情報基礎論

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はじめに

//は音素を、<>はモジ素を、《》は意味をあらわす。[]は音声をあらわすが、参考文献の番号をかこんだ[]は例外である。音素とモジ素の意味については本文を参照されたい。

《よい》と《わるい》、あるいは《ただしい》と《まちがっている》

情報についてのべるまえに、まず整理しておくべきことがある。そのひとつが、《よい》と《わるい》、あるいは《ただしい》と《まちがっている》という概念についてである。

《よい》あるいは《ただしい》とは、目的の実現に役だつ状態のことをいう。《わるい》あるいは《まちがっている》とは、目的の実現のさまたげになる状態をいう。したがって、《よい》とか《わるい》とか、《ただしい》とか《まちがっている》とかの評価は、何らかの目的を設定しないとなりたたない。おなじ状態でも設定する目的によって《よい》ものになったり《わるい》ものになったりする。たがいに矛盾する目的をもった個体はおなじ社会に共生できない。

われわれにとって、なにがよくて、なにがわるいのか。なにがただしくて、なにがまちがっているのか。それは、固体が所属する組織や、国家、民族などによってことなる。それぞれことなる目的をもっているからである。しかし、その目的にも階層があって、人類という種の存在目的のレベルではおなじであるはずである。そうでなければ、人類という種は、体内にがん細胞をかかえた固体とおなじで、生存できない。

それでは、人類共通の普遍的な存在目的とはなにか。筆者は、文化的活動を量と質の両面においてたかめることだとおもっている。

《文化》と《文明》

つぎに、《文化》と《文明》という概念について整理しておく必要がある。

文化とは、いきてゆくために直接必要のない活動である。生命の危険がない状態での、精神的・時間的・経済的余裕からうまれる、しばしば非合理的な活動である。あそびである。芸術やスポーツなどがその例である。文化には、論理も合理性も生産性も必要ではない。たのしければ、あるいはうつくしければ、それでよい。

文明とは、知的生命体が生命の危険を心配せずに生活してゆくために必要とするシステムである。社会を構成する基盤となる、人間・装置・制度のシステムである。いいかえれば、文化的活動をするための余裕をつくりだすシステムである。より高度な文化的生活をおくるためには、より合理的で低コストな文明システムが必要である。文明の運転に要する時間や費用がすくないほど、文化のための時間や予算がふやせる。

人間という種の存在目的は文化的活動の量と質をたかめることで、そのためには低コストで効率のよい文明の運転システムが必要である。

情報の本質

情報とは

情報とは、ある生物の感覚器官への刺激の様式のうち、その生物が知覚可能であり、知覚された結果としてその生物の意識あるいは精神に何らかの概念を生じさせるものである。

情報は物質ではなく、物質の状態の様式、あるいは現象の様式であるから、質量はない。質量がないもののうち、生物が知覚可能であり、知覚された結果としてその生物の意識あるいは精神に何らかの概念を生じさせるものが情報である。

たとえば、本そのものは情報ではない。印刷されているインクも情報ではない。インクのつきかたが情報である。インクのつきかたはモジ(文字)になっている。モジとは、物質の、ヒカリ(光)を反射する性質、つまりイロ(色)やあかるさの、空間的な配列の様式である。モジの空間的な配列の様式が語になり、語の空間的な配列の様式が文になる。ここではとりあえず<モジ>とかいたが、じつはあとでのべる《モジ素》である。

情報と概念

生物の感覚器官への刺激の様式が情報となるには、その様式が、それを知覚する生物にとって、何らかの意味をもたなければならない。何らかの概念として識別されなければならない。この意味で、単なる「状態」とか「現象」とかではなく、「様式」ということばをつかっている。英語では form である。「情報」は英語で information であり、inform の名詞形である。inform とは in form、つまり《かたちにする》、あるいは《かたちになる》ということである。

概念とは英語で concept、あるいは conception である。conception には、《妊娠》《受胎》の意味がある。概念とは、情報という外部からの刺激によって精神内にはらまされるものである。

何らかの概念に対応させて感覚刺激を様式化したもの、あるいは、知覚された結果として何らかの概念を精神に生じさせる、感覚刺激の様式、それが情報である。

情報は、生物個体の感覚器官のそとがわにある。中枢神経系のそとがわにある。それは、精神のそとがわであり、主観のそとがわである。

ある情報がもつ意味、すなわち概念は、その情報を知覚した個体の意識あるいは精神のなか、主観のなかに生じる。それは情報ではない。情報の意味、は情報ではない。記憶も知識も情報ではない。知覚不能であるからである。

