crooked House”は、クリスティの長編のなかでも好きなものの一つです。その割に有名でないので、少しプレー・アップするつもりもあって、「クリスティ・ランドの素敵な人」の第7回(WH通信第36号、1988年12月)に、エディス・デ・ハヴィランドとジョセフィン・レオニデスを紹介したことがありました。それがたまたま数藤さんのご仲介で「ミステリ・マガジン」の「アガサ・クリスティ生誕100年記念増大号」(1990年10月)に転載されるなど、個人的にも何かと縁のあった作品でしたが、今度序文を訳しながら、また一つご縁がふえたなという気がしました。
 ”The Moving Finger”にはそういった特別のかかわりはありませんし、格別好きな作品でもありませんが、ともあれ四十年以上前、海外ミステリーの訳書もあまり多くなかった時代に、字引をひきひきクリスティに挑戦した頃のことが、なつかしく思い出されました。そういえば、まだ読みづらいガリ版刷りだったWH通信に「クリスティ・ファンの三十年」を寄稿したのが1979年(第18号)、ぐっときれいになった会誌が今年で50号になるというのは、何といっても嬉しいことです。
 ところで、一昨年から創元推理文庫で、セイヤーズの初期の長編がぼつぼつ出ています。セイヤーズというと、何となく教養学識を鼻の先にぶら下げたようなイメージがあって、これまで敬遠してきたのですが、すくなくとも初期のものは意外に素直なつくりで、これならクリスティ・ファンにもうけるのではないかと思いました。最近出た『ベローナ・クラブの不愉快な事件』などもきわめてcozyで、小ぶりながらよき時代のミステリーの醍醐味が十分に楽しめます。

『ねじれた家』の序文

 これは、私自身特に気に入っている作品の一つです。長いことあたためて、いろいろ考えたり、ふくらませたりしながら、「いつか時間がたっぷりとれて、本当に楽しみたい気になったら、書くことにしましょう」と、自分にいいきかせてきたものです。作者にとって、本当に楽しい作品というものは、全部の作品のうち五つくらいのものでしょうが、『ねじれた家』はそういう楽しい作品の一つでした。よく思うのですが、読者にとって、読んだ作品がさんざん苦労したあげく出来あがったものなのか、それとも楽しみながら書きあげられたものなのか、一体見分けられるものなのでしょうか。「これこれの作品は、さぞ楽しみながらお書きになったのでしょうね」といわれることがよくあります。ところがその「これこれ」というのが、実は頑として作者の思うようにならなかった作品で、登場人物はうまく動かないし、筋は必要以上にこんぐらがり、会話はやけに大げさになる、そういったしろもの、少なくとも作者自身にはそう感じられる作品なのです。もっとも結局のところ、作者というものは自分の作品の最良の判定者ではないのかもしれませんね。
 でも、実際上すべての方々が『ねじれた家』に好意をもってくださいました。ですから、この作品が私のベストの一つだという確信は、間違っていないと思います。
 レオニデス一家が、どういうきっかけで私の頭に浮かんできたのかはわかりません。ただ自然に浮かんできたのです。そしてそれからは、トプシーのように、自然に育っていったのです。
 私はただ、それを記録していけばよかったのです(アガサ・クリスティ)。

『動く指』の序文

 古典的なテーマをとりあげて、それを自分なりに料理するということは、いつになっても楽しいチャレンジです。この本の場合、そのテーマは「中傷の手紙」です。つまり匿名の手紙の書き手たちが引き起こした、皆さんよくご存じの、立証ずみのもろもろの事件につながるものです。中傷事件はどのような点で似かよっているのか、手紙を書く動機は大抵の場合同じものなのか、匿名の手紙という手段が、犯罪者の心をもった人々に、どのようなチャンスを与えるのか、『動く指』はこのようなテーマについての、私なりの貢献です。
 この本を書きながら、私がとくに好意をもち、私にとって不思議なほどリアルな存在となった登場人物がいます。もしミーガンがある日突然部屋に入ってきたとしても、私には即座に彼女がミーガンだとわかるでしょうし、会えたことをとても嬉しく思うことでしょう。ミーガンが本当に生き生きとしたキャラクターになってくれたことは、とても有難いことです。牧師の奥さんにも会ってみたいものですが、残念ながら会えそうもありません。ともあれ、この本を書くのは、まことに楽しい作業でした。
 私は、この本に出てくるような、親しみやすい村の雰囲気や、村の人たちが大好きです。時々、エキゾチックな設定は、犯罪そのものに対する興味を減殺するものではないかと思うことがあります。犯罪は、皆さん方が日常出会っているような人たちの中で起こったとき、最も興味深いものとなるからです(アガサ・クリスティー)。


