〜妖怪の山・中腹付近〜

   3

 自然と一体になることはさほど難しいことではない。人間であることを捨て、獣になればいい。彼女、咲夜は今獣となって林の中に身を潜めている。

(まさかあっちから出向いてくるとは……)
 僥倖のはずだった。探す手間が省け、すぐに目的を達成するつもりだった。

「なんなんだ、あの強さは……」
 悔しさでかみしめた唇は苦い土の味がする。

 相手は吸血鬼。悪魔の中でも最上位種にして、宵闇の支配者。一筋縄でいかないことも、苦戦することも承知だった。しかしその強さは彼女の予想を遙かに上回っていた。

 魔女との戦いで片腕を負傷しているとはいえ、実力は明らかに足りていない。五体満足であっても彼我の戦力差は埋めようがない。

 弾幕の速度が違う、密度が違う、質が違う、あらゆる要素で負けていた。
 吸血鬼の弱点も把握しており、そのための装備も十分ではないが揃えている。それでも勝てる気がしなかった。

 ただ一つ言えることがある。
(怒っている。それも尋常じゃないくらいに)

 表情からはあまり見て取れなかったが、襲いかかる攻撃全てが激しい憤怒で塗り固められていた。
 恨まれるようなことをした記憶はない。そもそもあの館で目が覚める以前の記憶は曖昧だ。

(随分長く意識がなくなっていたようだけど、その間にあの吸血鬼に私が何かした?)
 まさか、と否定する。何かしていれば、お互いのどちらかが倒れている。彼女と吸血鬼は仇敵同士なのだ。交わることなど決してあり得ない。

「それにしても……」
 静かだった。虫の音も聞こえてこない。自分の小さな吐息がうるさく聞こえるくらいだ。

 先ほど激しい弾幕を繰り広げ、赤光と銀閃が夜空を彩っていたのが嘘のようだ。
(諦めた? いや、それはない。探している? それにしては気配を感じない)

「っ!」
 攻撃はいきなり仕掛けられた。気づいたときには赤い光に包まれた槍が彼女に向かって放たれていた。

 林から飛び出してその攻撃をしのごうとする。しかし避けるのが一歩遅い。
 地面をうがった衝撃で飛んできた土塊や石が彼女を殴打した。

「ぁ……がっ!」
 頭や傷を負っている腕にくる激しい痛みに、表情が苦悶に満ちたものになる。
地面を何度か転がって立ち上がった時、自分を照らす月明かりに影が差した。

「無様な姿ね、咲夜」
 ゆっくりと空から高度を落とす翼をつけた小さな影。月を背景に赤い瞳を光らせる姿はまさしく悪魔そのもの。

血が滴っていてもおかしくはない爪を、舌先を出してなめ、こちらを挑発している。
「その名前で呼ぶな、悪魔め」

 負傷している腕を押さえながら、彼女は吐き捨てた。口だけは回るが、それ以外はどうしようもないくらい弱っている。

特に押さえている腕が重傷だ。しびれに似た症状を覚え、徐々に感覚が無くなってきている。
「威勢の良いこと。今、頭を下げて私に泣いて謝るなら許してあげても
いいわよ」
 あごに手をあて、血も凍るような目で吸血鬼は見下ろしてくる。
 これは条件でもなく、脅迫でもない。下等な生き物への命令だ。捕食者から獲物に与えられる選択のない運命だ。

 背筋に冷たい汗が伝う。ここで許しを請えば命は助かるかもしれない。泣いて謝って、靴に口づけをすれば慈悲を与えてくれるかもしれない。

 だが、そんなことを彼女の矜恃が許すはずもない。

「貴様に許しを請うくらいなら潔く死を選ぶ。私はお前たちに屈したりはしない」
 そう言うやいなや、取り出した無数の銀のナイフを吸血鬼に向かって放る。

「ふんっ」
 軽く気合いをいれたのだろう。それだけで彼女のナイフは吸血鬼に届く前に全てはじき返された。

「じゃあ、死になさい。あの世でパチェに謝るのね」
 ゆっくりと構えを取る。右足を後ろに引き、それに合わせて上半身を横にねじる。右腕は肩の高さにあげたまま後ろに引く。

