第一部 総論 一 国民主権 【論点】主権の意味 国民主権という場合の主権とは、国政の最終決定権のことである。しかし、その最終決定権の内容をいかに解すべきか。 国民主権とは憲法制定時には制憲権、すなわち権力的契機からなるものとされる。しかし、制憲権は憲法制定後、憲法典の中に制度化される。 結果として、右契機は国家の権力行使を正当づける究極的な権威が国民に存するという正当性の契機、及び憲法改正権に転化されたとみうる。権力は代表者が行使するとされ、唯一の立法機関は国会とされている(前文1段、41条)などからもこの趣旨はうかがえる。 したがって、現行憲法における国民主権とは原則として正当性の契機を指し、権力的契機の現れとしての制度は例外として認められるに過ぎないと解する。すなわち、憲法の明文上の根拠もなく、直接民主制的制度を法律で制定することは許されない。国民の国家レベルでの政治的判断能力には疑義があるし、実質的討論の確保の実現の観点からも右結論は妥当である。 【論点】法治主義と法の支配 法の支配とは、すべての権力を正義の法によって拘束することで、国民の権利・義務を保障することを目的とする原理である。 それに対して、法治主義は行政権の行使を法律の範囲内に制約することによって、国民の権利・自由を守るための原理である。 しかし、議会への絶対的な信頼から法治主義では法の内容を問題としない。その結果、法治主義には法によりさえすれば国民の権利・自由を侵害できるというように形式化する危険がある。 そこで、法の支配は議会を含めた全ての国家権力を正義の法によって拘束することで、人権保障を徹底する点にその特徴があるといえる。 かかる法の支配の原則を日本国憲法もまた採用していると考えられる。 その現れとして、@法律によっても侵害できない人権(第3章、その他)、A憲法の最高法規性(第10章B 司法権の独立、違憲審査制度(76条、81条)C適正手続の保障(31条等)が挙げられる。 【論点】前文に裁判規範性は認められるか。 前文は憲法の一部であるので、改正には憲法改正の手続を経なければならない。また、憲法の目的・原理を述べたものとして、その法規範性も認められると解する。 それでは、前文に裁判規範性は認められるか。 思うに、前文の内容は抽象的であるから、具体的な裁判における判断基準とするには無理がある。 また、憲法第3章に詳細な人権のカタログがおかれているから、これをもって裁判規範とすればたりる。 したがって、前文の裁判規範性は否定すべきである。 第二部 基本的人権 【論点】制度的保障 制度的保障とは一定の制度に特別の保護を与え、立法によって制度の核心を侵害できないとする理論である。その趣旨は、制度の保障によって間接的に人権の保障を強化する点にある。 しかし、かかる制度の存在意義は、法治主義が妥当した時代に、法によっても制度の核心を侵害できないという形で人権を擁護する点にある。となると法の支配が妥当する現代においては、その存在意義は希薄である。 しかも、本理論は、制度の周辺部分に位置するとの理由で、逆に人権侵害の根拠に使用されるおそれがある。 したがって、制度的保障の理論の適用範囲は限定すべきである。具体的には、@制度の核心の内容が明確であり、A制度と人権との関係が密接であるとの要件を満たす場合に限ると解する。 ・法人の人権 【論点】法人の人権享有主体性 1、法人は人権享有主体といえるか。 法人は自然人ではないが、社会的実在であり、社会の重要な構成要素をなしている。ただし、選挙権のように性質上法人が享有し得ない人権も存在する。 したがって、性質上可能な限り法人の人権を認めるのが妥当である。 2、それでは法人に政治活動の自由は認められるか。 思うに、政治活動の自由は、表現の自由の自己統治の価値が端的に現れる重要な権利である。したがって、法人にも可及的に保障すべきである。 しかし、強大な経済力を持つ法人に全面的に右自由を認めるならば、自然人の参政権を不当に制約する結果になるおそれがある。 したがって、法人への政治活動の自由の保障の程度は、自然人に比較して制約されると考えるべきである。 (この点について、八幡製鉄政治献金事件において判例は、法人は自然人同様政治行為をなす自由を有するものとしているが、妥当ではない。) 【判例】税理士会政治献金事件 事案 税理士会が政治団体への寄付金を徴収する決議をし、従わない構成員には不利益を与えた。 かかる税理士会の決議は構成員の政治献金の自由を制約するものである。それでも税理士会の統制権の範囲内にあり、適法といえるか。 思うに税理士会にはその目的達成のため、構成員を統制する権利は認められる。しかし、一方で構成員の市民としての自由もまた保障されねばならない。 特に、税理士会は加入しなければ税理士業務を行うことができない。その意味で強制加入の団体であるから、その構成員の権利は通常の団体に比較して、より厚く保護しなければならない。 その上で、献金行為を含む政治活動は、選挙権と密接に関連をする行為である。選挙権は民主制を支える重要な権利であるから、その行使の自由は強く保障されなければならない。その文脈から、献金の宛先もまた各個人が決定すべき事項であるというべきである。 しかし、本問決議は献金目的の金銭を強制的に徴収するものであるから、まさに右の構成員の権利を不当に害するものということができる。したがって、本問税理士会の決議は公序良俗に反し、無効と解する。 【論点】外国人の人権享有主体性 1、外国人は人権を享有するか。第3章の表題が「国民の」権利及び義務とされていることから問題となる。 思うに、人権は前国家的性格を有するものであるし、国際協調主義(98条2項)の精神からしても、外国人の人権享有主体性は認めるべきである。 しかし、ひとくちに人権・外国人といっても様々であり、外国人に一般国民と同様の保障を及ぼすことはできない。したがって、外国人にいかなる程度人権が保障されるかは、人権や外国人の性質などの事情を考慮して具体的に決すべきである。 【論点】外国人の入国の自由 まず、入国の自由は外国人には認められるか。 思うに、自国の安全と福祉に危害を及ぼすおそれがある外国人を立ち入らせない権利が国家にあることは国際慣習法上確立しているといってよい。 したがって、入国の自由は外国人には認められていない。 その文脈からすれば、在留の自由も入国の自由同様認められないことになりそうである。 しかし、外国人もいったん国内への入国が認められた以上、性質上可能な限り人権保障は認めるべきである。とすれば、その在留資格はみだりに奪われてはならない。とくに、定住外国人にとって、定住先は生活の本拠であるから、その権利を保護する必要性が高い。 同様に、再入国の自由も外国人には認められないないかに見える。しかし、単なる入国の場合と異なり、既にその外国人の性向、行状は把握されているといえる。特に、在留地へ入国するものに関しては在留の自由同様の特別な配慮が必要である。 したがって、この場合の法務大臣の入国許可に関する裁量は制限されるというべきである。 【判例】マクリーン事件 事案 在留中政治活動を行ったことを理由に在留期間更新を拒否される 判例は性質上可能な限り外国人に人権は保障され、政治活動の自由は外国人にも性質上保障される人権であるとした。一方で、外国人には在留の自由は認められないから、在留制度の枠内でしか、政治活動の自由は保障されず、その結果政治活動を更新拒否の消極的理由として斟酌できると判断した。 しかし、本判決は在留期間更新について過度に広範な裁量を認めるものである。しかも、この判旨からすれば、更新拒絶を原因とした萎縮的効果が生まれ、政治活動の自由を保障した意味がなくなる。判決は失当の批判を免れない。 【論点】外国人と社会権 社会権は後国家的権利であり、一次的には、国籍を有する国に対して要求すべき権利である。したがって、外国人には原則社会権の保障は及ばない。 しかし、事実上本国への保障要求が困難な場合があるし、参政権のように原理的に認められないものでもない。したがって、法律によって外国人に社会権を保障するのは憲法の許容するところである。 加えて定住外国人の生活実態からすると、社会権について日本人と区別する必然性はない。また在日中国・韓国人等については歴史的経緯も考慮する必要性がある。 したがって、定住外国人には、原則として日本国民と同程度の社会権の保障を及ぼすべきである。 【論点】外国人と参政権 参政権は性質上、当該国家の国民にのみ認められる権利であるから、選挙権、被選挙権は外国人には原則認められない。 しかし、地方レベルにおいては別途の考慮を要する。 思うに、地方公共団体が扱うのは生活に密着した事項であるから、選挙権を認めたところで、国家レベルの政策決定への影響は少ない。とくに定住外国人は地方公共団体の「住民」(93条2項)とみることができる。この場合、「住民」として定住外国人にも政治参加させるべきである。 したがって、このような場合には外国人にも選挙権を法律で付与することは可能である。 【論点】未成年者への人権制約 未成年者は「国民」(第3章)であるから、当然人権は保障される。しかし現実には、選挙権・閲読の自由などにおいて、成年者とは異なる制約が加えられている。このような制約は許されるか。 思うに、人権は十分な判断能力を有する成熟した市民を想定して保障されたものである。もし、かかる判断能力を欠く者に同程度の人権を保障するならば、誤った人権行使によって心身への自己加害によって回復不可能な損害を発生させるおそれがある。このような害悪を回避するため、未成年者を成年者と異なった制約に服せしめることは必要である。 しかし、その制約の程度が目的達成のために最小限度のものであることを要するのは勿論である。以上から、未成年者への人権制約については、限定されたパターナリスティックな制約しか許されないというべきである。 具体的に、どの程度の制約が認められるかについては、制約される人権の性質、制約の程度、未成年者の成熟の度合い、制約される文脈などを総合判断して、合憲・違憲を決することになる。 【論点】飲酒の自由 それでは、酒を飲む自由は未成年者には認められるか。 思うに、飲酒には人格的生存に必要不可欠というほどの重要性はない。しかも、誤った態様による酒類の摂取によって心身が回復不可能な程度に害されることは十分あり得る。 したがって、飲酒行為を未成年者に禁止することは合憲である。 【論点】閲読の自由 いわゆる暴力的・猥褻図書閲読の自由は未成年者に認められるか。 思うに、右のような図書が未成年者にに対して、悪影響があることは社会共通の認識といってよい。しかも、その閲読が人格的成長・形成においてそれほどの必要性・重要性が認められるわけでもない。 したがって、暴力的・猥褻図書閲読の禁止は認められる。しかし、その規制の態様によっては、成年者の閲読の自由その他の利益が侵害されるおそれがあるので、制約の合憲性は、別途このような観点からも検討する必要がある。 【論点】髪型の自由 髪型を校則等で禁止することは許されるのか。 思うに髪型の自由は自己決定権の一部として憲法上保障するに値する利益である。 もっとも、校内風紀の維持、教育上の配慮の点から、髪型の自由は絶対無制約ではない。しかし、その制約は必要最小限度のものであることが要求されるのはもちろんである。 例えばパーマを禁止する程度の制約ならば、他の髪型を選択しえるから、それほど強度な制約とはいえない。したがって、許容される制約といいうる。 一方丸坊主を強制する場合は、他の髪型を選択できないばかりか、それを強制する絶対的な必要性が認められるわけでもない。したがって、かかる制約は許されない。 (*髪型の自由は、学生の人権という観点から検討すべきであるといえる) 第二章 基本的人権の限界 一 人権と公共の福祉 【論点】公共の福祉 人権を行使する際、特に行為を伴う場合は、他の利益と衝突するおそれが常に存在する。したがって、人権は絶対無制約ではなく、制約可能性を常に内在していると考えるべきである。 公共の福祉は、そのような意味において人権の制約原理であり、具体的には、利益調整のための実質的な公平の原理といえる。 しかし、現代社会においては、資本主義の高度化に伴い、社会的弱者が生まれることは避けられない状況になっている。かような社会的弱者に対して実質的な自由を確保するため、経済的な自由には特別な制約を加える必要がある。 したがって、公共の福祉の内容は、以上のような内在的制約、外在的制約の二種類からなると解する。 具体的には、11条、13条の公共の福祉は全ての人権についての総則といえるから、必要最小限度の規制のみを認める自由国家的な意味をさす。一方、22条1項、29条2項の公共の福祉は、かかる経済的自由権が外在的制約にまで服するという社会国家的な意味をさすということができる。 