ダートムアを満喫(3日目)  永嶋郁子

 朝ミニ・コーチがホテルに迎えに来て、奥地と湿原のイメージのダートムアへの旅が始まる。アガサ・クリスティがミステリー作家になる第一歩を踏み出した運命的な場所である。
 エクセターの町を抜けると、すぐに密に並んだ灌木の塀に区切られた道を走る。時には背の高くなった木々が左右から腕で抱えるようなアーチを作っている中を、軽快に通り抜ける。視界が開けると、放牧場が緑の地続きでずーっと先まで続いている。点々と羊の群れがいて、のんびりとした時間が感じられる。大多数は一般的な大小の羊だが、日本では見かけない顔の黒い羊、遠くには牛、ポニーや野生の馬のようなのもいる。一軒の牧場主の所有とは思えない数だが、よく見ると背中に無造作にペンキで描かれたのか、青や赤で塗られたような目印があった。しかも自動車の通る道を、時折ゆっくりと横断する。こちらは停車して行きすぎるのを待つが、事故も多いという。
 狭い道は果てしなく続き、さまざまな色合いの緑が層をなしたように美しく、目に入ってくる。青い空、よい天気に恵まれた本当に有難い旅である。はるか遠くに石造りの教会が建っている。道幅が狭いので、対向車線の車両とのすれちがいには恐怖を感じる。鼻先の大きなトラクター、ダブル・デッカーのバスなどだが、難なく通過するものも。ミニ・コーチは灌木すれすれ、時々木々が車体に引っかかる。
 そうこうしていると深い静寂なところに入って、人けのない駐車場にバスが止まった。少し先に岩が突出した小高い山が見えてきた。これこそアガサがお気に入りの場所、Haytorだ。National Park Visitor Centreでムアランド・ハウスの場所を確かめてから、登りはじめた。皆がどんどん登る中、日頃あまり歩かない私は必死の態で地面と格闘。ある程度登って後ろを振り返ってみたら、なんという美しいことか! 体中に解放感がみなぎる。ひろーい青空、白い雲、眼下は緑の広がりがパッチワークされたかのように美しい。はるか先に海も見える。締め付けられる感じが何もない! まるで地球全体が見えているかのように思える。執筆中のアガサも、イメージをふくらませて歩いていたのだろうか?


Haytor遠望                          ヒースとハリエニシダの群生

 さらに登ると、地表に噴出した奇妙な形の花崗岩に到着し、かなり大きくて地球の神秘を感じる。岩にのぼる人達もいたが、我々のグループはちょっと遠慮! 低い方の岩場で記念撮影をした。花はそこここに繁っていたが、本によると花の盛りの頃は、紅紫色のヒースや黄色いハリエニシダが一面に咲き、冬には雪も降るようだ。遠くには昔ロンドンの建物に使った花崗岩の石切り場も見える。思わず、両手を広げ風を体に入れこんで、「世界中で一人」的な感じを味わう。


Haytorの頂上

 下に降りると 小さなバンでアイスクリームなどを売っている。見回りのための女性なのか、キリリと馬上にあって、アイスを食べていた。
 アガサがミステリーの執筆に悩んでいるとき、お母さんから「とっておきの所がある」との提案で、2週間ほどムアランド・ホテルに滞在して『スタイルズ荘の怪事件』の終盤を執筆した。今回は残念ながら泊まることが出来なかったが、交渉担当の方が併設のダンデライオン・カフェでの昼食を予定してくれていた。中へ入ると居心地のよさそうなところで、何組かのお客がゆったりとくつろいでいた。カウンターの女性に訊ねるとにこやかに応対してくれて、ホテルの居間に案内してくれた。頬に左手をかけたポーズのアガサの肖像画、上の棚には古そうな書物がおいてあった。サンルームには籐の椅子とテーブルが並べられていたが、アガサもここに座っていたのかも知れない、と思いを馳せる。


ムアランド・ハウス                     アガサ・クリスティの肖像画

 カフェに戻り、キッシュ、ハンバーガー、チキン等をオーダーした。温かい人参スープが大きなカップにたっぷり! 冷たい風に吹かれた後だったためか、とてもおいしかった。イギリスでは一皿の分量が多いので、みんなでシェアする方が、いろいろな味も楽しめて助かる。食後庭に出て散策、ムアランド・ハウスの外観を眺めながら、今に続くミステリーの女王アガサの第一作がここで完成したことを感慨深く思った。
 予定よりやや早めに 駐車場で待っていたミニ・コーチに乗り込み、今夜の宿舎イェルバートンのムアランド・ガーデン・ホテルへ向かう。ホームズの『バスカヴィル家の犬』で有名なプリンスタウンの牢獄は見られるかとドライバーに聞くと、近くまでは行けないけれど眺めるのに丁度良いところがある、といって道端に止めてくれた。遠景に見えただけだったが、昔は人里離れた寒々とした孤村だったのだろう。バスは再び緑つらなる放牧地の中、まっすぐの一本道をただひたすら前進のドライブである。ほどなくガーデン・ホテルの案内板を右手に入っていくと 奥まった所に人けもなく、周囲に何もない、羊が少々いるだけの静かなところに着いた。
 名のとおり庭が自慢のホテルで、前庭にはきれいな芝生を囲むようにして花や木が植えられている。今回は色鮮やかなアジサイが咲いていたが、盛りの時期ならばもっと賑やかに花の咲く庭だろう。「夜空に星を見たら綺麗だろう!」と思い外へ出た人がいたが、あまりの漆黒の闇に恐怖を感じたとのことだった。
 荷物をほどいてから、きちんとテーブル・セッティングされたホテル・ダイニングで、デヴォンでのアフタヌーン・ティーを皆でいただく。アガサ好みの本場デヴォンシャー・クリームをたっぷりスコーンにつけて、サンドイッチ、一口ケーキ、ティーやコーヒーでゆっくりと楽しんだ。
 その後は皆で庭を散歩した。大きな木が印象的だった。ピクニックも出来るらしく、たっぷりの枝葉をゆったりと揺らしている巨大な木の下にシートが敷かれ、ワイングラス・セットなどが置かれてあった。奥の方には、古い厩らしきもの、廃屋や門扉の壊れたものなどがあり、ミステリー・ファンとしてはいろいろ想像して、話が盛り上がった楽しい散歩だった。この日の夕食はカットとなり、代わりに女子会が行われた。


ムアランド・ガーデン・ホテルのアフタヌーン・ティ

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