情報のバリア・フリー

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情報のバリア・フリーとは

情報の伝達を疎外するものを、情報伝達に対するバリアとよぶ。情報のバリア・フリーとは、情報の伝達を阻害するものがないことをいう。では、どんな情報がだれにつたえられる必要があるのか。

社会は個体の集合である。文明の運転のためには種の個体間の共同作業が必要で、個体間の情報伝達は、文明の運転のために必要な、もっとも基本的な要素技術である。

その社会の法令やさまざまな規則、自治体の広報や駅の掲示板、町内会の回覧板にいたるまで、その社会の文明の運転のために必要な情報は、その社会を構成するメンバー全員につたえられなければならない。

たとえば、視力に障害があるひとを社会の一員とみなすなら、必要な情報を伝達するキャリアとして、ヒカリだけをつかうということがあってはならない。オトなどの、ヒカリ以外のキャリアによっても同等の情報が伝達されなければならない。日本語を理解しないひとを社会の一員としてみなすなら、必要な情報を伝達するコードとして、日本語だけをつかうということがあってはならない。そのひとが理解する言語でも同等の情報がつたえられなければならない。

このように、情報のバリア・フリーが正当化されるのは、ある社会の文明の運転のために必要な情報が、その社会を構成する固体にもれなくつたわる必要があるという点においてである。また、そのためのシステムとしては、運転コストがすくないほど、よいシステム、あるいはただしいシステムなのである。なぜなら、それだけ文化的活動のための時間的および経済的余裕がうまれるからである。

情報の伝達を阻害する要因は、キャリア、コード、メディアのそれぞれにおいて存在する。

コードのバリア

文明の運転のための要素技術としての情報伝達では、コードとしては、おもに言語がもちいられている。キャリアとしてはオトかヒカリがおもなもので、それらのキャリアに言語というコードをのせるために、おもに音素とモジ素というコードがつかわれている。

念のため指摘しておくが、言語とモジ素と音素を混同すべきでない。氏名のローマ字表記は英語表記ではない。「ジス イズ ア ペン。」はカタカナ表記の英語であり、”Ohayo^ gozai masu.” はローマ字表記の日本語である。<ジョウホウ>は<情報>のフリガナであり、発音ではない。

前述のように、伝達されるのは情報であって概念ではない。しかし、われわれがやりたがっていることは、じつは概念伝達ではないか。情報のおくりては、自分のアタマのなかの概念がうけてのアタマのなかにもそっくりそのまま再現されることを期待してはいないか。そして、おおくのひとはそれが実現できているとおもいこんではいないか。

その実現のためには、うけてがおくりてとおなじコード・ブックをもっている必要があるが、言語をもちいて、ある個体のアタマのなかにある概念をほかの個体につたえたとき、あいてのアタマのなかに生じた概念がおくりてのものとおなじであることを完全に確認あるいは保証することは、厳密には不可能である。すくなくとも、現在の日本では不可能である。

もちろん、ある程度推測はできる。日本人どうしが日本語で会話できているということからは、おたがいが日本語という共通のコード・ブックをもっていると推測される。しかし、各個体のコード・ブックがまったく同一であるとはいえない。語彙(い)力に差がある。おなじ語彙でもその意味の解釈や用法はことなることがある。日本語というコード・ブックは、情報伝達の道具としてそこまで厳密に規格化・標準化されていない。ただしい日本語とはどのような言語か、きめられてはいない。管理する組織もない。辞書は、現状を観察し整理して、編著者の主観をとおして記述しているだけである。何種類もの辞書があり、それぞれかいてあることがちがう。

言語をつかって概念を確実に伝達したいなら、その言語の仕様を規格化・標準化し、個体間で共有する必要がある。より専門的で複雑な概念を、より一般的で基本的な概念で階層的に記述して、よめばわかる文章にする必要がある。

このような言語を、公用語としてさだめるべきである。日本では公用語がさだめられていない。日本語が暗黙の公用語だとしても、日本語という言語がどういう言語なのか、その仕様がさだまっていないのである。

誤解していただきたくないのは、この文脈での言語とは、文明の運転のための要素技術としての言語であって、文化的活動のための、あるいはその対象となる言語ではない。小説などの文芸作品でもちいる言語や、日常会話や愛をかたる言語を対象としているのではないということである。

いわゆる中国語やイタリア語は、国内の言語の方言によるバリアを解決するための公用語としてつくられた人工語である(たとえば[2]の「中国語」の項と「イタリア語」の項)。