「神槍『スピア・ザ・グングニル』」

 そのスペルと同時に右手の平に形作られる一本の赤い槍。

(さっきの攻撃と同じか)
 隻眼の主神の持つ、不壊にして必中の槍を冠するスペル。その名に相応しく、神の一撃とも言える破壊力と速度を備えている。それを彼女は先ほど身を以て知った。

(何度もくらってたまるか)
 先ほどは不意をつかれたが、今度は避ける打算が彼女にはある。

「はぁぁぁ!」
 吸血鬼の裂帛の気合いと共に槍が放たれる。

(時よ!)
 彼女の能力が発動した途端、彼女以外の全ての時間は凍り付いた。吸血鬼はおろか、草や木、雲に風に至るまで全てが動きを止める。

 その中で一切動くものは彼女以外はなく、例外はない。
 だが一回で止められる時間はわずかしかない。彼女の行動も必然的に限られる。

 すぐさま自分のいる場所から後ろに飛び退き、吸血鬼の放った槍の射程から逃れる。同時に銀のナイフを吸血鬼の周辺へ展開し、迎撃の態勢も整えた。

 肺を圧迫するような息苦しさが彼女を襲う。
 これ以上時間を止める余裕はなかった。

「はっ、はっ……」
 彼女が呼吸を始めると、止まっていた時間も動き出す。

 刹那。吸血鬼の放っていた赤い槍は再度地面をえぐり、土砂を巻き上げる。十分な距離を稼げたわけではなかったが、その攻撃によるダメージはない。

 それよりも時を止めたことで、全身には倦怠感が重くのしかかっている。
「時間を止めて避けた上に、私に攻撃とは……まだまだ元気なようね」

 そんな彼女をよそに、吸血鬼は悠然と空に佇んでいた。時を止めた時に放っておいた銀のナイフは全て地面に落ちている。

「無傷……」
 彼女は驚愕に目を見開いた。時間を止めた上での攻撃を、どうやって防げたのかわからなかった。あるいは、防ぐ必要すらなかったのか。

「そろそろあがくのも飽きたでしょう? いい加減楽にしてあげるわ」
 みたび構えをとる吸血鬼。あっという間に赤い槍がその手に生まれる。

「くっ」
 今の彼女にできることは、とにかく距離を稼いで少しでも回避しやすくすることしかない。背を向けて一足飛びで大きく間合いを開ける。

 また時間を止めるには余裕がなかった。これから来る攻撃は避けられても、次を確実にくらってしまいそうだった。

「逃がさない……わっ!」
 間合いをとったのを逃げていると勘違いしたらしい。吸血鬼の行動は早かった。十分に形作られていない槍をそのまま投擲する。

(早いっ!)
 顔だけ後ろを振り返った時、いびつな形をした赤い槍は彼女に迫っていた。
 すんでの所で飛び上がり直撃を避けたが、巻き上がる土煙に視界を閉ざされ、大気を揺さぶるような衝撃が空中での彼女のバランスを崩す。

 気づいたときには体は地面にしたたかぶつかり、一時呼吸が止まる。
「……かっ、はっはっ……」

 すぐに息を吹き返すが、息は乱れたままだ。立ち上がってふんばろうとしても足に力が入らない。膝は小刻みに震え、上体も垂れたままで上がりきらない。負傷している腕もだらんと下がったままで、言うことをきかない。