おなじ情報を知覚しても、それから生じる概念は、個体によっておなじとはかぎらない。概念は他人に直接にはつたえられない。情報に変換する必要がある。伝達されるのはあくまで情報であって、概念ではない。観察や管理の対象となるのも情報であって、概念ではない。

情報の三要素

キャリア

感覚器官への刺激とは、その生物をとりまく環境の状態やその変化である。刺激のすべてが情報になるわけではない。感覚器官によって知覚可能でなければならない。知覚機能をもつ生物がいないところには、情報は存在しない。

生物の感覚器官への、知覚可能な何らかの刺激の様式が情報となるとき、この刺激を、キャリアとよぶことにする。キャリアは情報の担荷体である。

おなじ刺激にさらされても、固体によって知覚能力がおなじであるとはかぎらないので、知覚のされかたもおなじとはかぎらない。視覚障害者・聴覚障害者などが極端な例である。

人間がもちいるおもなキャリアは、ヒカリ(光)とオト(音)である。点字のように、皮膚への接触や圧力もキャリアになりえる。ほかに、におい・あじ・皮膚との温度差・いたみ・重力の変化などもキャリアとなりえる(たとえば[3]の「感覚器」の項)。しかし、知覚の弁別閾(いき)や、空間的あるいは時間的分解能があらいので、ヒカリやオトほど大量の情報はのせられない。

人間が知覚できないものは、人間にとってはキャリアにはならない。また、機械をつかって人間が観測できる現象でも、感覚器官で直接知覚できなければキャリアにはならない。たとえば、磁気や電波は人間にとっては直接のキャリアにはならない。しかし、伝達の途中の機械装置間で、一時的につかわれることはある。

コード

生物が、感覚器官をとおして外部からうける刺激の様式から、精神に何らかの概念を生じるとき、その様式のさまざまな属性のうち、その概念の発生に寄与している部分を、コードとよぶことにする。さらに、個々の要素的なコードの体系をコード・ブックとよぶことにする。暗号のコード・ブックのようなものである。

キャリアの様式を情報にしているのは、その様式を解読するコード・ブックである。それは、意識、精神、あるいは中枢神経系のなかにある。

生物の中枢神経系内のコードやコード・ブックは、学習によって形成される。自分が知覚した現象に対して自分がおこした行動の結果から、その現象が自分に対してもっている意味を帰納的に学習する。あるいは、自分が知覚する現象自体の時間的変化や、その現象と因果関係がみとめられるほかの現象の観測から、その法則を帰納的に学習する。本能的にもっている反射的行動とはことなる。したがって、学習能力をもたず、外界からの刺激に対して反射行動しかしめさないような生物には、情報は存在しない。

音声は、オトをキャリアとするときに人間によってつかわれるコードのひとつであり、そのおもなものである。正確には、音声というよりは音素である。音素とは、音声のこまかい発音のちがいを、意味の区別に影響しない程度にグループ化してまとめたものである(たとえば[3]の「音韻論」の項)。たとえば、Aという人物が発する[ア]という音声とBという人物が発する[ア]という音声はことなる。どちらが発した音声かの区別がつく。しかし、どちらも音素としては/ア/であることにはかわりなく、たとえばAが発した[アイ]という音声の[ア]の部分をBが発した[ア]といれかえてみても、/アイ/という音素列のもつ意味に影響はない。音素はひとつまたは複数の音素の時間的な配列によって、形態素を構成する。形態素とは、意味をもつ最小の単位である(たとえば[3]の「形態論」の項)。

モジ(文字)は、ヒカリをキャリアとするときに人間によってつかわれるコードのひとつであり、そのおもなものである。正確には、モジというよりはモジ素である。モジ素とは、音素と同様に、モジの属性のなかの意味のちがいに寄与する部分である。筆跡のちがいのほか、活字やフォントの書体のちがい、色やおおきさのちがいなどは、モジ素のちがいとはみなされない。1モジ、または何モジかの空間的配列で、ひとつの形態素をあらわす。