ことなる言語を公用語とする民族どうしが、人類という同一の種として共同作業をおこなう必要があるなら、国際公用語をつくるべきである。逆に国際公用語さえあれば、各国別、各民族別の公用語は不要である。通訳や翻訳のてまもはぶける。エスペラントのような中立な人工語にすれば、国際会議でもだれもが対等に言語をあやつり議論をすることができるようになる。

しかし、言語の仕様を規格化するといっても、その規格を記述するのも言語である。数学でいう公理に相当する概念は記述されずにのこる(たとえば[2]の「公理」の項)。系を有限にたもとうとすれば、真であることが証明できない命題が存在する。それを証明するには、べつの公理を導入しなければならない(たとえば[2]の「ゲーデルの不完全性定理」の項)。言語の、言語による記述には、限界がある。

この問題の解決方法について、筆者はまだ案をもたないが、国際公用語の仕様を多言語によって記述し、それらから帰納的に解釈することがひとつの方法ではないかとかんがえている。そのためにも、公用語は、国家・民族をこえた人類共通のものである必要があり、それらの記述言語として現存の各種言語の存続も必要とかんがえている。

キャリアのバリア

視覚障害がありヒカリを知覚できないひとは、モジ素でかかれた文章をよむことはできない。聴覚障害がありオトを知覚できないひとは、音声ではなされた文章をききとることはできない。

音楽をヒカリでつたえたり、絵画をオトでつたえたりすることは困難である。しかし、前述のとおり言語は特定のキャリアに直接依存していないコードであり、言語で表現できる情報は、オトでもヒカリでも伝達可能にできるはずである。つまり、オトとヒカリというふたつのキャリアのあいだでポータビリティー(可搬性)、あるいはインターオペラビリティー(相互運用性)をもたせることが可能であるはずである。

聴覚障害者に対して、授業の講義内容や講演の内容をノートにかきとるサービス(ノートテイク)がある。視覚障害者に対しては、文章のよみあげサービスや、コンピューター・プログラムによって合成音声でよみあげるソフトウェアがある。このように感覚機能に障害があるひとにも、必要な情報をうけとる権利を保障することが、情報保障とよばれている(たとえば[3])。

しかし、現状の日本語においては、オトとヒカリのあいだでのポータビリティーやインターオペラビリティーは実現していない。

日本語での漢字のよみかたには音と訓があり、それぞれのよみかたでの漢字の使用を字音・字訓という。字訓ではおくりがなをともなう。漢字のひとつのモジ素に対して複数のよみかたがあり、ひとつの語、あるいは音素列に対して複数のモジ素列による表記がおこなわれている。いわゆる同音異字や同訓異字、おくりがなのつけかたのちがいなどである。

たとえば、<今日>は/キョー/とも/コンニチ/ともよまれる。/マチズクリ/という音素列のかきとりでは<まちづくり><まち作り><町造り><街創り>などがかんがえられ、一意にはさだまらない。「文脈から類推できる」とおもわれるかもしれないが、それは、「文脈から類推しなければいけない」ということであり、余分なコストがかかる。類推はいくらでもできるが断定はできない。よめない、あるいはかけないのとおなじである。

コンピューターのよみあげソフトのばあい、たとえば<2/27> を分数としてよむかひづけとしてよむかを判断するのは困難であるし、括弧がきを多用した文章(たとえばこのような)はそのままよみあげても意味がとりにくい。< 2月27日>とかいたり、たとえばこの文章のように、括弧をもちいずにかくべきである。

現状の日本語の表記は、キャリアに関してバリア・フリーであるとはいえない。オトとヒカリというキャリアのあいだでのポータビリティーがそこなわれている。

固有名詞に関してはさらに悲惨な状況である。日本において、個人の氏名は戸籍に登録されており、これがよりどころであるが、それはモジであり、その発音はしるされていない。つまり、日本人の氏名とはヒカリというキャリアのうえでしか存在しえない情報である。氏名のよみもフリガナも氏名ではない。文章における漢字のよみについては常用漢字表というひとつのめやすがあるが、固有名詞はこの対象外であるから、固有名詞における漢字のよみに制限はない。人名・地名などの固有名詞は、よみかたを特定できないという意味において、よめないのである。

たとえば無線電話でモジ素を音素でつたえる技術については、無線局運用規則別表第五号に、カナモジについては和文通話表、英字については英文通話表がある。しかし、日本語、および日本の固有名詞における漢字を、音素で確実につたえる現実的な方法はない。