 彼女には抗う術がなかった。このままでは確実に死が待っている。
(やはりここは……)
 あまり考えたくない選択肢であった。現状を考えると最善の手はそれしかない。

 彼女にとってそれは、潔く死ぬよりもずっと耐え難い屈辱に思える。いっそのことここで名誉の死を選ぼうかと。

 しかしそれでは何の意味もない。勝手な自己満足だ。吸血鬼にも易々と満足を与えてしまう。
どんな無様でも生き残ることが、次につながる希望になると自分に言い聞かせる。

「次で終わりかしら」
 もう顔を上げる力の余裕もない。吸血鬼の表情は見れないが、それでもどんな表情をしているかの想像はつく。

「……最後にもう一度情けをかけてあげるわ。紅魔館に、戻る気はない?」
 今更な問いだった。

 彼女に中で答えは最初から変わっていなければ、揺らいですらいない。
「……戯れ言を、ぬかすな、悪魔」

 息も絶え絶えに彼女は言葉をしぼりだす。一言一言発する体力すら惜しいが、これが最後だ。
「そう、それがあなたの答えなのね」

 そう言った後すぐに衣擦れの音が耳に入る。また構えをとってあの赤い槍を放るのだろう。
(スペルカードルール内とはいえ、ワンパターンだ)

 貯めの時間も、投げる時のタイミングもだいぶ見えてきた。呼吸さえ合わせられれば、うまくいく自信があった。

 彼女は目を閉じ、耳を澄ませる。
吸血鬼の鼓動のみに意識を集中させ、呼吸も相手に合わせて同期をはかる。

「さよなら、咲夜」
 それは吸血鬼には不釣り合いで似合わない、悲哀に満ちた言葉だった。
 だが彼女に言葉に込められた感情をくみ取る時間も気力もない。放たれた赤い槍にのみ神経をとがらせている。

(時よっ!)
 吸血鬼の放った槍が頭上にまで迫った瞬間、彼女は時を止めた。全てが静止する空間の中で、彼女の行動は早かった。

 身につけていた衣服を破るように脱ぎ捨て、槍にかぶせる。
(これでやられたように見せかけられたら幸運ね)

 だが一瞬でも気をそらすことができればいい。与えられた条件でどこまで時間を稼げるかが重要なのだ。

 それから彼女はその場を離れるために全力で走り出した。
(時間はまだ止めていられる……もう少し……もう少しだけ、もってくれ)

 後はどれだけ距離を稼げるか、あわよくばあの場所に逃げ切れるか。いかに五百年を生きた吸血鬼でも、あの場所までは追って来れない。

 木の根に足をとられないよう気を配るが、低木の枝に肌を裂かれるのは気にしない。
 服を脱ぎ捨てたせいで半裸となってしまっているが、それも彼女は気にすることはしない。

 時間をロスする可能性のあるものだけに注意を払う。後はどうにでもなると彼女は考えていた。
(時を止めるのはこれ以上無理か)

 限界だった。それでも先ほどの何倍も時間を止めていられた。余力が残っていたのを彼女自身驚きながら、動き出した時の中でも林を駆ける。

 風が通りすぎるような速度で山の中を突き進むが、目的地にはまだ見えてこない。
背後から受け取れる圧倒的な存在感が、刺すようなプレッシャーを与えてくるが、それを気にして振り向く余裕はない。

今はただ逃げ切ることだけを彼女は考える。そして鼻腔を通るにおいに、意識が一気にそちらへ傾く。
(このままならいけるっ……)

 吸血鬼のプレッシャーはまだ遠い。追いつくのにも時間はかかるだろう。それを考慮すれば間違いなく逃げ切れる確信があった。

今まで全身を覆っていた倦怠感が嘘のようになくなり、体が軽くなったような錯覚すら覚える。
 そして目的地を知らせる清涼感あふれる空気を擦れた肌が感じ取り、一種の幸福感が脳を支配しようとしていた時だった。

「スピア・ザ――」
 はっきりと、彼女の耳には吸血鬼の声が聞こえていた。

「そんなっ!」
 追いつかれるのは早すぎる。思わず振り返った先に、吸血鬼の姿はない。

(音だけを飛ばした? なんの意味が?)
 月明かりを受けている彼女に影が差す。見上げた遙か遠い空には、小さく赤い姿があった。弾幕もろくに狙いをつけられないような距離だ。