音素やモジ素というコードは、それだけでは概念をつたえることはできない。形態素や文を構成するためには、言語という、よりたかいレベルのコードが必要である。

言語というコードは、オトやヒカリだけでなく、ほかのキャリアをつかうこともできる。音素は、言語をオトというキャリアにのせるためのコードである。モジ素は、言語をヒカリというキャリアにのせるためのコードである。言語というコードは、キャリアと直接に接することはなく、音素やモジ素のような何らかのべつのコードを媒介として、キャリアにのってつたわる。OSI参照モデルにならった表現をすれば、音素やモジ素は物理層に面したコードであり、言語は、物理層からはなれた抽象的なコードである。つまり、レイヤーがちがう。ただし、オトをキャリアとする言語と、ヒカリをキャリアとする言語が、まったくおなじとはかぎらない。しかし、おなじにすることはできる。音素とモジ素のあいだに一対一の関係をつくればよい。

外部からの刺激をおなじように知覚しても、それから生じる概念は、個体によっておなじとはかぎらない。固体によって、おなじ刺激に対するコード・ブックがおなじとはかぎらないからである。母語のちがいや、語い力や識字能力のちがいがその例である。

メディア

ヒカリをキャリアとして情報を伝達するには、ヒカリを発したり、反射したりする装置がいる。オトをキャリアとして情報を伝達するには、オトを発する装置がいる。また、おくりてやうけての人間がそこに存在し、活動するための装置もいる。それらの活動は、社会のなかで、何らかの制度のもとでおこなわれる。それらの運用にたずさわるひとびともいる。これらの、情報伝達のための装置群・制度群・組織群をすべてまとめて、メディアとよぶことにする。

メディアは、文明という装置・制度・人間の巨大システムのなかの、情報伝達に関するサブシステムである。

情報活動

情報には、生産(あるいは創造)・処理(あるいは加工)・伝達(あるいは提供)・保存(あるいは蓄積)・利用(検索もふくむ)・収集・評価・分析・管理などの局面があるというかんがえかたがある(たとえば[3]の「情報学」の項)。生物の情報へのかかわりかたである。これを、情報活動とよぶことにする。

これらの情報活動を、これまでにのべてきた筆者なりのわくぐみでとらえるとどうなるかを以下にしめす。ここでは、情報の生産・処理・伝達・保存におおきくわける。つぎに、それらの情報活動を管理するメタ活動ともいえる情報管理と、情報活動に必要な技術としての情報技術をとりあげる。

情報の生産

情報の生産とは、生物が、知覚可能で操作可能な、何らかの物質の状態や現象、を変化させ、自分の精神内にある何らかの概念に対応した様式をあたえることである。概念を、あるキャリアに、あるコードをもちいてのせることである。キャリアのコードによる様式化である。

情報の生産には多重性、あるいは階層性がある。まず、要素的な概念が、要素的なコードで、キャリア上に様式化される。それらの要素的な様式が、さらにある様式をもってくみあわされ、あるまとまった概念をあらわす。これがよりマクロなレベルでおこなわれると、情報の編集とよばれることもある。

情報の生産は、生産される情報の伝達を目的としておこなわれる。だれによませるつもりのない日記でも、未来の自分がよむことは想定しているはずである。情報の生産も、情報伝達過程の一部である。

情報の処理

情報はキャリアの様式であるから、情報の処理、あるいは情報処理とは、キャリアの様式の操作であって、概念の操作ではない。つまり、情報処理とは、基本的にはコードやキャリアの変換や補正である。

「処理」ということばをひろい意味にとれば、情報の生産も、伝達も、保存もすべて処理である。もっともせまい意味の情報処理といえば、ラジオの音量や音質を調整したり、テレビ画面の画質を調整したりといったことであろう。めがねや補聴器は、情報処理機器の例である。視覚器や聴覚器への刺激が中枢神経系で概念として認識されるまでの過程も、情報処理といえるかもしれない。

編集が情報処理の一種とされることもあるが、上記の意味ではちがう。既存の情報を素材とした、あらたな情報の生産である。

情報の伝達

概念は他人に直接にはつたえられない。情報に変換する必要がある。伝達されるのはあくまで情報であって、概念ではない。観察や管理の対象となるのも情報であって、概念ではない。

ある個体が、その意識、あるいは精神のなかにもっている何らかの概念は、何らかのメディアを利用して、言語・モジ素・音素などのコードによってキャリアの様式になり、べつの個体への情報となる。

べつの個体によって生産された情報、すなわちべつの個体によって様式化されたキャリア、を知覚した個体は、それを、自分の精神内にもっている音素・モジ素・言語などのコードによって解釈し、精神に何らかの概念をはらむ。