【論点】公共の福祉と人権(短文) 公共の福祉の内容はいかに解すべきだろうか。 思うに、人権は社会生活を前提とする以上、その行使の際には他の利益と衝突する可能性を常に秘めている。その意味ですべての人権は内在的制約に服するものであり、11条、13条の公共の福祉は右理を表わした規定である。 一方で、経済的自由権は、福祉の国家理念の実現のために特別な制約に服するものと解される。22条、29条のような経済的自由権においてあえて公共の福祉の用語が使用されていることは、右理を示すものである。 【論点】 二重の基準 公共の福祉は人権制約の原理といいうるが、その内容は不明確であり、そのまま具体的な人権制約の根拠とすることはできない。さもなければ、公共の福祉の一言で人権を制約することを許すことになりかねないからである。 そこで、その内容を合憲性判定基準となしうるように具体化する必要がある。 かかる要請に応える理論が、二重の基準である。これは、精神的自由権についての制約立法は、経済的自由権よりも厳格な基準で判断するという理論である。 思うに、精神的自由権は民主政の正常な運営の前提となる権利である。だから、いったん侵害されるならば、民主政の過程では回復不可能となりかねない。 しかも、裁判所は専門・技術的判断能力が十分でなく、経済的自由権への制約立法についてよく判断できるものではない。以上が、二重の基準の理論の根拠である。 二 特別な法律関係における人権の限界 【論点】特別な法律関係における人権の限界 国家権力と特別な法律関係にあるものは、一般国民とは異なった特別な人権の制約に服さしめる必要がある。公務員の職務は国民の幸福・安全を守る特殊なものだからである。しかし、かかる特別な制約をなしうることの法的根拠は何か。 この点は、かつては特別権力関係理論によって説明されていた。特別権力関係とは法律の規定・本人の同意によって、公権力と私人との間に成立する関係である。 右理論は、@公権力は法律の根拠なしに包括的にその私人を支配でき、A法律の根拠なくして人権を制限できる。そして、B特別権力関係内での公権力の行為は司法審査に服しないとするものである。 しかし、日本国憲法ではすべての公権力は正義の法によって拘束されるとする法の支配の理念が採用され、人権を永久不可侵のものとする。右理論はこのような憲法の規定に反するものであり、採用できない。 しかも右理論は公務員・在監者など全く性質が違う法律関係を一括してとらえている。このような、態度自体が妥当性を欠く。 その意味で、特別な法律関係における人権制約については、各法律関係ごとに、制約根拠・制約の程度を考えるのが妥当である。 【論点】公務員の人権 公務員は国民の生命・安全を守り、福祉を担う特別な職務に服するものだから、その人権は特別な制約に服すると解さざるを得ない。 憲法も15条、73条4号などによってかかる公務員関係を予定しているというべきである。したがって、かかる関係の存立と自律性を確保する目的の限度で公務員の人権を制約しうると解する。 なお、制約の程度は公務員の職種・制約される人権の性質など具体的事情を考慮に入れながら個別的に判断すべきであると考える。 【論点】公務員の政治活動の自由 政治活動の自由(21条1項)は公務員に保障されるか。 確かに、行政の中立性を保つことは、公務員関係の自律性の確保のため必要である。したがって、公務員は、政治活動の自由については一般人とは異なる制約に服するといわざるをえない。 しかし、政治活動の自由は、表現の自由における自己統治の価値がまさに現れるところであるから、可及的に保障されなければならない。 したがって、その制約の程度は必要最小限度であることが必要であり、制約の合憲性は厳格に判断されることになる。具体的には、公務員の地位、職務内容、その他諸般の事情を考慮して個別的に決せられるべきである。 【判例】猿払事件 事案 選挙用のポスターを勤務時間外に掲示、配布 した郵便局員を国家公務員法102条違反で起訴 国家公務員法は、公務員の政治活動を一律禁止しているが、かかる規定の合憲性をどのように考えるべきか。 判例は、合理的関連性の基準を用い、当該立法の目的を行政の中立的運営とそれによる国民の信頼確保する点にあり、正当であるとした。さらに、勤務時間の内外、公務員の職種を区別せず一律禁止することも目的達成のための手段として合理的関連性があると判示した。 しかし、郵便局員が勤務時間外にポスターを貼ることで国民の信頼を失うとは考えにくいから、刑事罰を適用するのは行き過ぎである。 しかも、判例は、禁止によって得られる利益と失われる利益との均衡があるとしている。しかし、かかる利益衡量は一見公平であるかに見えつつ、衡量の前にその結果は見えているといえるものである。個人の人権保障の観点から、かかる利益衡量をなすことは憲法問題では許されるべきでない。 【論点】公務員の労働基本権 公務員は国民の安全・福祉を担うものであるので、一定の制約に服するのもやむを得ない。 しかし、労働基本権は労働者の生きる権利であるから、その制約の程度は必要最小限度の制約に止まるべきである。 したがって、その制約への合理性は厳しい基準で判断すべきである。(具体的には目的の必要不可欠性を要求し、手段はLRAの基準で判断すべきである。) 例えば公務員の中でも一般の労働者と同様の職務を行っている者がある。このような者について労働基本権を制約する合理性は認められない。にもかかわらず、現行の公務員法(国家公務員法98条2項など)では争議権が一律に否定されているから、かかる立法は違憲の疑いが強いというべきである。 【判例】公務員の労働基本権と判例の推移 初期の判例は公共の福祉と「全体の奉仕者」(15条2項)の概念を用いて、簡単に人権制約を合憲としていた。 しかし、全逓東京中郵事件では、公務員にも一般の労働者と同様基本権が保障され、制約は最小限度、必要やむを得ない場合に限るべきと判示された。これは、抽象的理由付けを放棄した画期的判決ということができる。 続く都教組事件では、二重の絞りによる合憲限定解釈を用い、法令の効力を救いながら、争議行為を行った者を救済する判断を示した。 ところが、全農林警職法事件は、@公務員の地位の特殊性と職務の公共性から公務員の人権は特別な制約に服するとした。そして、A財政民主主義からして政府に対する争議行為は的外れであるとした上で、B公務員の争議行為に対する市場抑制力がなく、C代償措置が講じられていることから、一律全面的禁止を合憲との結論を導いた。 しかし、@のような抽象的理由で公務員の人権制約を肯定することは不当であり、Aのように人権を守る手段にすぎない財政民主主義を人権制約の根拠に使うことは本末転倒である。Bについても世論による抑制力は存在するし、Cでも代償措置は制約できる際に初めて講じるものである。代償措置があるから制約できるのではないと反論が可能である。 また、この判例は合憲限定解釈は明確性の原則に反し、憲法違反のおそれがあるとも指摘した。確かに法文から合理的に読みとれないような解釈は避けるべきである。しかし、合憲限定解釈の意義を一切認めない解釈にもまた、賛成できない。 【論点】在監関係と人権(新聞閲読の自由) 在監者については在監目的を達成するため、特別な人権制約が必要である。 そして、18条・31条は在監関係という特別の関係の存在を予定している。したがって、在監関係の存立と自律性を確保するために必要な限度で、特別な制約を為すことは許されると解する。 もっとも、その制約が在監目的達成のため必要最小限度でなければならないのは勿論である。 例えば、新聞閲読の自由を制約することについてはいかに考えるべきか。 新聞閲読の自由は精神的自由権であり、かかる自由は自己実現・自己統治の価値が支える重要な権利である。しかも、かかる自由を拘禁目的の達成のため制約する合理性は希薄である。 したがって、制約については裁判所の厳格な審査に服すると解される。 その点で、判例が新聞閲読の自由は監獄内の秩序の維持にとって障害が生ずる「相当の蓋然性」がなければ制約できないと判示したのは妥当であると解される(よど号ハイジャック事件)。 *判例名は覚えなくて良い 口述の時に覚えるのに便利なように書いただけ *喫煙の自由なども検討しておくとよい 喫煙の自由 → 憲法上権利として保障されないが、権利に至らざる利益として一定の保護はされる 逃亡・罪証隠滅の防止、火災の発生の防止などの観点から、在監目的達成のため、喫煙の自由を制約することは認められる。 三 私人間における人権の保障と限界 【論点】私人間における人権の保障と限界 憲法は公権力との間で国民の権利・自由を保護するために設けられた規範である。 しかし、資本主義の高度化に伴い、巨大な力を持った私的団体が社会に登場し、かかる社会的権力による人権侵害のおそれが高まった。 この状況を放置するならば、人権侵害を憲法が禁じた意味が無なくなりかねない。何らかの形で私人間の法律問題にも人権規定を適用する必要があると考えられる。 確かに、人権は歴史的には対国家防御権であった。しかし、そのように限定する必然性は必ずしもなく、人権の価値は全法秩序の基本原則とみることができる。したがって、私人間への人権規定の適用は理論的に不可能ではない。 ただ、憲法の規定を私人間に直接適用するならば、権利を定めたはずの憲法が義務規定に変貌するおそれがある。しかも、国家による私人関係への不当な介入を招き、私的自治の原則に反するおそれがある。 そこで、民法90条・709条等私法上の一般条項の解釈をする際に、憲法価値の意味を充填解釈を通じて、事件解決を図るのが妥当であると解する。 【判例】就職活動(三菱樹脂事件) 事案 学生運動歴について虚偽の申告をしたことを理由に、試用期間終了時に本採用を拒否 この事件で判例は、企業の有する雇用の自由を理由に、採用の際に、思想・信条の申告を要求することは違法ではないとした。 しかし、巨大企業がかかる思想・信条の告白を要求することの社会的影響は大きい。その点を看過し、通常の企業と同様に、雇用の自由を認めて結論を導くことは妥当ではない。とくに職務上の能力・適性に無関係に思想に関することがらを尋ねることは違法であると解する。 【判例】男女別定年制(日産自動車事件) 事案 女性の方が定年齢が若い規則は合法か 思うに、女子に限って仕事能力が早く衰えるなどの事実はない。女子に限定した若年定年制を認めることには何ら合理性はなく、性別に基づく理由のない差別というべきである。 したがって、かかる社内規定は公序良俗に反するものとして無効である(民法90条)。 【判例】昭和女子大事件 事案 政治活動を行った私立大学学生が、自宅謹慎処分を受けたが、大学の処分の不当性を新聞・マスコミなどに訴え活動を続けた結果、退学処分を受ける まず、政治行為を禁ずる生活要録自体は違法か。 思うに、大学には独自の建学、教育方針があるから、このような内容を生活要録に規定することは、不合理なものとまではいえない。しかも、学生は入学を自由な選択によって決定したのであるから、かかる拘束には同意しているものとの推定を及ぼすべきである。 一方、処分の妥当性であるが、大学は教育機関であり、その処分が教育的な意味を持つものであれば、その内容の適否は大学側の広い裁量に任されると考えるべきである。 しかし、退学処分はそのような教育関係を放棄し、学生の生活に重大な影響を及ぼすものであるから、その裁量は広範には認められない。 本件でいう、政治活動は教育関係を解消すべきほど重大な事項であるとは考えにくい。したがって、自宅謹慎はともかく、退学処分については、大学側は教育的に反省を促す努力を怠っているとうらみがある。 しかし、学生の謹慎中の態度、その他の事情を総合すると、大学側に裁量の逸脱があり、処分に違法性があるとまではいえないと解する。 第3章 包括的基本権と法の下の平等 一 生命・自由・幸福追求権 1 幸福追求権の意義 【論点】幸福追求権の意義 憲法第3章に列挙された人権規定は、歴史的に侵害されることが多かった権利を列挙したにすぎない。およそ個人の尊厳を確保するに必要ならば、このような利益を新しい人権として保護すべきである。 すなわち、憲法上保障される人権は明文にあるものに限定されず、新しい人権も認められると解する。ここに、13条は時代の変遷にしたがって新たな人権の保障が必要となった場合、その保障を予定した規定であるというべきである。 ただし、安易に新しい人権を認めるならば、人権がインフレ化するおそれがある。また、他の人権の不当な制約を招くことになりかねない。 そこで、新しい人権を認めることには慎重になるべきである。具体的には、人権と認めうるのは、個人の人格的生存に必要な利益であるものに限定されると解する。 