 しかし吸血鬼は手に持った赤い槍を、なんの躊躇もなく彼女に向けて投げ放つ。
「――グングニル!」
 軌道は単純だ。これだけの距離が離れていれば避けるのはたやすい。

(苦し紛れの一撃だな)
 鼻でせせら笑ってやろうと思ったところで、彼女はふと冷静になった。

ここまで自分を追いつけた吸血鬼がそんな手を取るだろうか、と。何らかの策か、意図があっての攻撃のはず。わざわざ声をこちらに飛ばしてきたのも、気を引かせるための罠かもしれない。

(私ができることは少ない。でも)

 ナイフを扱えるのは片腕しかないが、それでもやれることをやるつもりだった。
 最後の最後でドジを踏んでしまったら全てが台無しだ。

(頭は冷静に、行動は大胆に。結果は瀟洒で完璧に)

「……よし」
 打つ手は決まった。足は止めず準備に入る。

 赤い槍ももういくばくもしないうちに彼女に向けてなんらかのアクションを取るだろう。
 必ず何かしらの手段を使ってあてようとしてくるはずだ。あたらなくても近くの地面をえぐれば、足止めはできる。

 動く片腕で空をなぞり、ありったけのナイフを自分の周りに出現させる。その数二十余り。
 その少なさに彼女は愕然とした気持ちになった。

(もうこれだけしかないのか)

 吸血鬼との戦闘で持ち合わせのナイフは使い切ってしまったことになる。後で回収しておかないと、次は武器なしで戦う羽目になってしまう。

 今までにそんなことあっただろうかと思い返そうとするが、それどころではないと気持ちを切り替える。
 出現したナイフを自分の背後に集め、銀の壁を作る。

(あの槍を打ち落とすことも、避けることもない。利用してやればいい)

 もう赤い槍はすぐそこまで来ていた。やはり狙いは正確ではなく、彼女の目測では若干手前に落ちそうだった。彼女にとっては都合のいい位置だ。

 しかし彼女にとって計算外の出来事が一つ。
 赤い槍の後方よりすさまじい速度で吸血鬼が飛来していた。さすがに槍に追いつくほどではないが、それでも時間差はあまりないと言っていいだろう。

(槍は囮か)
 予想外ではあったが、驚きはなかった。

 吸血鬼の行動がどうであれ、彼女のとる行動は決まっていた。

 轟音と供に赤い槍が彼女の手前で地面を大きく抉り出す。今までよりも強烈に地面を揺さぶる。吹き上がる土煙も、土砂も比べ物にならない。

 銀の壁は彼女に迫るそれらを阻むが、赤い槍の衝撃で起きた風圧はすさまじかった。

「くっ!」
 崩れそうになる銀の壁を必死に維持させるが、その分の風圧をそのまま受けてしまう。銀の壁はあっという間に彼女と触れ合いそうな距離まで押される。

(今だ!)
 彼女は銀の壁に立つように飛ぶと、そのまま壁に垂直に足をつけた。

 そして風圧を受け加速している銀の壁を思い切り蹴る。衝撃と壁に集めた力を利用して繰り出した跳躍は、彼女に吸血鬼並みの速度を与えた。

 その勢いで大空まで舞い上がり、激しく冷たい夜風を全身に受ける。
 背後を確認すると、吸血鬼が追うのも忘れて呆然とこちらを見ているのがわかった。

(このまま一気に……)
 眼下に広がる妖怪の山の景色から着地点の見当をつけると、そこは彼女の目的の場所である川に飛び込めそうだった。

 吸血鬼は流れる水の上を渡れない。当然、その流れる水の中も然り。水の中を流れていけば、吸血鬼も深追いもできない、そういう算段だった。

 減速し放物線を描いて落ちて行く中で、川へ照準を合わせ姿勢を制御しようとする。

「あっ……」
 平衡感覚がおかしくなっており、体がぐらついてバランスが取れない。思うように体が動かず、視界も霞む。

 急激に全身の力が抜けていくのに絶望を感じながらも、彼女は気力だけで体勢を変えようと体を動かす。それもさしたる効果は上がらない。

(このままじゃ、地面に……)
 必要以上に風を受け止め、彼女の体は減速していた。

 恥を捨て生き延びる一心でここまできたのに、最後でこの様になったことに彼女は歯がみする。
 これでは恥をさらしたまま無様に死んだことになってしまう。

 悔しかった。こうなることなら、いさぎよい死を選べば良かった。
 そう思うと今更ながらに涙が溢れてくる。霞んだ視界が更に目に映る輪郭を失わせていく。
 落下していく感覚は、どうにもならない無力感と相まって奈落の底へ向かうような恐怖をもたらす。

