The biography of Gou Yuehua

01-06(Last)/14

6.懐かしい小学校時代

 私は、小学校時代を厦門市実験小学校という学校で過ごした。福建省の重点小学校でもあったこの学校には数々の美しい思い出が残っている。

 緑で織ったような校庭は南方地域の特徴が出ている。交差に立っている建設群が美しい海岸都市景色の背景となってきた。

 練習のない時は、いつも、日陰の所で虫を掴み、木綿の木の下で花の落ちてくるのを待ち、日の当たらない壁の角で、かたつむりを掘り出しけんかをさせるなど、いつも手、顔、服などが泥だらけになるが、大自然の美しい景色が、私の幼い心に深くのこった。

 小学校の校舎は色鮮やかな赤煉瓦づくりの建物で、机は椅子と一緒になっているソビエト式のものだった。又ここで勉強する生徒は各科目とも四点以上(五点満点)でなければならないという大変厳しい学校だった。

 私はいたずらっ子ですが、勉学の成績はいつも良かったので担任の呉錦秀先生に可愛がられていました。私は字が乱暴だったので、「そんな踊るような草書はやめなさい」と言われたがそれに納得出来ない私は「先生の字はきれいでしょう」と聞いた。
「それはきれいだよ。どうして」
「それなら、なぜ先生が書くような草書をまねてはいけないの」
   さすがの先生も返すことばがなかった。

 しかし先生は、私の乱暴な字を認めてくれるどころか、その都度罰を食わされるようになった。又ある日、何かで怒った呉先生は、学校が終ったあと全員を教室に残して、一言づつ意見や提案を言ってから帰りなさいと言った。

 私の番が来ると「君、何か文句はないか」と言われた。
「ありますとも」
「それじゃー言いなさい」
「これから放課後、もうこんなに遅くまで学校に残さないでください」と言った。

 今でもこのことを思い出すたびに気がとがめてしかたがないが、でもその時、呉先生は怒らなかった。むしろ市の少年卓球大会に初めて出場し、乙組(小学校)で優勝して学校に帰ってきた私を抱きあげて喜んでくれたくらいだった。

 授業が終ると、矢も楯もたまらず教室を出て、グランドを走り抜け坂道を登っていった。この坂道の上に学校のホールがあり、その二階に新しい卓球台を置いたと聞いたからだった。

 人だかりをかきわけて卓球台の前に出ると、私は頭一つしか出なかった。

 卓球台は家のテーブルより倍以上も大きいではないかと驚いた。前に出て打ってみたが、ボールがめちゃくちゃに逃げて、まるで私をバカにしているかのようだった。

 でも、そんなことよりもボールにさわれた喜びで満ち足りた気分になった。

 はじめは、低学年の私たちは台を独占することが出来ないし、たまに高学年の人と勝ち抜き戦をやる機会があっても、順番が廻って来るのにかなり時間がかかり、いざ本番になると、最初のいわゆる"テストボール"でミスとしてしまえばそれでおしまいだった。

 それでもあきらめきれない私たちは、授業と授業の間でも時間さえあればコートのまわりをうろうろして出番の来るのをうかがっていた。

 少しでも強くなって、又兄建華と勝負しようと張りきっていたのだった。

郭躍華自伝01***七歳でラケットを握る***

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