【論点】プライバシーの権利は憲法上の権利か 思うに、私的領域を侵害されないことは平穏な生活をするためには欠かせない利益である。かかる権利の保障は人格的生存のために必要不可欠といえるから、プライバシーの権利は憲法上保障されているといえる。 しかし、プライバシーもその者の公的地位、公開される事情の如何によっては例外的に制約される場合はあると解する。そこで、プライバシーの制約について合憲性判定基準が問題となる。 既に述べたように、プライバシーの自由は人格的生存の根源にかかわる権利であるから、最も厳格な審査基準を用いるべきである。具体的には、合憲というためには@必要不可欠な利益を確保する目的が必要であり、A手段はLRAの基準をクリアーすることを要求すべきである。 【論点】プライバシーの権利とは何か プライバシーの権利を判例は私生活をみだりに公開されない権利とし、自由権的に解している。 しかし、高度に情報社会化が進行し、行政による個人情報が集中管理されているという状況に鑑みれば、その意味内容にをさらに積極的に解することが必要である。 すなわち、プライバシーの権利は自己に関する情報をコントロールする権利として、請求権的側面を重視した内容とすることが妥当である。 【判例】前科照会事件 事案 地方公共団体が弁護士による前科の照会に応じる → 被告が就職先をクビになる 思うに、前科は名誉・信用という人の重大な利益に関わる情報であるから、みだりに公開されないことは法的保護に値すると解する。 したがって、漫然と地方公共団体が情報提供に応じたとすれば、違憲とされる公算が高い。(実際はもう少し事情をつかってあてはめをする) 【論点】プライバシーと表現の自由 プライバシーの権利は表現の自由の利益と衝突する可能性が高い。かかる場合、いずれの利益を優先すべきかが問題となる。 思うに、表現の自由は自己実現、自己統治の価値が支える重要な権利である。一方プライバシーの権利も人格的生存には不可欠な人権であるから、その保障は最大限度与えなえばならない。 このように両人権はいずれ劣らない重要な権利である。したがって、等価値的な比較衡量によって、いずれの人権が優先されるかを決しなければならない。 その際には、プライバシーが制約される者の身分、公開される情報の種類、公開されることの社会的必要性などの要素を総合して判断すべきである。 【論点】自己決定権 自己決定権は、個人の人格的生存に関わる重要な私的事項を各自が自律的に決定できる自由である。かかる自己決定権は13条によって憲法上保障される権利であると解する。 二 法の下の平等 【論点】平等の意味 14条1項は法の下の平等を保障しているが、その保障内容をいかに解すべきか。 まず、不公平な法をいくら平等に適用しても、無意味である。したがって、14条の平等は法内容の平等まで要求していると解すべきである。 次に、「平等」(14条1項)の意味内容が問題となる。 思うに事実上の差異を無視した形式的取扱いを行えば妥当な結論を導くことはできない。したがって、合理的区別は許容されると考える(相対的平等)。しかも、憲法は福祉国家の理念を謳っている(25条等)。かかる理念達成のため、「平等」とは、実質的平等をさすと解するべきである。 一方、14条後段列挙事由にはいかなる意味があるのか。 まず、平等的な取扱が要求されるのは列挙事由に限られない。列挙されずとも、平等な取扱が要求される場合がありうるからである。その意味で、かかる列挙は例示と見るべきである。 しかし、かかる列挙事由は民主国家においては、通常区別をするのに理由がない事由といえる。したがって、後段列挙事由による差別的立法については、違憲性の推定が働くというべきであり、単なる例示と解するべきではない。 【論点】平等権の合憲性判定基準 後段列挙事由に基づく差別的取扱は、違憲性の推定が働き、かつ厳格な基準で判断すべきである。具体的には当該取扱が合憲といえるには、必要不可欠な利益を確保する目的があり、手段についてLRAの基準を満たすものでなくてはならない。LRAとはより制限的でない選びうる手段の基準をいう。 一方で、後段列挙事由でない事由に基づく場合であるが、後段列挙事由の内容を考慮すると、結局14条は民主主義的な合理性を満たさない取扱を禁じていると考えうる。 そこで、対象となる権利の性質の違いを考慮し、二重の基準の考え方を加味して、当該取扱の合理性を判断するのが妥当である。 【判例】女子のみに再婚禁止期間を設ける立法 本問立法は女性であることに着目して、男性と異なる制約を課しているから、「性別」による差別にあたる。したがって、本問制約立法には、厳格な基準を用いて合憲性を判断すべきである。 本問立法の目的は、父性推定の重複を防止する点にあり、目的の必要不可欠性は肯定しうる。 しかし、本問立法の規定する手段は、再婚禁止期間を6ヶ月とするものである。父性推定は、婚姻200日以後、離婚300日以前に産まれた子に及ぶから、再婚禁止期間は100日に設定すれば、その目的が達成できるはずである。 にもかかわらず再婚禁止期間を6ヶ月も設ける本問立法は、手段の点において不合理なものといわざるをえない。したがって、本問立法は違憲である。 【判例】非嫡出子の相続分を嫡出子の半分とする規定 まず、非嫡出子たることは、「社会的身分」にあたるかが問題となる。 非嫡出子は一時的でない身分である。また、非嫡出子たる状態からは、子の意思ではなしえない準正の手続がない限り脱却できない。したがって、非嫡出子たることは「社会的身分」にあたると解すべきである。 とすると、本問立法は社会的身分に着目して、不利益をその者に与えるものといいうる。したがって、その合憲性は厳格な基準を用いて判断すべきである。具体的には、目的の必要不可欠性、手段と目的の実質的な合理的関連性の有無をもって判断すべきである。 まず、本問立法の目的は法律婚制度の維持にあり、かかる利益は必要不可欠なものといってよい。 一方、本問立法は非嫡出子に対して不利益を与えることで、右目的を達成しようとしている。しかし、かかる手段によって右目的が達成できるか否かは疑わしい。しかも、非嫡出子は自らの生まれについて何の責任もない。かかる手段は目的と実質的な関連性があるといえない。 したがって、本問立法は違憲である。 【判例】給与所得者には必要経費の実額控除を認めない立法(サラリーマン税金訴訟) 租税法の定立には優れて専門・技術的判断が必要とされるから、その内容は、立法府の広範な裁量に委ねられるものである。 したがって、右立法については、最も緩やかな基準で立法の合理性を判断するのが妥当である。具体的には目的が正当であり、手段が不合理なことが明白でない限り合憲とすべきである。 本問立法の目的を検討する。給与所得者については必要経費の算定が困難である上に、多人数に上る。ここで、実額控除を実施するならば、税務執行に混乱をきたし、かえって租税負担の不公平をもたらすおそれがある。 本問立法の目的はかような弊害を防止する点にあるから、その目的は正当なものということができる。 さらに目的達成手段として、税額の計算において概算控除の制度を用いることが不合理であることが明白であるとはいえない。 したがって、本問立法は合憲である。 【判例】尊属殺重罰規定違憲判決 卑属たる地位は一定の社会的評価を伴い、自己の努力では離れることができないものである。したがって、社会的身分といってよい。 そうすると、本問立法には違憲性の推定が働き、厳格な基準で判断することになる。具体的には目的が必要不可欠であり、より制限的でない代わりうる手段が他にないことが必要である。 その上で本問立法を検討すると、その目的は尊属の尊重報恩にある。しかしかかる道徳概念を法で強制することが必要不可欠であるとは考えにくい。 しかも、手段としての刑罰が死刑か無期懲役しかないので、いかなる手段を用いても、被告人に執行猶予を認めることができない。かかる重い刑を正当化する根拠はなく、本問立法は著しく不合理なものという他はない。 したがって、本問立法は憲法14条1項に反し、違憲である。 第四章 精神的自由権 一 思想・良心の自由 【判例】思想良心の自由〜謝罪広告の合憲性 事案 名誉毀損をした者に謝罪広告を命じる 謝罪広告を命じることは思想・良心の自由を侵害するのか。まずは、思想・良心の意味が問題となる。 思うに、19条は20条、21条、23条に対して一般規定ということができる。 とすると、思想・良心の内容も、学問・信仰と準じる世界観、思想のようなある程度確固とした信条をその内容とするというべきである。 このように考えた場合、場合によって謝罪広告の強制が違憲と評価される場合もありうる。しかし、単に事実の真相を告白し、陳謝の意を表するに止まるならば、謝罪広告も右のような思想良心の保護の埒外というべきである。 したがって、右のような事実が認められる限り、謝罪広告は合憲である。 【判例】麹町中学内申書事件 事案 内申書に特定の政治活動を行ったことを克明に記載 → 高校をことごとく不合格になる 判例は、内申書の記載を思想・信条そのものを記載したものではなく、外部的行為の記載も思想・信条を了知しうるものではないとしている。 しかし、本問では内申書に「ML派の集会に参加している」「麹町中全共闘を名乗る」等の事実を記載したものである。右記載は、当該学生の思想・信条を推知するに十分な事実を記載するものである。 また、内申書は入学選抜において参考にされるから、公正さが強く要求される文書である。となると、右事実は入学許可を与えるか否かの判断に不当な影響を与える余事記載として、内申書への記載は許されない性質のものであるというべきである。 したがって、本件中学の処分は19条に反し、違憲である。 二 信教の自由 2 信教の自由の内容と限界 【判例】信教の自由と体育授業の拒否 宗教上の理由から必修科目である剣道実技の受講を拒否 → 単位不認定・退学 本問事案は格技を行ってはならないとする教義にのっとり、格技を内容とする授業の受講拒否をした結果、単位不認定・退学とされたものである。授業の強制及びそれに伴う右の処分は、宗教的良心に反することを強制するものであるといえる。かかる強制が信教の自由の保障(20条)に反しないのか。 信教の自由は、戦前において神道が国家的宗教とされ、軍国主義の精神的支柱となった裏で他の宗教は冷遇された歴史的経緯をふまえ、特に明文で保障された重要な権利である。 しかし、信教の自由も内心に止まらず外形的行為となって社会生活と関連を有する場合には一定の制約に服することを免れることはできない。 そこで、かかる信教の自由に対する制約立法の合憲性判定基準が問題となる。 思うに、信教の自由は、右に述べたように重要な権利であるから、その合憲性は厳格な基準で判断すべきである。すなわち目的が必要不可欠であり、他に選びうるより制限的でない手段が存在しないことが必要と考えるべきである。 以上をもって本問を検討するに、剣道は高専教育において必須とはいえないし、剣道実技参加拒否は信仰の核心に関わる真摯なものということができる。 しかも、体育実技の種目は他に多数選びうるわけであり、代替措置を講じることは可能である。人権擁護のためにかかる措置を取る以上、右措置は政教分離に抵触するわけでもない。 退学処分が、学生に与える影響を考えると、かかる処分は社会通念上著しく妥当を欠くものであるといわざるをえない。本件高専の処分は違憲無効である。 【判例】オウム真理教への解散命令 → 20条に反するか 思うに、本件解散命令は宗教的側面を対象とするものでなく、教団の社会活動の危険性に着目してなされたものである。すなわち、処分は合理的なものというべきである。 つまり、宗教活動に生じる支障は事実上のものにすぎない。また、信者は宗教法人としての活動ができなくなるだけであり、宗教的活動を行うことが禁止されるわけでもない。 したがって、かかる解散命令が憲法に反するとはいえない。 【判例】自衛官合祀拒否訴訟 宗教上の人格権とは、親しいものの死について静謐の中で宗教上の思考をめぐらせ、行為をなす利益をいう。かかる利益は宗教的行為の自由の一種として、20条で保護されるべき利益と考えるべきである。 親しい者の死について思考をめぐらせることは宗教的な行為のうちでも、人格的生存のため重要な役割を果たすと考えられるからである。 ただし、そのような利益がどのような場合にも絶対無制約とされるわけではない。かかる利益に反することを理由として、例えば他人の信教の自由を害する可能性があるからである。 (本件事案は、右のような利益の侵害があるか否かというよりも、政教分離原則にも反する事案と評価すべきである。死者を祀るという行為は遺族の意向を無視してまで強行すべきものであるとは考えられない。