 全てを諦めて、流れに身を任せた時だった。
 激しい突風が吹き荒れ、彼女の体を加速させた。

「あっ……」
 少し浮き上がった彼女の体は、直前に迫った林の避け、その先にある川へ導かれるように吸い込まれていく。

水しぶきはほとんど上がらず、小石を投じた時のような小さな音をたて、その体は水底へと沈んでいった。

(いったい、だれ……が……)
 それは誰が起こしたものなのか、はっきりしなかった。吸血鬼がきまぐれで起こしたものなのか、はたまた第三者によるものなのか。

 薄れいく意識の中では答えは出ず、彼女はただ水流に身を任せた。



 いきなり自分の縄張り近くで、激しい弾幕ごっこが始まった時には、割り込んでケンカを売ってやろうかと河城にとりは思っていた。

 だが間近でその弾幕ごっこを見て、乱入する気が失せた。同時に血の気も引いた。

 あれは弾幕ごっこではない。少なくともにとりにとっては、ごっことは言えない激しいものだった。それこそ命を賭して挑むほどのものだった。

 なにより意外だったのはその組み合わせだ。
紅魔館の主とそのメイド。その主従関係の固さは妖怪の山でも有名だが、その結束をぶち壊すかのような激しい争いだった。

 そしてその弾幕ごっこは、メイドの逃亡という形で決着がついた。

(あのまま戦ってたら、間違いなく死んでたな、こいつ。いや、このままでも死ぬか)

 肩に背負った咲夜を一瞥し、にとりは川から顔だけを出した状態で空を見上げる。
「文! そっちはどうだ!」
「むー、追ってくる影はなさそうですね」

 杉の木のてっぺんにつま先立ちをして周囲を伺っている烏天狗は、緊張感のない声で答えた。
 文と呼ばれた烏天狗の手にはカメラがあり、時折ファインダーをのぞく素振りを見せている。こんな状況でも新聞のネタを探そうとする姿には、にとりも敬服してしまう。

「しっかし、なんでこいつら弾幕ごっこなんてしてたんだ?」
「私の見立てではですね。このメイドがあの吸血鬼におやつを与えなかったと見ています」
 そんなわけあるか、と鼻で笑いながらにとりは川から上がった。

 近くの草むらに咲夜をおろすと傷の具合を確かめる。全身傷だらけで無事なところを探すのが難しいくらいに手ひどくやられている。特に左腕はひどい内出血で真っ青だ。

「あちゃー、ぼろぼろにやられてますねー」
 降りてきた文が痛そうな表情で素直な感想を漏らす。

「とりあえず体を拭くぞ。放っておいたら体温を奪われるだけだ」
 背負っているリュックをおろし、中から毛布を取り出した。

 先ほどまで川の中にいたにとりだが、彼女の着ているもの、所持しているものはほとんどが完全防水だ。里の人間には理解できない技術の応用で成されており、その技術は幻想郷でも高い水準にある。

「にとりは律儀ですね。相手は人間なのに」
「人間だからだよ」
 振り返らずににとりは答えた。

「人間だから、ですか?」
 意味がわからず文は不思議そうに首をかしげる。

「天狗には分からないだろうな」
「心外ですね。これでもブンヤの端くれ、そのあたり取材させてもらいますよ」
「へっ、ブンヤだと余計に理解できないだろうな」

 そんなやりとりをしながらも、濡れた咲夜を丹念に拭いていく。
「意味深な発言ですね。私への挑戦と受け取って良いですか?」

「好きにしな。それより傷薬とかないか? あいにく私には持ち合わせが無い」
 文を適当にあしらいながら、にとりは彼女に向かって手を突き出す。体はほぼ拭き終わり、これ以上の体温の低下はなさそうだ。