もし、聴覚障害者や視覚障害者に対して、健常者と同等の情報を伝達する必要があるならば、そして言語として日本語をつかうならば、日本語の表記をバリア・フリーにする必要がある。ヒカリとオトのキャリアのあいだでポータビリティーのあるものにする必要がある。音素とモジ素、あるいは音素列とモジ素列の対応を一対一にする必要がある。その際、モジセットとして漢字をつかう必然性はまったくない。漢字は、もともと日本語とは音韻構成も文法もことなる中華民族の言語表記にもちいられていたモジであり、日本語との合理的関係はまったくない。むしろ、日本語の表記に漢字を導入したために、発音はおなじであるのにモジ素のちがいによって意味がことなるという、ヒカリのキャリアに依存したことばがたくさんできてしまい、日本語のキャリア間ポータビリティーをさまたげてしまった。したがって、バリア・フリーな言語表記をめざすなら、カナモジかローマ字をつかうべきである。こんにちの言語情報処理のコンピューターへの依存度と生産性を考慮すれば、ローマ字を採用するのが必然である。

日本語は、漢字の導入によって変化したように、ローマ字化によってもまた変化するであろう。バリア・フリーな日本語は、いまの日本語とはかなりちがったものになるであろう。文化的活動としての日本語と、文明的公用語としての日本語は、かなりことなったものになり、その学習にはそれなりの負担がともなうであろう。

したがって、日本の文明の運転のための公用語をバリア・フリーなものにするためには、なにも日本語の表記をローマ字化する必要はないのである。ローマ字表記の、国際公用語をつかえばよい。公用語の学習にある程度の負担がかかるなら、国内公用語と国際公用語をべつべつにかまえる必要はない。現状の日本語は現状のまま、文化的活動のためにつかえばよいのである。

メディアのバリア

メディアのバリア・フリーについての議論は、いわゆるITインフラとよばれる装置群や情報通信に関するさまざまな規格、工業製品や建築物、法令や条例などの制度群など、ひじょうに多岐にわたる。ここでは、みぢかな例をあげるにとどめる。

ある情報が、あるワープロソフトで作成されるなら、それをうけとるひとはその文書を閲覧するソフトウェアを利用できる必要がある。逆に、あいてがその文書を閲覧できるソフトウェアを利用できることが保証されないかぎり、そのような文書を作成してはならない。時間軸上でも同様である。きょう作成した文書が十年後でも閲覧できるためには、そのためのソフトウェアが十年後でも利用できることが必要であり、それが保証されないかぎり、そのようなソフトウェアで文書を作成してはならない。

ソフトウェア環境における文書のポータビリティーについては、SGMLやTeXのようなマークアップ言語によるものがすぐれている。

日本語の機械処理環境は、欧米諸国の言語とくらべて余分なコストがかかる。その原因は言語そのものにあるのではなく、漢字をつかった表記にある。漢字のモジ要素のおおさと画数のおおさ、モジ素とそのよみに複数の対応があることがおもな原因である。ローマ字表記になれば、その機械処理のコストは欧米諸国の言語と同等になる。

まとめ

人類の文化的活動を質・量ともにゆたかにするために、時間的・経済的にできるだけすくないコストで生命を維持するシステムが、ただしい文明の運転システムである。情報伝達は、文明の運転のためのもっとも基本的な要素技術であり、計算機技術や通信技術よりも基本的な情報技術として、整備され、管理される必要がある。言語・モジ素・音素といったコードの規格は、通信プロトコルやプログラミング言語の規格の整備が必要であるのとおなじ理由で、それらよりもさきに整備が必要なのである。

文明の運転のために共同作業をおこなう社会において、障害者もふくめてだれでもその社会に参加する権利があるならば、あるいは参加する義務があるならば、その社会における情報伝達システムは、建築物とおなじようにバリア・フリーでなければならない。

情報処理システムは文明の運転システムのなかでも情報伝達に直接かかわる重要なシステムである。その末端では人間とのあいだで情報伝達がおこなわれる。そのインターフェースとなるのが言語であり、音素やモジ素なのである。それらの規格を整備することなしにどのような高度なシステムを構築しようとも、それはまさに砂上の楼閣である。

参考文献

[1] 梅棹忠夫, 日本語と日本文明, くもん出版, ISBN4-87576-411-1, 1988
[2] Microsoft エンカルタ総合大百科2006 [disk, originally DVD & online], Updated 2006-02-15, Microsoft Corporation, 2005
[3] しみずよりお, 聴覚障害者が見たアメリカ社会―障害者法と情報保障, 株式会社 現代書館, ISBN4-7648-3438-X, 2004


変更記録

第1.1版 (2006年10月28日発行)
新規登録。

版:
第1.1版
発行日:
2006年10月28日
最終更新日:
2006年10月28日
初版発行日:
2006年10月28日
著者名:
海津知緒
発行者名:
海津知緒 (大阪府)

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