 さてWH通信20号は、初めて印刷を外部の印刷会社に頼みました。またこれを機会に、郵送料のみを負担していたそれまでの会費を印刷代の一部も含む会費に変更しました。このため会員は減少するかと思ったのですが、映画「ナイル殺人事件」や戯曲「検察側の証人」がヒットした結果でしょうか、女性ファンの入会が続き、会員数は徐々に増加していきました。
 20号から30号におけるトピック・ニュースは、なんといっても戯曲「ねずみとり」の公演を期に、ファンクラブの第一回会合が開かれたことでしょう。もっともこの会合も、こちらが積極的に企画したわけでなく、戯曲をプロデュースした会社の宣伝にのった企画でしたが、タダで舞台が観られることもあり、平日の午後にもかかわらず、大盛況でした。第二回会合は、相変わらずの消極的な人間のため、開くメドなど立っていませんが、誘いをかけてくださる人もあり、本会が潰れる前には実現したいと考えています。
 ファンクラブは、発足当時からモグリのクラブであったことと、機関誌発行が手作りであったこと、消極的な人間が運営していることのため、原則としてクラブのPRは行なっていません。したがって10号ぐらいまでは、会員数は減ることはあれ、増えることはありませんでした。それが1978年に出た『クリスティ読本』(早川書房)や『名探偵読本』(パシフィカ)のおかげで200名前後まで成長しました。その後は、また少しずつ減り続けたのですが、読売新聞(1985年)や日経新聞(1992年)といったマスコミ紙で紹介される度に30名近くの方が入会され、現在の会員は約240名です。男女比や平均年齢などはよくわかりませんが、女性会員が6割を越えているのは間違いありませんし、平均年齢も40歳に近いのではないかと思います。出発当初は、男性が7割程、平均年齢もぐっと若かったはずですが……。
 ところで冒頭に、クリスティ・ファンクラブを作った理由のひとつに、世界中のどこにもファンクラブがなかったから、というものを挙げました。しかしクリスティ生誕記念年(1990年)でクリスティ人気がより高まるとともに、英米で相次いでクリスティ協会が発足しました。特に英国のクリスティ協会は、クリスティの孫であるプリチャード氏が代表を務めている本家本元の協会です。ファンクラブがなかったから、というこのクラブを作った最大の理由が消滅しました。つまり本会の存在意義が問われかねない状況になったといえるでしょう。
 しかし最近は退会される方がめっきり減り、結果としてファンクラブ員は少しずつ増えています。あまり自信はありませんが、個人誌的な性格の機関誌から文字通りのファンクラブの機関誌へと脱皮して、21世紀までは続けたいですね。
 このようなファンクラブを運営していると、時に私が出版関係の人間か、あるいは少なくとも文章を書くのが好きな文科系の人間だと思われがちです。しかし、それは誤解です。文章を書くよりは、コンピュータのプログラムを書く方がずっと興奮するエンジニアです。イイカゲンながら偏執的な性格もあるようで、ついに50号まできたのですが、エンジニアであったおかげで救われたのは、20号で実施したクリスティ・ベストテンの集計のときでした。投票者が100名近くもいたうえに、クリスティの全作品を採点したのですから、100×80以上のデータ(しかも小数点をいれると3桁のデータ)をミスなく処理しなければなりません。とてもじゃないが、電卓片手に一人で行なうことは不可能です。そこで仕事で使っていたミニコンを秘かに利用して間に合わせました。もう時効のはずですが。
 とまあ、最初はきちんとしたファンクラブの歴史を書きつつ、今後の展望をまとめるつもりでいたのですが、後半はまとまりがつかず、埋め草的内容で終りになりました(あと1行で終りだ!)。これがWH通信のいつもの姿でもありますが……。


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