意図的に生産された情報だけが伝達されるのではない。感覚器官と中枢神経系をもつ生物がいれば、そのまわりのものは、いくらでも情報になりえる。単なる風景も、それを認識する個体の精神内にその風景に対応するコードがあれば、情報になる。情報は、おくりてがいなくても、うけてがいれば伝達される。

また、おくりてが生産したキャリアの様式には、おくりてが意図したもの以外のコードがふくまれていることもある。コードはうけての精神のなかにあるから、キャリアの様式のどの部分をどういうコードで解釈するかは、うけてによってことなる。うけての主観である。

メディアによっては、情報を伝達する過程で、キャリアやコードがべつのものに一時的に変換される。たとえばテレビ放送では、ヒカリやオトというキャリアが一時的に電波というキャリアになり、コードもそれに応じて変換される。

情報は、知覚され、認識されること、つまりは伝達されることによってはじめて情報となるのであり、厳密にいえば、伝達されるまでは情報ではない。つまり、情報は伝達されることがその本質であり、情報に関してかんがえるということは、情報伝達についてかんがえるということである。種々の情報活動は、それぞれ、情報伝達のひとつの局面といえる。

情報の保存

情報の保存とは、ある物質の状態や現象を、キャリアの様式が再現できる状態にたもつことである。再現方法はメディアにより、ヒカリをあてたり再生装置にかけたり、さまざまである。

遺跡の壁画や博物館の展示物の劣化防止、生物や生体の標本作成、事故現場の現状保存などは、情報の保存の例である。

磁気ディスクや磁気テープ、光ディスク、半導体メモリーなどに保存されるばあい、保存されているあいだは厳密にいえば情報ではない。知覚できないからである。情報を時間的にへだたったあいてに伝達するために、一時的にキャリアやコードが変換された状態である。伝達途中の過渡的な状態といえる。

新聞・書籍・雑誌・展示物・掲示物など、反射光を利用したメディアでは、ヒカリがあたっていてだれかがみているときには情報の伝達を、だれもみていないときやヒカリがあたっていないときには情報の保存をしている。

情報管理

管理とは、その対象の状態をよい状態にたもつことである。

管理の具体的作業手順は以下のとおりである。

  1. 目的を設定する。
  2. 管理対象の、その目的達成のための理想的な状態を定義する。
  3. 管理対象の現実の状態を把握する。把握する頻度や周期は、下記の作業のために必要かつじゅうぶんな程度とする。
  4. 管理対象の、現実の状態と理想的な状態とのちがいを把握する。
  5. そのちがいの程度が目的達成のための許容範囲内であるかどうかを判断する。
  6. 許容範囲外であれば、許容範囲内にする。

情報管理とはモジどおり情報を管理することだが、情報は伝達されてはじめて情報となるのだから、情報管理とは情報伝達の管理である。つたえられるべき情報がつたえられるべきあいてにつたわっていることと、つたえられてはいけない情報がつたえられてはいけないあいてにつたわっていないことを管理することである。

作成された情報が、だれにつたえられるべきで、だれにつたえられてはいけないかは、その情報の作成者にしかわからない。その情報の存在を確実にしっているのも、その情報の作成者だけである。したがって、ある情報の管理ポリシーの決定と最初の伝達の責任は、その情報の作成者にある。

社会には、情報伝達が適切におこなわれるようにメディアを整備する義務がある。メディアには、自分があつかうべき情報を、その管理ポリシーにしたがって適切にあつかう義務がある。情報伝達の管理を専門にうけおう委託組織のようなものもありえる。

たとえば、ある社会で個人がまもるべき法令は、もれなく個人につたえられるべきである。それは、法令を作成する社会の責任である。

情報には、だれが作成したものでもなく、ひとりでにうまれるものもある。ある分野に必要な情報を専門に収集する組織も必要だが、一般の個人が偶然発見した情報も、それを必要とする組織や個人につたえる必要がある。社会がそのような情報を管理したければ、どのような情報を発見したらどこに報告しなければいけないかを、個人につたえておく義務がある。個人がやるべきこと、やりたいことのために、必要な情報をもれなく提供するためには、なにをするためにどんな情報が必要か、わかっていなればならない。社会には、そのリストを整備し、管理する義務がある。