また、護国神社に死者を祀るという発想自体軍国主義的であり、世俗的行為と評価することはできないからである。) 3 政教分離の原則 【論点】政教分離の原則 1、政教分離(20条1項後段、20条3項、89条)とは国家の宗教的中立性を保つため、国家と宗教を分離することを指す。 かかる制度は@少数者の信教の自由を確保し、A国家・宗教双方の堕落を防止することを目的とする。 2、その法的性格は、争いあるも、右目的達成のために定められた制度的保障と考えるべきである。 【論点】政教分離原則の限界 政教分離原則は、信教の自由を間接的に保障するための制度的保障である。 しかし、制度的保障は、制度の周辺部分の侵害を許すものであるから、運用の方法如何によっては、信教の自由の保障がはかれないおそれがある。 したがって、かかる保障の目的達成のため、政教分離の程度は厳格なものが要求されると解する。 しかし、このように解したとしても、右制度は政治と宗教の関わり合いを一切排除するものではない。宗教法人への税制の優遇、宗教法人の経営する学校への助成金交付のいずれも許さないとの結論は不当であるからである。 したがって、許される関わり合いか否かを区別する基準設定の必要性がある。 具体的には@問題となった国家行為が世俗的か宗教的か、Aその行為の主要な効果が宗教を振興し、または抑圧するものか、B宗教と国家との過度の関わり合いを促すものかどうかという三要件をもって判断するのが妥当である。 【判例】津地鎮祭事件 事案 体育館の建設のために行われた地鎮祭の費用を公金から支出すること → 政教分離原則に反しないか。 思うに、地鎮祭は工事の無事を願って儀礼を行うという起工式の際に行われる儀式であるから、その際に主催者は世俗的目的しか有していなかったと見うる。 しかし、儀式が神主によって神式に則って実施されたとすれば、地鎮祭が宗教的意義を持つことは否定できない。かかる行為を地方公共団体が行為主体になって行えば、神道が特別な宗教であるとの認識を呼びおこすから、神道及び他の宗教に何ら不当な影響が及ばないとはいえない。 このような行為の性質、地方公共団体の地位を考えると、本件地鎮祭の挙行は、政教分離に抵触するというべきであり、違憲である。 【判例】愛媛玉串料事件 靖国神社に対する玉串料の支出が憲法上許されるか。 玉串料としての公金支出は慣習化した社会的儀礼とはいえないから、玉串料が支出されれば、地方公共団体が特定の宗教団体を支援しているとの認識を生む可能性がある。となると、一般人は神道が特別な宗教であると認識し、特定の宗教への関心を呼び起こす可能性がある。 したがって、かかる公金支出は、20条3項、89条に反し違憲である。 【判例】箕面(みのお)忠魂碑事件 事案 遺族会所有の忠魂碑を移転する費用支出・私有地の無償の使用貸借 → 政教分離に反しないか 忠魂碑は礼拝の対象となっているから、宗教的施設といえるし、遺族会はまさにかかる礼拝を行う団体であるから、宗教団体というべきである。 しかし、かかる団体に公金を支出する行為が、政教分離原則に反するか否かはまた別問題である。 すなわち、本件事件は小学校の増改築工事に際して忠魂碑に移転の必要が生じたものである。とすると、本件支出は公共事業に必要あって、不利益を被る団体に対する補償にあたるというべきである。 とすると、本件支出は世俗的目的によるものであるし、しかも、宗教団体との過度の関わり合いを促すものとも言い難い。逆に、宗教団体であることを理由に保障を拒むことは、宗教を理由に特定の宗教団体を不理に扱うことになり、妥当でない。 したがって、かかる支出は憲法に反せず、合憲というべきである。 三 学問の自由 【論点】大学の自治 憲法上、大学の自治は保障されているか。明文なく問題となる。 思うに、大学は学問研究の中心であるから、大学の自主性を保障すれば、間接的に学問の自由の保障に資することになる。 したがって、大学の自治は制度的保障として23条によって保障されていると解すべきである。 そして、その保障内容として重要なものは研究者人事の自治と施設・学生の管理の自治が挙げられる。 【判例】大学の自治〜東大ポポロ事件 事案 正規の手続を経て借りた教室で劇を演ずる途中、私服の警官に警察手帳の提示を求め、暴行を加える → 学生が起訴される 暴行は大学の自治を守る正当行為ではないか 大学の自治とはいえども、大学は治外法権ではない。したがって、大学内の警備活動について、一切警察の関与を許さないものではない。 しかし、学問の自由は個人的な価値に止まらず、社会的にも最大の尊重を払わなければならない貴重な権利である。 かかる権利を保障するためには、警察側の一方的判断の下に学内活動が監視下におかれるという事態は許されない。 すなわち、事件が学内で発生したなど緊急事態以外は、大学の要請、許可なくては警察活動を学内で行うことはできないと考えるべきである。 したがって、本問のように、犯罪の発生する抽象的危険に基づいて、大学内で公安活動を行うことは許されない。 また、学生も大学における研究主体たりうるのであるから、程度の差はあれ、大学の自治の享有主体と見るべきである。 公安活動の違法性が重大であることを考えると、学生の暴行は大学の自治を守るための正当な行為として、違法性が阻却されると考えるべきである。 この点判例は、劇の発表は学問の研究発表でないとしたうえで、本件劇の発表は実社会の政治的社会的活動であり、参加者は大学の自治を享有するものではないとした。 しかし、政治的・社会的活動と学問的研究・発表との区別は極めて困難である。にもかかわらず、警察権力の一方的判断によって警備活動を行うことが許されるならば、大学の自治の保障は無に帰しかねない。 したがって、判旨は是認できるものではない。 四 表現の自由 【論点】表現の自由の重要性 表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという自己実現の価値である。もう一つは言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという自己統治の価値である。 2表現の自由の内容 一知る権利 【論点】知る権利 いわゆる知る権利は憲法上保障されているか。明文なく問題となる。 もともと、表現の自由は情報を発表し、伝達する自由である。しかし、現代社会においてはマスメディアの高度の発達の結果、情報の送り手と受け手の分離・固定化状況が顕著になった。情報の価値も飛躍的に高まっている。 このような問題状況においては、受け手の地位に固定化された一般国民の側から表現の自由を再構成し、その権利を保障しなければならない。 このような事情に鑑み、知る権利は、憲法21条1項によって保障されていると考えるべきである。 その内容としては、情報を知ることを妨害されないという自由権的側面が認められるのは疑いない。それに加え、かかる知る権利の保障を実質化するため、情報の公開を請求できるという社会権的側面を有すると解すべきである。 ただし、21条のみを根拠に情報公開を請求するにはあまりにその内容は抽象的である。したがって、請求権的側面については、具体的立法の制定をまって初めて権利行使しうる抽象的な権利であると解するべきである。 【論点】アクセス権 アクセス権とは、マスメディアに対して自己の意見の発表の場を提供することを要求する権利である。 かかる権利は受け手の地位に甘んじる一般国民が送り手としての地位を要求する権利と位置づけることができる。 【判例】サンケイ新聞事件 自民党がサンケイ新聞に掲載した広告 → 共産党が無償で反論文の掲載を要求 @アクセス権は憲法上の権利として認め得るか。 確かに、現代において一般国民は情報の受け手としての地位に甘んじており、思想を発信する自由はあまり享有できない。 しかし、かかるアクセス権を実現するには、紙面を無料で割くことを新聞社その他マスメディアに強要しなければならない。これは、マスメディアに批判的記事の掲載を躊躇させ、マスメディアの表現の自由に重大な影響を及ぼすものである。 したがって、アクセス権を憲法上の権利と認めることはできない。 A立法によってアクセス権を認めてよいか この場合、反論されるべき文章かの判断権者を誰とするのかも問題である。もしこれを国家とするならば、国家による言論統制を許すおそれもある。 思うに、あくまで守られるべき権利は本来は自由権である点を重視すべきである。請求権を認めるために自由権が無になってはならない。 したがって、アクセス権を立法によって認めることも憲法に反するというべきである。 二 報道の自由・取材の自由 【論点】報道の自由 21条1項は報道の自由を保障しているか。報道は思想でなく事実の表現であるので問題となる。 思うに、知る権利の保障に報道の自由は奉仕するものである。また、報道は編集という知的作業の所産でもある。 したがって、報道の自由は21条1項で保障されると解する。 【論点】取材の自由 報道のための取材は憲法上保障されるか。明文なく問題となる。 報道は取材・編集・発表という一連の行為からなるから、取材は報道の不可欠の前提といいうる。とすれば、取材の自由を保障しない限り、報道の自由の保障は達成されない。 したがって、取材の自由もまた、21条1項によって保障されていると解する。(この点判例もまた、十分な尊重に値すると判示している) 【判例】博多駅テレビフィルム事件 事案 機動隊の過剰警備の事実の有無を判断のため、警備の模様を撮影したテレビフィルムの提出を命令 将来取材ができなくなるおそれから、テレビ局はフィルムの提出を拒否 本件提出命令の効果として、取材の自由が制約されることになる。かかる処分の合憲性を検討する。 まず、取材の自由は憲法上の人権か。 思うに、報道の自由は知る権利を支えるものとして、21条1項で保障されていると解される。そして、取材の自由は報道の自由の不可欠の前提であるから、同様に21条1項で保障されていると解する。 しかし、かような取材の自由も絶対無制約ではなく、必要最小限度の制約には服さざるを得ない。 もっとも、報道の自由、取材の自由は民主政の過程をなす表現の自由の一内容である。かかる自由を制約する処分には原則違憲性の推定が働き、国家機関の裁量は限定されると解する。 まず、本事例の提出命令の目的は公正な裁判の実現の要請を満たすものである。かかる目的は必要不可欠なものといいうる。 さらに、本件フィルムが証拠として重大かつ他に代わりうる証拠手段がないといえるならば、例外的に取材の自由を制約することは許容されると解する。 裁判所は証拠収集能力が低いから、目的を達成する手段として必要限度性は認めやすいと思われる。 【判例】法廷におけるメモの自由〜レペタ事件 事案 法廷でのメモの許可 → 裁判長の自由裁量事項か? 法廷でメモを取る行為は、憲法上保障されるか。 思うに憲法は裁判の公開を保障しているが(82条1項)、その趣旨は裁判の公正を確保する点にある。裁判内容の記録は裁判内容への評価を的確になすために行うものであるから、82条の趣旨を全うするため、かかる行為は、最大限保障されねばならない。 しかも、筆記行為は自らの表現の前提をなす行為でもある。 したがって、筆記行為の自由は82条1項、21条1項の両条文で保障されていると見るべきである。 もちろんこのような筆記行為の自由も絶対無制約ではない。例えば、裁判官の訴訟指揮を妨げるようになる結果が是認できるわけではない。 しかし、筆記行為が訴訟指揮を妨げる結果を招くことは通常考えられない。したがって、法廷内での筆記行為は、特段の事情がない限り、故なく妨げられてはならないと解する。 【判例】国家機密と取材の自由〜西山記者事件 事案 女性外務事務官から国家機密を取材 → 国家機密漏洩罪のそそのかし行為として、記者が処罰される。 国家機密の漏洩をそそのかす行為を罰することは取材の自由を制約するものといえる。そこで、かかる処罰は憲法に反しないのか。 まず、取材の自由は、報道の自由の不可欠の前提であるから、21条1項で保障されると見るべきである。しかし、取材の自由も、絶対無制約ではなく他の利益との関係で制約される可能性があるのは勿論である。 ここで、国家の扱う事項の中には、外交、国防その他の観点から発表されては意味がなくなるものが含まれている。そのような国家機密は保護に値するものであり、その前では取材の自由も一歩後退せざるを得ない場合も存する。 ただし、取材の自由は重要な権利である上、民主国家において国家秘密はあくまで例外である。したがって、保護に値する秘密か否かは厳格に判断しなければならない。 その上で、本問事案を検討すると、国家機密漏洩罪によって保護されるべき秘密とは、非公知の事実であって、実質的に保護するに値するものでなくてはならない。