「実は永遠亭の医者からもらった何にでも良く効くという塗り薬があるんです。なんでもこれは月の技術で開発された――」

「ごたくはいいから貸しなって」
 文が自慢げに取り出した小瓶をひったくるように奪うと、その薬を惜しみなく咲夜に塗っていく。

解説を途中で中断させられ、文は不満そうにするので、にとりはご高説はあとでゆっくり聞いてやるとフォローをいれる。

 それで多少気がすんだのか、文はおとなくなり、治療の様子を無言で観察を始めた。もしかすると新聞のネタを見つけたのかもしれない。

 特に酷い左腕を重点的に塗ったせいで、文の薬はあっという間になくなってしまった。
「さすがにこれだけじゃ足りないか」

 空っぽになった小瓶を文に放り返し、文の顔をじっと見る。
「残念ですが私もこれ以上は薬と呼べるものは持っていませんよ」
「となると、後はうちに戻って看病か」

 妖怪の山に傷を見る妖怪はいるが、妖怪専門だ。妖怪と構造の違う人間を看られる者はいない。それに妖怪の医者は偏屈なのが多い。人間嫌いも多くいるので、正直期待はできない。

 応急処置は済んでいるし、安静にしてさえいればいずれは快方に向かうだろう。外傷は擦り傷が多いが、気を失っている一番の原因は疲労だ。あの弾幕ごっこの一部始終を見ていれば誰でもそういう結論に至る。

 ちらっと文をみやる。それだけでどういう意図か彼女は察したらしい。
「い、いやぁ、私はこれからまた取材がありますのでそろそろお暇したいなと……」

「なんの取材だ? 友人の願いを差し置くほど重要なものなのか?」
 にとりの家はここからそう遠く離れてはいない。咲夜を連れて行くのをためらう必要はないと言っていい。

「永遠亭に行こうかと……」
「薬をもらってきてくれるのか?」

 それならば歓迎したいところだ。なぜ歯切れ悪そうにしゃべるのか、にとりには理解できない。
「もらってこれるかどうかは微妙ですが、この辺りを見回している時にちょっと気になる妖怪を見かけまして」

「気になる妖怪? 永遠亭に行く妖怪はいくらでもいるし、そんなに珍しいやつなのか?」
「紅魔館の門番がえらく慌てた様子で向かっていたんですよ。目的地が永遠亭かどうかははっきりしませんが、あちらの方角にはあそこ以外行くようなところはありませんからね」

「紅魔館……確か、こいつも紅魔館のメイドだったな。吸血鬼も紅魔館の主」
 リュックから新しい毛布を出して、咲夜にかぶせていたところでにとりははっとなった。

「事件のにおいがぷんぷんします」
 嬉しそうな表情で文は両手でカメラをもって顔を近づけてくる。こうなったら何よりも取材が優先されてしまう。止めても無駄なのをにとりはよく知っている。

 大仰に肩をすくめ、好きにしなよとジェスチャーを取る。
「行ってこいよ。まだ間に合うんだろ? ついでに薬ももらってきてくれると助かるがな」

「理解が早くて助かります。では!」
 息つく暇もなく文はすぐに飛び立ち、瞬く間に夜空に消えていった。

「事件か……ただの喧嘩だと私は思うんだがね」

 もう見えなくなってしまった文の軌跡を眺めながら、そんな感想を漏らす。
 いつも彼女の書く新聞の内容を思い出しながら、なんでも事件にしたがる性格なんだよな、と一人納得する。

「ま、私には関係ないか」

 紅魔館の妖怪が何を企もうとしているか、にとりには全く分からない。変なことをすれば、あの巫女か魔法使いがなんとかするだろう。それにちょっと手を貸すぐらいで自分の役目は十分果たせる。

(まずはこのメイドの着る服を用意しないとな)
 毛布にくるんだ咲夜を易々と担ぎ、にとりは自分の家へと歩いていた。

                                                  第三章へ続く

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