情報技術

情報技術とは、情報の生産・処理・伝達・保存など、情報伝達に必要な技術すべてをさす。

たとえば、はなしかたや文章のかきかたは、情報技術の基本である。また、情報伝達には何らかのメディアが必要で、そのメディアを構成する装置群を運用・利用する技術も、情報技術の一部である。マイクやアンプなどの音響機器のつかいかたや、カメラによる写真や動画の撮影技術も、基本的な情報技術である。企業内の組織で、情報技術のいちばんのプロフェッショナルといえば、広報部門ではないだろうか。

ここでいう「技術」とは、英語の art, skill, technique, technology などの意味をすべてふくんだ、日本語の「技術」である。英語の information technology の訳語としての「情報技術」では、英語の technology の意味に限定された意味、すなわち科学、とくに自然科学や、工業に関する技術になるであろうが、コンピューターや通信に関する技術だけに限定されるものではない。

文明の運転技術としての情報伝達

情報伝達や情報管理・情報技術は、われわれの生活にとってどういう意味をもつのか。文明論的観点から考察する。

文明運転の要素技術

文明を維持し、運転してゆくためには、どのような要素技術が必要か。社会全体をひとつの生物としてかんがえたとき、その生物がいきているために必要な基本機能はなにか。

まずは代謝に必要なエネルギーの摂取である。エネルギーはなにもないところからわいてはこない。周囲の環境からエネルギーを効率よくとりだし、活動にかえる技術が必要である。文明システムでいえば、われわれ自身の食料や、さまざまな機械装置をうごかすための燃料の確保と、そのエネルギーへの変換である。

つぎに運動である。自分のからだをうごかす技術である。文明システムでは、その運転に必要なさまざまな装置や組織をいかに自由自在に制御し、うごかすかという技術である。

最後に、前述のふたつよりも重要な、それらの前提となる技術がある。生物でいえば神経系である。単細胞生物ならともかく、多細胞生物はすべて神経系をもっている(たとえば[3]の「神経系」の項)。代謝をするにも、運動をするにも、からだの各部分の神経系間での情報伝達は、必要不可欠である。社会は個体の集合である。個体間の情報伝達は、文明の運転に必要な、もっとも基本的な要素技術である。

文明運転の道具としての言語

人間文明の運転のための要素技術としての情報伝達では、コードとしては、おもに言語がもちいられている。キャリアとしてはオトかヒカリがおもなもので、それらのキャリアに言語というコードをのせるために、おもに音素とモジ素というコードがつかわれる。

念のため指摘しておく。言語とモジ素と音素を混同すべきでない。氏名のローマ字表記は英語表記ではない。「ジス イズ ア ペン。」はカタカナ表記の英語であり、"Ohayô gozai masu." はローマ字表記の日本語である。<ジョウホウ>は<情報>のフリガナであるが発音ではない。

「情報と概念」でのべたように、伝達されるのは情報であって概念ではない。しかし、われわれがやりたがっていることは、じつは概念伝達ではないか。情報のおくりては、自分のアタマのなかの概念がうけてのアタマのなかにもそっくりそのまま再現されることを期待してはいないか。そして、おおくのひとはそれが実現できているとおもいこんではいないか。

その実現のためには、うけてがおくりてとおなじコード・ブックをもっている必要があるが、言語をもちいて、ある個体のアタマのなかにある概念をほかの個体につたえたとき、あいてのアタマのなかに生じた概念がおくりてのものとおなじであることを完全に確認あるいは保証することは、不可能である。

もちろん、ある程度推測はできる。たとえば、日本人どうしが日本語で会話できているということからは、おたがいが日本語という共通のコード・ブックをもっていると推測される。しかし、各個体のコード・ブックがまったく同一であるとはいえない。語彙(い)力に差がある。おなじ語彙でもその意味の解釈や用法はことなることがある。日本語というコード・ブックは、情報伝達の道具としてそこまで厳密に規格化・標準化されていない。ただしい日本語とはどのような言語か、きめられてはいない。管理する組織もない。辞書は、現状を観察し整理して、編著者の主観をとおして記述しているだけである。何種類もの辞書があり、それぞれかいてあることがちがう。

言語をつかって概念を確実に伝達したいなら、その言語の仕様を規格化・標準化し、個体間で共有する必要がある。より専門的で複雑な概念を、より一般的で基本的な概念で階層的に記述して、よめばわかる文章にする必要がある。しかし、数学でいう公理に相当する概念は記述されずにのこる(たとえば[3]の「公理」の項)。系を有限にたもとうとすれば、真であることが証明できない命題が存在する。それを証明するには、べつの公理を導入しなければならない(たとえば[3]の「ゲーデルの不完全性定理」の項)。言語の、言語による記述には、限界がある。