さらに実質秘にあたるかの判断は裁判所がなすべきであると考える。 また、仮に取材対象が右のような実質秘であっても、機密の漏洩をそそのかす行為が直ちに処罰に値するわけではない。国家秘密の取材は公務員の守秘義務と対立するものであるから、取材が誘導・唆誘的性質を伴うのはやむを得ないからである。 したがって、取材の方法が、相当なものとして社会観念上是認できる程度のものであれば、国家機密の取材も正当な業務行為として違法性が阻却されると解する。 【論点】営利的言論の自由は認められるか 営利的言論 広告表現など 思うに、国民一般には消費者として広告を通じて情報を受け取る必要性がある。かかる必要性に奉仕するものとして、営利的な言論の自由も表現の自由(21条1項)によって保護されるというべきである。 ただし、かかる自由は自己統治の価値との関係が弱い。しかも、不当な制約がなされても、民主政の過程が破壊されるわけではないから、回復可能性も高い。また、消費者保護の必要性もある。 したがって、かかる自由に対する制約の度合いは比較的強度なものであっても許されると解する。 三 集団行動の自由 【論点】集団行動の自由とその限界 集団行動の自由は、「動く集会」として21条で保障されていると解される。とくに集会・集団行動は一般国民が情報の送り手の立場に立てる数少ない場である。したがって、この権利には最大限度の保障がなされねばならない。 ただ、集団行動は一定の行動を伴うから、他の表現の自由とは異なる特別の規制に服すると解さざるを得ない。 とはいえ、そのような規制は集会の重複による混乱回避・もしくは道路・公園について他の利用者との事前の調整の要請を満たすためのものである。 すなわち、それ以上の規制は許されない。具体的な右目的の達成するための規制手段としては、たとえば届出制でたりるはずである。それ以上の規制をなす場合は違憲の疑いがあると考えるべきである。 四 集会の自由 【判例】集会の自由〜公共施設を利用する自由 事案 市民会館の使用許可の申請 → 不許可処分 公共施設を利用して集会することは憲法で保障された国民の権利・自由である(21条1項)。 したがって、利用の許否は管理権者の自由裁量に属するのではなく、限定されると解する。具体的に不許可にできるのは、@利用が競合したとき及びA他の基本的人権が侵害される場合に限られると考えるべきである。 なお、人権侵害の危険性があるといえるには、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要と考えるべきである。このような危険が予見される場合、集会の自由の重要性と他の人権との比較衡量しながら不許可の場合を決定すべきである。 3 表現の自由の限界 【論点】表現の自由への制約とその合憲性判定基準 表現は思想の外部表明であるから、常に他の利益と衝突するおそれが存する。したがって、表現の自由は絶対無制約ではなく、一定の制約に服すると考えるべきである。 そこで、制約の合憲性判定基準をいかに解するかが問題となる。 思うに、精神的自由権は民主政を支える権利であるから、いったん不当に制約されるならば民主政の過程で是正することは困難である。しかも精神的自由権については、経済的自由権に比して政策的・専門的判断は要求されず、裁判所の判断能力も十分である。 したがって、精神的自由権は経済的自由権より厳格な基準で判断すべきである。 厳格な基準として、まず事前抑制の理論が挙げられる。これは、表現活動を事前に抑制する立法は原則許されないとする理論である。 事前抑制は抑止的効果が大きく、しかも、明確な基準・手続が定められていないので、濫用の危険性が高いからである。 一方、中間的な基準として、より制限的でない他の選びうる手段の基準がある。 これは、目的は正当と認められる場合に用いる基準であり、必要最小限度の規制手段を要求する基準である。表現の時・所・方法に関する規制の合憲性を検討するに有用な基準といえる。 【論点】検閲の定義(主体を公権力とする考え方) 検閲の定義をいかに考えるべきか。 まず、その主体は、比較憲法的観点からして行政権に限らない公権力ととらえるべきである。さらに審査の対象は、表現行為への萎縮的効果を避けるため、広く表現内容全般と捉えるべきである。 さらに、検閲の時期は、知る権利を保護するため、受領前に重大な抑止的効果を及ぼすような規制を検閲の問題とするのが妥当である。 【論点】検閲の定義(主体を行政権とする考え方) 検閲は、表現の自由に与える影響の重大性、抑止的効果の大きさから、絶対禁止と考えるべきである。ただ、絶対禁止と考える関係から、検閲の主体は行政権であると考えるべきである。 かかる結論は、歴史的沿革・本来の語義からも明らかである。また、手続保障が十分でなく、表現への影響が大きいと考えられるのは行政権による事前抑制であることからも是認できる。(検閲の対象・時期は上の論証と同じ) *判例による検閲の定義 行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること(税関検査最高裁判決) 【判例】北方ジャーナル事件 事例 特定人の名誉を毀損するおそれある記事 → 仮処分による発表の事前差止 検閲の主体は行政権であるから、本問のように裁判所が表現行為に対して事前抑制をする場合は検閲の問題ではない。実質的にも、裁判所による事前抑制は、行政権による事前抑制に比較し、公正な手続と厳正な要件の下に行われるものである。したがって、一切許されないわけではない。 ただし、事前抑制を安易に認めることは当然許されず、あくまで厳格な要件を満たした場合のみである。 ここに厳格な基準とは、@表現内容が真実でないか、又はそれがもっぱら公益を図る目的のないことが明白な場合であり、A被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるとき、の二要件をもってそれとするのが妥当である。 【判例】岐阜県青少年保護育成条例 事例 青少年の健全な育成を阻害するおそれがある図書を知事が有害図書に指定 青少年への販売・自動販売機への収納を禁止する 本問規制は未成年者の閲読の自由を制約すると同時に、成年者の閲読の自由も制約するものである。そこで、本問のような制約立法が憲法上許されるのか。 思うに、表現の自由は自己実現、自己統治の価値が支える重要な権利である。しかも、いったん表現の自由に対して不当な制約がなされるならば、回復は困難である。 したがって、表現の自由への制約立法は厳格な基準で判断されるべきである。 まず、本規制は有害図書の閲読を制約するものである。しかし、何が有害図書であるのかについて、その基準が明確になされないまま、かかる規制が行われるならば、表現行為に対し萎縮的効果が及ぶことは十分考えられる。このような場合は憲法上許されない事前抑制ということができる。 それに対して、基準が明確であり、有害図書の範囲が限定されているならば、事前抑制に当たるとまではいえないと解する。 しかし、このような規制が合理的であるか否かは、別に検討すべきである。具体的には目的が必要不可欠であり、他に選びうるより制限的でない手段が存在しないことが必要であると考える。 まず、目的は未成年者の自己加害防止である。性的、または暴力的表現が未成年者の成長に悪影響を与えることは社会共通の認識といってよい。したがって、目的は必要不可欠といえる。 また、自動販売機による購入は心理的に禁止されるべき書籍の入手を容易にするものである。さらに自動販売機が未成年者か否かを判別できない性質からして、有害図書の自動販売機への収納は禁止せざるを得ない。 したがって、本問立法は21条1項に違反するものではないと解する。 また、条例によって地域によって異なる規制に服せしめることは、平等を害するとも考え得る。しかし、憲法が条例制定権(94条)を各地の地方自治体に与えた時点で、かかる事態を憲法は予定していると見るべきである。 もっとも、かかる地方的格差も全く不合理なものであってはならないのは勿論である。 【判例】税関検査 「公安又は風俗を害すべき書籍」を輸入してはならない」との規定に基づいて、税関は書籍等を一般的、網羅的に検査するなど、国内では到底許されない表現物の事前抑制を行っている → 違憲ではないのか? 判例は本問立法を、審査の目的が思想内容の審査にあるのではないとして、検閲ではないとした。しかし、右の論法からすると、まさに思想内容の当否を調査とするような制度でない限り検閲にあたることはなくなる。これは検閲の範囲として狭きに失し妥当でない。 そもそも、表現の自由の価値を守るためには、目的が何であれ、行為の結果いかなる影響が表現の自由に及ぼされるのかを問題にすべきである。 また、表現物は国外で発表済みであるとするが、現代においては、検閲の禁止は知る権利を中心に捉えるべきである。したがって、検閲でないというには、日本国内で発表する機会が与えられる必要がある。 さらに、司法審査の機会が与えられるという理由であるが、行政処分に司法審査が及ぶのは当然であるから、行政処分を正当化する理由にならない。 したがって、判例の見解は失当の批判を免れない。 【判例】教科書検定 教科書 → 検定不合格処分 まず、教科書検定が検閲にあたるか。 思うに、いかなる形式で出版を行うのかという点も表現の自由の一内容である。したがって、教科書という形での出版が禁じられるのみであるとの一言をもって検閲でないとはいえない。 本問の場合、教科書としての出版を一切禁じられるのであるから、その抑止的効果は大きい。のみならず、検定不合格となった出版物の出版を引き受ける出版社が事実上皆無である。 とすると、教科書検定は検閲にあたる可能性がある。 しかし、国家は必要かつ相当な範囲で教育内容を決定できる。一定の教育水準の確保のためである。そのために教科書の内容を審査することは必要である。 ただし、そのような審査は、誤植や、造本など技術的なもの、さらに教育課程の大綱基準の範囲内にあるかなど審査範囲を限定してはじめて認めうるものである。 逆に、教科書検定が広範な思想内容の網羅的審査をなすものであるならば、違憲であるといわざるをえない。 【論点】明確性の理論 1、明確性の理論とは、精神的自由を規制する立法は明確でなければならず、不明確な法令を違憲無効とする理論である。 明確性の理論の内容として、まず「漠然性故に無効」の場合が挙げられる。これは、法文が不明確ならば、許される行為まで差し控えさせ、表現の自由に萎縮的効果を与えるからである。 さらに、「過度の広汎性の故に無効」な場合が挙げられる。これは、規制の範囲があまりにも広汎な立法によるならば、許される行為まで処罰の対象になるからである。 2、明確性の理論に反した法文であるか否かはいかに判断すべきであろうか。思うに明確性の理論が、不明確な法文を違憲であるとするのは、表現の自由へ萎縮的効果が及ぶことを避ける点にある。 したがって、そのような効果が現実に生じる法文であるか否かをもって、本原則違反の有無を判断するのが妥当である。具体的には、通常の判断能力を有する一般人が、当該具体的場合において、禁止される行為か否かを法文から判断できるか否かによって決すべきである。 【論点】明白かつ現在の基準とLRAの基準 明白かつ現在の危険の基準とは、次の三要件からなる基準である。すなわち、@実質的害悪を引き起こすことが明白であることA実質的害悪が重大で、時間的に切迫していることB当該規制手段が害悪を避けるのに必要不可欠であることである。 右基準は、以上を立法府が証明できなければ違憲無効とする非常に厳格な基準である。表現の内容を直接に規制する法律に対して用いる基準ということができる。 「より制限的でない他の選びうる手段」(LRA)の基準は目的は正当と認められる場合に用いる必要最小限度の規制手段を要求する基準である。 したがって、右基準は手段表現の時、所、方法などに関する規制の合憲性を検討するに有用である。 *LRA … less restrictive alternative 【論点】内容規制と内容中立規制 内容規制とは、ある表現が伝達する内容を理由に制限する規制である。一方、内容中立規制とは、表現が伝達するメッセージの内容に関係なく制限を及ぼすものである。 思うに、内容中立規制にあっては、表現者は同様の内容を他の場所・時・方法によって表現できる。 その意味で、表現の自由に与える抑止的効果は低いから、合憲性の判断も、内容規制に比較して緩やかになしてよいと解する。 *右区別に反対する説 (かかる区別に基づき、後者は前者に比較して緩やかな基準を持って判断してよいとする見解がある。 しかし、両者を明確に区別できない場合があるのみならず、表現を全うするには、表現手段もまた重要な要素をしめるものである。 にもかかわらず、後者に緩やかな基準を用いて合憲性を判断するならば、表現の自由を実質的に称することは不可能となるおそれがある。 したがって、原則このような区別をすることなく、表現の自由への規制立法へは厳格な基準を持って臨むべきである。) 第五章 経済的自由権 【論点】経済的自由権の合憲性判定基準 経済的な権利行使を自由に放置する場合、国民の生命・健康に害悪をもたらすおそれがある。しかも社会国家の理念の実現の要請があるので、経済的自由権は制約の必要性が高い。 また、経済的自由権に不当な制約が加えられたとしても、民主政の過程で回復可能である。 したがって、経済的自由権は、一般に精神的自由権に比較して強度の制約を受けると考えるべきである。 それでは、いかなる判断基準を持って、経済的自由権に対する制約立法の合憲性を判断すべきか。 思うに、経済的自由権と言っても、様々であるから、場合によって分類して検討すべきである。 具体的には、消極目的規制については、伝統的な警察比例の原則が働くので、比較的厳格な基準によるべきである。すなわち、合憲というには、立法目的が必要かつ合理的であり、目的達成手段については、同じ目的を達成できるより緩やかな手段があるか否かによって判断すべきである。 一方、積極目的規制については、福祉国家理念の実現のため、広範な規制が要求される。したがって、立法目的が正当でないか、著しく不合理であることが明白であって初めて違憲とするべきである。 しかし、規制目的がいずれであるか一律に分類できない規制立法も存する。そのような場合は、さらに規制態様など、他の観点も加味して、その合憲性を判断するのが妥当である。たとえば、届出制・許可制の区別がある場合、一般に許可制の方が制約の度合いが強いので違憲の可能性が強いとのごとくである。 一 職業選択の自由 【論点】営業の自由は認められるか 営業の自由は憲法上保障されるか。明文なく問題となる。 思うに、職業選択の自由を認めてもそれを遂行する自由を認めなければ、職業選択の自由を保障した意味がなくなる。 したがって、営業の自由は22条1項で保障されていると解する。 【判例】小売市場距離制限判決 事案 小売店舗の開設を許可する条件として適正配置を要求 思うに、経済的自由権は公共の安全、福祉の観点から制約の必要性が高い。しかも精神的自由権と異なり、経済的自由権に不当な制約がなされたとしても、回復は比較的容易である。 したがって、かかる経済的自由権への制約立法に関する合憲性の判断は、精神的自由権に比較して緩やかに行うべきである。 さらに、経済的自由権といっても様々であるから、制約目的の如何によって判断基準を区別すべきである。 本問のような社会的弱者保護のための積極目的の規制について合憲性を判断する際には、専門・技術的判断が必要であるが、裁判所はそのような能力が不足している。したがって、比較的緩やかな基準で判断すべきである。具体的には目的が正当であり、手段が著しく不合理であることが明白でない限り合憲とすべきである。 本問立法の目的は、小売商の過当競争による共倒れ防止にあるから、かかる目的の正当性は認めてよい。 さらに、かかる目的達成の手段としての距離制限は特に不合理なものとはいえない。 したがって本問立法は合憲というべきである。 【判例】薬事法距離制限違憲判決 事案 薬局の開設に適正配置を要求 目的が国民の生命・健康に対する危険を防止することにある消極目的規制については、警察比例の原則から、厳格な審査基準をもって判断すべきである具体的には目的の重要性と、目的と手段との間の実質的な合理的関連性の有無を審査するのが妥当である。 本問立法は不良医薬品の供給防止にあるから、消極目的に属する規制である。かかる目的自体は重要であるといえる。 しかし、過当競争が不良医薬品の供給につながるとの論法に合理性はない。 したがって、本問立法は違憲である。 *消極目的規制には厳格な判断基準をもって判断することを明らかにした判決 【判例】公衆浴場距離制限判決 事案 公衆浴場の開設に適正配置を要求 本問のような公衆浴場に適正配置を要求する立法の趣旨は、過当競争による衛生設備の低下が国民の健康に悪影響を及ぼすことを防止する点にある。それと同時に、自家風呂の普及によって経営基盤が弱体化し、転廃業も難しい公衆浴場業者を保護する目的を併有すると見るべきである。 このように消極目的・積極目的が併有されている場合、いかなる合憲性判定基準を用いるべきか。 思うに、規制目的二分論は、多様な経済的自由権への規制をたった二つの基準で捕捉しようとした点に無理があるといえる。そこで、審査基準に規制態様など他の要素を加味して、合憲性の判断基準を考えるべきである。 本問の規制は、本人の力ではいかんともしがたい条件であるといえる。このような規制に対しては、厳格な基準を持って臨むべきであると解する。 具体的には、目的が重要であり、目的と規制手段との間に実質的関連性があることを要求すべきであると解する。 右基準を持って本問を見るに、目的については公衆衛生、弱者保護ともに重要なものといいうる。それに対して、手段として距離制限を行うことは、過当競争を避け、既存の公衆浴場の経営を守ることになる。したがって、目的と手段の間に実質的な関連性があるといってよい。 したがって、本問立法は合憲であると解する。 【判例】酒類販売の免許制 事案 酒類販売業の免許制は合憲か 本問立法は租税立法である。かかる立法の定立には、専門的・技術的知識を要求されるので、立法府に広い裁量が認められるというべきである。 したがって、判断基準は緩やかな判断基準を用いるべきである。すなわち、目的が正当であり、手段が目的達成のために不合理であることが明白でなければ足ると解する。 本問立法の目的は酒税の確実な徴収にあり、正当な目的といいうる。 一方、手段として、自由への制約の度合いが大きい許可制を採っている点は問題である。しかし、酒類は致酔性があることを考えあわせると、酒類販売業は規制・管理の必要性が大きい。 したがって、許可制は目的達成のため不合理であるとまではいえない。 以上から、本問立法は合憲である。 二 居住・移転の自由 【論点】海外旅行の自由〜22条2項説(判例) 海外旅行の自由は憲法上認められている権利か。 思うに、海外旅行は外国移住と類似する。そこで、1項は国内、2項は外国に関する規定と考え、22条2項によって海外旅行の自由は保障されていると解する。 【判例】帆足計事件 事案 戦時下、モスコー(モスクワ)会議出席のために旅券を申請したが、発給を拒否される まず、海外渡航の自由は22条2項によって保障されていると解する(論証は右)。 かかる海外旅行の自由は特に、知的接触の機会を求める手段である点にその意義を有する。したがって、右権利には、精神的自由権に準じた保護を与えるべきである。したがって、制約立法は厳格な判断基準をもって判断すべきである。 具体的には、本問で問題となる条文は「著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為」を旅券の発給拒否の対象としている。かかる文面は、漠然故に無効といえないか。その判断基準が問題となる。 思うに、漠然とした文面の法によれば、運用いかんによって許される行為まで処罰できる可能性がある。この点に不明確な法文の問題点があるから、そのような可能性が高いか否かによって、条文の有効性を判断すべきである。 思うに、旅券は渡航許可証ではないから、あくまで発給されるのが原則である。とすれば、よほどのことがない限り、旅券は発給しなければならない。発給不許可にできる場合は、犯罪行為を行う危険性が極めて顕著な場合等に限るべきである。 右法文はそのような限定を何も施していない。したがって、文面上違憲無効というべきである。 三 財産権の保障 【論点】2項と3項の関係・補償について まず、どのような場合に補償を要するのか。 この点、2項による制約は法律による一般人への制約であり、3項による制約は特定人への制約をさすと考え、2項の場合が補償が不要であり、3項の場合が補償が必要とする見解がある。 しかし、規制対象が一般人であっても、補償が必要な場合はあるから右基準は妥当でない。 思うに、2項と3項は分離して考えるべきではなく、一体として捉えるべきである。したがって、補償の要否はもっぱら実際に補償が必要か否かという実質的要件だけで判断するのが妥当である。 具体的には、財産権の剥奪、本来の効用の発揮を妨げるような侵害がなされる場合には、特段の事情がない限り補償が必要とすべきである。一方、その程度にいたらない規制のうち、社会的制約として受忍すべき範囲のものについては、補償不要とする。一方、本来の効用とは無関係になされる規制の場合は、権利者が受忍すべきものではないから、補償が必要と見るべきである。 【論点】29条3項について、どの程度の補償が必要か(「正当な補償」とは)。 思うに、公の利益のためなされた個人の財産権への制約は、全国民の負担に転嫁させることが平等原則の観点から望ましい。 29条3項が正当な補償を要求した趣旨はこの点に求めることができる。このような趣旨からすると、、当該財産の客観的な市場価格を全額補償すべきであると解する。 【論点】生活権補償 29条3項によって財産権を制約された結果、生活の場を変更せざるを得ない場合がある。このような場合、同じ生業を営めなくなるが、その点についてまで、補償は必要とすべきか。 思うに完全補償を要求する趣旨から、かかる生活権の補償も憲法上の要請と見るべきである。 ただし、その補償の程度・方法は29条3項の条文からは読み取ることは不可能である。したがって、具体的な生活権の補償を受けるには、立法を待つ必要があると解する。 【論点】予防接種禍 事案 予防接種の副作用で死亡 → 損失補償請求はできないか。 思うに、29条3項の趣旨は、公の利益のためなされた個人の財産権への制約を、全国民の負担に転嫁させることが平等原則の観点から望ましい点にある。 そして、身体は財産よりも重要な利益であるといえるから、身体へ加えられた不利益を甘受する理由はない。 予防接種はまれに副作用が発生することが分かりつつも、伝染病防止という公の利益にそぐうべく接種が行われるものである。とすると、発生するとされる副作用によって不利益を被った者には、その損失を補償しなければならないというべきである。 したがって、身体は財産ではないが、29条3項を類推して、補償を認めるべきである。 【判例】森林法共有林分割制限違憲判決 事案 共有林の分割制限 → 過半数の持分を有しないと分割できないとする立法の合憲性 本問立法は共有物分割の自由を制約するものであり、財産権(29条1項)を制約するものである。かかる制約は合憲か。 思うに、財産権は国民の健康・安全を守るためのみならず、福祉国家の理念達成のためにも制約される可能性がある。 かかる趣旨を公共の福祉と表現し、立法による制約可能性を認めたのが29条2項であると解する。 しかし、かかる制約立法の目的は様々あり、立法の合憲性判断基準を一義的に定めることはできない。また、国民代表機関である立法府の判断を原則は尊重すべきである。 したがって、立法の必要性・合理性に欠けていることが明らかな場合に初めて違憲判断を下せると解するべきである。 具体的に、本問立法の目的は、森林経営の安定に求められ、必要なものといいうる。 しかし、手段として、森林の範囲、期間の限定がなく分割制限を定めている。価額賠償によれば合理的分割が可能であるにもかかわらず、右のような広範な規制をなすことには、必要性・合理性がないというべきである。 したがって、本問立法は違憲である。 第六章 人身の自由・国務請求権・参政権 一 適正手続 【判例】適正手続の内容〜第三者所有物没収事件 事案 貨物の没収処分の対象に、第三者の財産が混じっていた → 第三者に財産権擁護の機会(告知・聴聞)を与えないでいいのか? 思うに、被告人に対する没収により、第三者の所有権が剥奪される効果が生じることは明らかであり、この点は考慮しなければならない。 したがって、第三者にも事前に告知、弁解防御の機会を与えるべきである。 もしも法文にそのような手続が何ら定められていないとすれば、適正手続の要請(31条)、財産権保護の要請(29条)などに反し、立法は違憲無効といわざるを得ないと解する。 【論点】31条と行政手続 31条は「その他の刑罰を科せられない」としており、刑事手続の規定であるということができる。とすると、適正手続の要請は行政手続には及ばないのか。 思うに、資本主義の発達に伴い発生する矛盾を回避するため、積極国家の理念が要請される。そのため、行政権の役割が飛躍的に増大し、反面として行政手続による人権侵害の危険が顕著になっているといえる。