システム設計上の懸念

現代の人間文明を運転するために必要な情報伝達が、言語をおもな手段とした現在の情報伝達システムで、じゅうぶんにおこなわれているのか。それは、確認できているのか。実現できているとおもっているだけで、じつはできていないのではないか。自分たちの能力をこえた情報伝達が要求される事業に、無謀にもとりくんでいはしないか。処理しなければいけない情報はすべて処理しきれているのか。情報のながれのボトルネックはないのか。そもそも、「この文章はうそです。」のような文章がゆるされるコードで、人類がのぞんでいるような文明の運転が可能だろうか。もし、文明の運転に必要な情報伝達が正常におこなわれているなら、法令の解釈がひとによってちがったりするのはなぜか。

現在の文明の運転は、これらを管理しないままつっぱしっているかのようにみえる。自分たちが期待しているサービス・レベルが達成されているのかどうか、検証が必要ではないか。

ふたつのみち

べつのコードやキャリアをつかうべきかもしれない。たとえば、人間の脳のなかでは、概念は神経系の電気現象である。コンピューターやネットワークのなかでも情報は電気現象に変換されている。しかし、人間と機械のインターフェース部分で、いったんオトやヒカリにキャリア変換してからまた電気に変換している。ここにボトルネックがあるのではないか。コンピューターの処理速度や通信回線の伝送速度がいくらはやくなっても、人間が文章をよみかきしたり会話したりするはやさはかわっていない。

たとえば、脳と機械、あるいは脳と脳を電気的なインターフェースで直接むすび、電気をキャリアとすれば、よりはやくて確実な概念伝達がおこなえるのではないか。それは感覚器官をとおらないから、もはや筆者の定義による情報伝達とはいえないが、逆に究極の情報伝達なのかもしれない。社会を構成する個体の脳すべてが電気的に接続されて知識を共有できれば、単なる知識や目的のちがいではなく、感じかたやかんがえかたのちがいといった真の個性による民主主義が実現できるかもしれない。

もちろん、このようなことが具体的にいますぐ可能であるといっているわけではない。われわれが維持したい文明のレベルや、やりたい事業の規模やスピードに対して、その運転に必要とされる情報伝達の精度やスピードが、言語をつかった現在のシステムで達成できないのだとしたら、このようなことを真剣にかんがえなくてはいけないのではないかといいたいのである。

一方で、文明運転の道具としての言語には、限界があるとはいっても、まだまだ規格化・標準化され、整備され、管理される余地がある。けっきょく、言語以外の方法はないのだとしたら、もっと道具としての機能を追及するべきではないか。文化としての言語には統制などナンセンスきわまりないが、文明運転の道具としての言語には、統制は必要ではないか。それは、文化の言語とはかなりことなったものになるだろう。ならばいっそ、国際共通語にしてはどうか。国際会議での通訳は不要になる。人工の国際共通語であるエスペラントは、それにもっともちかいところにあるとおもわれる。

おわりに

情報に関する筆者の基本的なかんがえかたをのべた。情報伝達は、文明の運転のためのもっとも基本的な要素技術であり、計算機技術や通信技術よりも基本的な情報技術として、さらに整備され、管理される必要があるとおもう。この観点からみた各論として、情報のバリア・フリーやポータビリティーについてものべたかったが、稿をあらためる。

参考文献

  1. −キッズページ 情報化− , http://www.meti.go.jp/intro/kids/it/it0101.html, cited 2003-08-24
  2. 梅棹忠夫、日本語と日本文明、くもん出版、ISBN4-87576-411-1、1988
  3. Microsoft エンカルタ総合大百科2003 [disk, originally CD-ROM & online], Updated 2003-06-27, Microsoft Corporation, 2002, 2003

変更記録

第1.1版 (2001年1月1日発行)
新規登録。
第2版 (2003年7月22日発行)
いったん内容をすべて削除。
第3.1版 (2004年1月5日発行)
某所に提出して選外となった論文を、「情報基礎論」と題目をかえ、多少修正して掲載。
第3.2版 (2006年10月28日発行
URL変更。みだしのタグつけ変更。文言多少変更。
)

版:
第3.2版
発行日:
2006年10月28日
最終更新日:
2006年10月28日
初版発行日:
2001年1月1日
著者名:
海津知緒
発行者名:
海津知緒 (大阪府)

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