また、行政手続でも場合によっては、刑事手続と異ならない人権侵害を伴う場合もある。 したがって、行政手続にも31条を準用すべきである。 ただし、行政手続と一口に行っても様々な種類があり、中には迅速性を要求されるものも多い。したがって、行政手続の種類ごとに、行政の円滑な運営の利益と適正手続とを調整を施すことが必要であると解する。 【判例】川崎民商事件 事案 税務署の質問検査権に基づく調査 → 令状主義、黙秘権の保障に反しないのか 思うに、35条・38条の要請は原則行政手続にも及ぶと解すべきである。 しかし、行政手続にも様々な種類があるから、その保障の程度は各行政手続ごとに個別的に考えるべきである。 ここに税務署の質問検査権について考えると、刑事責任追及のための資料の取得収集に直接結びつく作用を有するものではない。 また、強制の度合いも低いし、実効性のある検査制度たるにはかかる制度の存在は必要不可欠である。 したがって、税務署の質問検査権は合憲である。 三 参政権 選挙に関する基本原則 【論点】間接選挙・複選制の合憲性 間接選挙とは、有権者がまず選挙人を選定し、選挙人が候補者から選挙する選挙の方式をいう。 かかる制度は国政レベルの政治担当者の選出の際には、一定の合理性を有する。選挙人の方が政権担当者としての適格者の判断能力が一般に優れていると見うるからである。 一方、複選制とは既に選挙で選ばれた者が選挙を行うものである。 かかる制度によれば、選挙時の民意を反映できず、民意と代表者意思との食い違いが不当に拡大する。 したがって、複選制は憲法上認められないと解する。 【論点】議員定数の不均衡 事案 議員定数の配分が不均衡をきたし、投票価値が不平等となっている状態は違憲ではないか 1 まず、投票価値の平等が憲法上の要請か否かが問題となる。 思うに、個人の持つ投票価値が不平等であれば、実質的に一人一票の原則に反する結果となる。 したがって、投票価値の平等もまた、憲法上の要請と考えるべきである。 2 それでは、かかる投票価値を不平等とする選挙区割を定める法令について、合憲性判定基準をいかに考えるべきか。 思うに、選挙権は民主政を支える重要な基本権であるから、精神的自由権と同様の厳格な審査に服すると見るべきである。 その上で、どの程度の格差が生じた場合違憲となるかが判断なされねばならない。 まず、選挙権における平等の意味は、形式的平等を意味すると解すべきである。平等選挙の原則は、個人の価値が平等な点から導き出されるものであるからである。 ただし、選挙区割については技術的要請も無視できない。したがって、完全な平等を達成することは不可能である。 以上から、本場面で要求される平等が形式的平等であることを重視し、二対一以上の格差は違憲であると解するべきである。 3 それでは、かかる基準に照らし違憲となった選挙区割に基づいて行われた選挙は無効とすべきか。 もしも選挙を無効とするならば、その影響が過大にわたるばかりでなく、新たな選挙区割を定めた立法をすべきものがいなくなる。 したがって、選挙自体は無効とせず、事情判決として選挙区割の違憲無効を宣言するにとどめるべきであると解する(行政事件訴訟法31条参照)。 (是正しなかったことについての国会議員の責任の問い方は、立法不作為の問題として、後に述べる) *衆議院と参議院で考え方を変える 思うに、衆議院はもっとも最新の民意を反映せねばならない。一方で、参議院は安定した民意を反映することが要求されるし、半数改選の制度が取られていることから、技術的要請も無視しがたい。 したがって、参議院における格差の広がりは比較的是認しやすいと解すべきである。 【論点】選挙運動の自由 公正な選挙の確保のために選挙運動については一定の制約を行う必要がある。 しかし、選挙運動の自由は表現の自由(21条1項)で保護される。かかる自由は、表現の自由の自己統治の価値が端的に現れる場面であるから、最大限の保障が与えられねばならない。 したがって、制約については厳格な基準で合憲性を判断しなければならない。 例えば、戸別訪問の禁止は合憲か。 判例は、立法理由を戸別訪問が不正の温床となることを防ぐ点にあるとする。また、戸別訪問は有権者にとって迷惑であり、候補者の側にとっても過大な費用がかかるとしている。 しかし、個別訪問が不正の温床になるか否かを立証する事実はない。また、有権者にとって迷惑になる点も時間制限で対処できる。また、費用がかかる点については、あくまで候補者の側の問題であるから、立法によって禁止してまで配慮すべきことではない。 そもそも戸別訪問は資金のない候補者が、自分の体だけでなしうる重要な選挙運動の手段である。かかる点も考慮し、戸別訪問の禁止は、違憲であると考えるべきである。 第七章 社会権 一 生存権 【論点】25条の法的性格 25条の法的性格をいかに解すべきか。 この点判例は、25条は国家の努力目標を示したにすぎず、当該規定に法的拘束力はないとする。しかし、かかる解釈は25条がわざわざ権利として明示して生存権を保障しようとした意味を無にするものである。 したがって、あくまで生存権は法的権利と認めるべきである。しかし、生存権の内容は抽象的であり不明確である。 以上から、25条は法律による具体化をまって初めて裁判規範たりうる抽象的権利であると解する。 【論点】25条1項と2項の関係 25条1項は右に述べたように生存権を権利として、保障した規定である。2項はそれを受けて、生存権の実現を国に責務として課す規定であると解する。 【論点】堀木訴訟 事案 障害福祉年金と児童扶養手当との併給禁止 → 児童扶養手当の受給申請を却下 右のような併給禁止規定は、生存権の保障義務に反し、25条違反となる可能性がある。また、本問児童扶養手当の不支給は、障害福祉年金受給者を不当に差別するものとして、14条違反を構成する可能性もある。 それでは、かかる併給禁止規定の合理性をいかなる基準で判断すべきか。 思うに生存権はまさに生きる権利そのものであることからすれば、生存権の制約にかかる立法については厳格な基準で判断すべきである。 具体的には目的が重要であり、かかる目的と手段との間に実質的な合理的関連性があるか否かをもって判断すべきである。 本問併給禁止規定の目的は、財政の適正な運営であり、その目的は重要であるといいうる。しかし、その手段として、併給を禁止することが合理的か。 思うに、障害者は障害者年金によって最低限度の生活が保障されたと見ることができる。同様に、寡婦(かふ)である場合は児童福祉年金が支給されて初めて生活が保障されたと見るべきである。したがって、その併給を禁ずることは二重のハンディを持つものにとって不合理な取扱をなすものと見るべきである。 したがって、本問のような併給禁止規定は、違憲無効というべきである。 【論点】生存権について不作為立法 問題点 裁判所への救済を請求できるか? (抽象的権利説を前提に → 本来は、25条の法的性質と立法不作為の救済方法とは論理必然の関係にはないが、一応前提として論じておくこと)。 それでは、不作為の違憲確認訴訟は認められるか。 この点、かかる形態の訴訟を認める規定が現行法上存在しない。しかも、かかる訴訟が認容された場合、判決にいかなる効力を認めるかが問題である。すなわち、判決に法的効果を持たせ、立法の義務づけを命ずるものであるならば、国会の立法権を侵害するおそれがある。一方、単に違憲であることを確認するだけであれば、何の救済効果もなく、意味がない。 したがって、かかる形態の訴訟は認められないと解する。 それでは、国家賠償請求は認められるか。 思うに、その時点における最低限度の生活といったものがいかなるものであるかについてはある程度客観的に定めることができる。 このことからすれば、立法によって実現されている現状が客観的基準から著しく逸脱していると思われている場合には、社会的弱者側に損害を観念することができると解する。 しかし、そのような状態にあれば直ちに立法不作為を違憲とするならば、国会に無理を強い、やはり立法権を侵害するおそれがある。 したがって、一定の要件をもって国家賠償請求をなし得る場合を限定すべきである。具体的には@立法をなすべき義務があることが明白であることに加え、A義務が発生したときから現在までに立法措置をなす合理的期間が経過したことを要求すべきである。 二 教育を受ける権利 【論点】教育を受ける権利(26条)の内容 26条は、国民各自が自己の人格を完成するために必要な学習をする権利を有することを明らかにしている。 のみならず、子供が教育を施すことを大人に対して要求する権利まで保障していると解するのが妥当である。2項はこのような子供学習権を受け、大人に教育をその子弟に施す義務を課したものである。 【論点】教育内容の決定権は誰が握っているのか まず、教育の自主性が確保されるべきであるし、教育の義務(26条2項)を果たす手段として、親及びその委託を受けた教師に子供への教育権があることは間違いない。 しかし、義務教育では、一定水準の教育内容が確保されなければならない。しかも児童生徒には教育内容を批判する能力がないし、学校・教師を選択する余地も乏しい。 したがって、親・教師に教育の自由を全面的に認めることはできない。必要かつ相当と認められる範囲において国家は教育内容について決定できると解すべきである。 三 労働基本権 【判例】内部統制権と立候補の自由〜三井美唄(びばい)炭坑事件 本問では団体の内部統制権と、構成員の立候補の自由が対立している。立候補の自由は、内部統制権の効果として、制約をされざるを得ないのか。 確かに、内部統制権は、使用者との対等な地位を労働者が確保するために不可欠な権利であるから、強度の保障が与えられるべきである。 一方、立候補の自由は選挙権と表裏をなす権利であるから、15条によって保障される。かかる権利は民主政の過程を支える重要な権利であるから、その保障もまた最大限度なされねばならない。 このように、いずれも重要な権利である以上、いずれが優先するかは、比較衡量によって決すべきである。 以上をもって本問を検討すると、立候補を思いとどまるよう勧告又は説得をなすことは正当な統制権行使の範囲に止まりうる。しかしその域を越え処分をすることは立候補の自由を過剰に侵害するものであり、許されないと考えるべきである。 第三部 統治機構 【論点】権力分立の原理 権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別・分離した上で、相互に抑制と均衡を保たせる制度をいう。 国家権力が単一に集中した場合、権力の濫用のおそれが大きくなる。その結果として人権侵害がなされることを防ぐ点に権力分立の目的がある。権力分立の原理は、国家権力による権利侵害の防止という観点から、自由主義的原理といいうる。 しかし、権力分立の原理は現代国家においては、当初の形態から大きく変容されている。 まず、現代社会においては、福祉国家の理念の実現のため、行政府の活動が飛躍的に増大している。それに伴い肥大化した行政府が、国家の政策決定において事実上中心的な役割をなす行政国家の現象が顕著になってきている。 さらに政党の発達によって、政党が国家意思形成に事実上中心的な役割を果たすようになっている。この結果、国会による行政監督という建前と事実との不一致が目立つ結果となっている。 第一章 国会 【論点】司法消極主義か司法積極主義か 法は国民代表機関たる国会によって制定される。一方、裁判所は制度上国民からもっとも独立した地位にあるから、裁判所は国会の立法を原則尊重しなければならない。 しかし、精神的自由権・選挙権については、民主政の過程の一部をなすので、いったん制約されると回復されがたい。また、多数の論理が支配する政治過程では、少数者の人権が救済されにくい。 そこで、精神的自由権・選挙権・少数者の人権を制約する立法については、裁判所は積極的に違憲審査しなければならないというべきである。 3 政党 【論点】政党 政党とは、政治上の意見を同じくする者が政治権力に参加し、意見を実現するために結成する集団である。 政党は私的結社ながら民意を統合・媒介・実現する機能を営むから、議会制民主主義においては不可欠の存在であるといえる。特に議院内閣制では、議会と内閣の協働を可能にする。この意味で公的側面が強い団体である。 【論点】政党は憲法上いかに扱われているか 政党は民意を媒介し、実現する役割を果たす以上、議会制民主主義を支える不可欠の要素というべきである。 そして、日本国憲法が議院内閣制を採用している以上、(66条3項・67条等)憲法は政党を当然のものとして予想していると見るべきである。 【論点】政党法の制定は合憲か 政党は本来私的結社である。しかし、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素であるから、公的側面が強い。したがって、通常の私的団体に対するよりも、もっと強度の制約をなし得ると考えられる。 例えば、@党内部秩序は民主的でなければならない、A資金の出所及び使途について公的に報告しなければならないなどといった内容の政党法を制定することは合憲か。 思うに、右規定に関して法的義務を課すと、政党の健全な発展を侵す虞がある。また、かかる立法は大政党が少数党を侵害する手段となる可能性もある。 したがって、原則として法的義務を課すものでなく訓示的なものに止まるべきと解する。 ただし、政党の資金関係についての規制は、国政の民主化、政治腐敗の防止という重要な目的を達成するためのものである。また、罰則がなければその実効性は疑わしい。 したがって、罰則の適用を含め、政党に法的義務を負わせるものであっても合憲であると解する。 二 国会の地位 1 国権の最高機関と唯一の立法機関 【論点】立法の意味 41条の立法の内容をいかに解するべきか。 これを法律をさすものとする見解がある。しかし、国会の定立する法が法律である以上、同義反復になり、41条が無意味な規定となるので妥当でない。 また、法の意味を国民の権利・義務を定める法規範に限定する見解もある。しかし、民主的責任行政の確保のため、行政組織についても法律で定める必要性があるというべきである。 したがって、立法の「法」とは、一般的抽象的法規範をさすと解するのが妥当である。 【論点】国会中心立法と政令との関係 一 政令と法律の関係についていかに考えるべきか。「唯一の立法機関」(41条)、特に国会のみが法を定立できるとする国会中心立法との関係で問題となる。 1 まず、明治憲法下で認められていた独立命令、緊急勅令については、日本国憲法上は認められない。いずれも国会中心立法の原則に正面から抵触するからである。 2 それでは、法律を執行するための命令としての執行命令であるが、73条6号からそれが認められるのは明らかである。しかし、条文上「この憲法及び法律を執行するため」とあるから、憲法を直接執行する命令は許されるか。 思うに、そのような命令を認めるならば、内閣に立法権を認めるも同然の結論になる。あくまで、「憲法及び法律」とは、一体として把握すべきであると解する。 したがって、かかる執行命令は認められないと解する。 二 1 一方、立法が一定事項の定めを政令に委任する、委任命令は認められるか。 思うに、73条6号但書は、罰則すら法律の委任があれば制定しうると読める。しかも、専門的・技術的立法の必要性から、一定の事項に関する規範の定立を専門技術的知識に優れた内閣に委任することは合理的ですらある。 したがって、委任立法は憲法上認められると解する。 2 ただし、無条件に委任立法を認めるならば、国会中心立法の定めを無意味にするおそれがある。したがって、委任の程度は個別的・具体的でなければならない。白紙委任は当然に許されない。 また、罰則の委任の際には、罪刑法定主義(31条)の要請から、一般の事項を委任する場合と異なり、特に厳重な要件の下で許されると解すべきである。 具体的には、立法の目的、概括的構成要件、刑の範囲が定められる必要があると解する。 また、再委任は許されるか。再委任では、委任者と最終的な受任者との意思の隔絶が大きくなるから、望ましいことではない。したがって、やむを得ない合理的理由ある場合に限って認めうるに過ぎない。 認められる際にも、受任者の裁量の余地を厳しく限定する事が必要である。 【論点】内閣の法案提出権を憲法上認められるか 内閣の法案提出権は憲法上認められるか。 思うに、立法過程の核心は、法の審議・可決の点にあり、法案提出権はその前提に過ぎない。そこで、国会の審議権が確保されていれば、国会単独立法の原則に反しないと解する。 また、法案提出権を認めたところで、内閣の構成員が国会議員として法案を提出できるから否定したところで意味はない。 したがって、内閣に法律案提出権を認めるのは憲法に反しない。 2 国民の代表機関 「全国民を代表する…議員」の意味 【論点】自由委任と党議拘束 *党議拘束 … 議員が党の指示にしたがって行動すること 43条は議員を「全国民の代表」と位置づけ、議員が特定の選挙母体の意思には拘束されないことを明らかにしている。党議拘束はかかる自由委任の原則に反しないのか。 思うに、国民主権(前文1段・一条)の意味を無にしないため、自由委任の原則の下であっても、事実上選挙民の意思と代表者意思との一致は要求されていると考えるべきである。 そして、政党は国民意思を統合・実現する機関である。とすれば、党議拘束を認めることは、かかる半代表の概念に適合し望ましいともいえる。 ただし、あくまで自由委任が原則であるから、党議拘束違反に法的責任を負わせる効果は認められないと解するべきである。 【論点】比例代表制と自由委任 比例代表制の下では有権者は政党に投票し、得票率に応じて政党に議席を割り振ることになる。 とすると、議員たりうるには、政党員でなければならず、当選後政党を何らかの理由で離脱した場合、この者は議員たりえないとも考えうる。 しかし、議員の資格喪失という法的効果を政党員たる資格の喪失と結びつけることは、憲法上の自由委任の原則に反する。特に、政党を除名された場合に右のような法的効果を結びつけるならば、党員への不当な拘束を許すおそれがある。 また、党が選挙時から政策を転換した際、本来の政策を実現するため党を離脱する道を議員に認める必要もある。 したがって、かかる場合も議員はその地位を喪失しないと見るべきである。結局、議員の地位は政党を除名された場合、自ら党籍を離脱した場合のいずれであっても結論に違いはない。 三 国会の組織と活動 2 選挙制度 【論点】在宅投票制度の廃止 選挙制度は47条から法律事項とされている。しかし、その際立法府の裁量の範囲をいかに考えるべきか。 思うに、選挙権について、国家の機関を選ぶ公務という性格は否定できない。しかし、選挙権は民主主義を支える重要な基本権である。すなわち、選挙権は公務であると同時に権利であると考えるべきである。 したがって、選挙に関する立法について国会の裁量は全くの自由ではない。むしろ、権利である点を重視し、立法の合理性は厳格に判断すべきであると解する。 それでは、在宅投票制度の廃止は違憲か。 本制度廃止の目的は不正の多発を是正する点にある。しかし、かかる目的は、個別的対応で達成できる。 思うに、身体障害で投票に出かけることが困難な者にとって、投票現場自署主義を徹底することは選挙権が奪われるに等しい結果を招く。身体障害ある者にも健常者と比較して、平等に選挙権を行使する機会をあたえるべきである。 以上から、在宅投票制度の廃止は、違憲であると解する。 3 国会議員の地位 免責特権 【論点】犯罪行為と免責特権 事案 国会議員が委員会開催中に傷害した場合 国会議員には免責特権が認められる(51条)。 同条の趣旨は、自由委任の原則(43条)を受けて、議員活動の自由を確保する点にある。 かかる趣旨からして、右特権の対象となる行為は、51条所定の行為のみならず、議員活動に付随する行為まで含まれると解するべきである。 しかし、本件議員の行為は暴力行為であるから、かかる行為が職務行為の範囲に含まれるとは言い難い。したがって、かかる犯罪行為は免責特権の対象とならない。 この場合、議院が議員を特に告発しない場合でも、議員の刑事責任を追及することは可能か。議院内の議員による犯罪について、議院の告発が刑事裁判の訴訟要件となるかが問題となる。 思うに議院の告発を訴訟要件とするのは、議員に一般国民とは異なる特別な取扱いをすることになる。 法的根拠もなく、新たな特権を議院及び議員に認めるべきでない。 したがって、裁判に議院の告発は必要ないと解する。 【論点】免責特権にあたる行為は国家賠償の対象となるか。 議員が演説で名誉毀損的発言をした場合、免責特権の対象となる。51条の「演説」にあたるからである。しかし、名誉毀損的発言をされた被害者は、議員の不法行為を理由に国家賠償請求はできないか。 免責特権は、議員の行為の違法性を阻却するものではない。したがって、免責特権の対象となる行為も、国家賠償の対象となりうる。 しかし、免責特権の趣旨は、議員の職務行為の自由を保障し、その職務を全うせしめることにある。そして、自らが免責の対象となっても、行為の意味内容が裁判所によって判断されることが許されれば、右趣旨を全うすることはできない。 したがって、その違法性が重大かつ明白である場合でない限り、免責特権の対象となる行為は国家賠償の対象とならないと解する。 【論点】不逮捕特権の趣旨 不逮捕特権の趣旨をいかに考えるべきか。 右特権は、歴史的には、議員の職務執行が政府によって妨げられることを防止するために認められた特権である。さらに加えて、議員が逮捕されなければ、議院の審議権を確保することにも資する。 したがって、本条文の趣旨は、右のいずれか一方ではなく両方と考えるべきである。 ここで、期限付き逮捕の可否が問題となる。 思うに、議院の審議権を強調すれば、かかる逮捕も可能であるかに見える。しかし、議院はいったん逮捕を可とするということは、逮捕が不当逮捕でないことを認めたということになる。ならば、後は裁判所に事件の処理をまかせるべきである。 したがって、逮捕の許諾に議院が条件を付けることは許されない。 四 国会と議院の権能 1 国会の権能 【論点】条約承認権 国会は条約を事前、または事後に承認することとされている(73条3号但書)。かかる承認権と内閣の条約締結権との関係をいかに解すべきか。 条約締結権は伝統的に行政権に属する権限であり、実際上も外交の担当者としては内閣の方が適任である。 しかし、条約は法律よりも形式的効力が強い。とすると内閣の条約締結権に対して民主的コントロールを及ぼす必要性がある。国会に立法権を独占させた(41条)意味を没却しないためである。 したがって、条約の承認は条約が有効に成立するための要件であり、条約締結は国会と内閣との協働行為であると見るのが妥当である。 【論点】国会の承認が得られなかった場合の条約の効力 国会の事前の承認が得られない条約については、内閣は締結してはならない。また、内閣の締結後、国会の承認を得られなかった条約は有効要件を欠くから、国内法的には無効である。しかし、国際法的な効力をいかに解すべきであろうか。 思うに、条約締結行為は、相手国のある行為である。したがって、むやみに無効にすべきではなく、原則有効であると考えるべきである。 しかし、およそ有効とするならば、国会に承認権を与え、条約締結に民主的コントロールを及ぼそうとした趣旨が没却される。 そこで、国会の承認権が諸外国にも周知の要件と解される場合、事後承認のない条約は無効となると解する。右のような場合は、相手国の信頼を害しないからである。 【論点】国会の条約修正権 国会は条約の承認権を有するが、修正権は有するのか。 思うに、条約締結は、本来内閣の職務である。条約締結は専門・技術的判断が要求されるから、このような職務分担に合理性はある。 それに対して、国会は内閣に比較し、条約の内容についての判断能力が乏しい。しかも条約の修正を認めることは、右に述べた内閣の条約締結権を侵害することになりかねない。 したがって、国会の条約承認は一括承認か不承認かと考えるべきである。そして、国会の修正提案は不承認の意味だと解すべきである。 2 議院の権能 【論点】規則制定権と法律の関係 問題点 国会法と規則制定権の効力関係は? 憲法は各議院に規則制定権を与えており(58条2項)、議院の内部事項について自主的に定めうるものとしている。 しかし、現実には国会法が定められており、法律で議院内部の事項の定めがなされている。そこで、法律と規則とのいずれが優位するかが問題となる。 思うに、法律が優位すると解するならば、衆議院の優越が認められている憲法法制上、法律の運営如何で参議院の自律は致命的になるおそれがある。 思うに、規則制定権は議院自律権の現れであるから、規則固有の所管に属する内部事項は規則が優先すべきであると解する。 それに対して、一般国民の権利義務に関する事項については、両議院の審議の結果が重視されるべきである。したがって、法律が優位すると考えるべきである。 【論点】国権の最高機関の意味 「国権の最高機関」(41条)とはいかなる意味を持つものであろうか。 思うに、国会の構成員たる国会議員は国民によって直接選任されるものである。国権の最高機関、とはかかる国民代表機関たる国会が国政の中心的地位を占める機関であることを強調する意味を表すに過ぎないと解する。 【論点】国政調査権の法的性質 国政調査権(62条)の法的性質をいかに考えるべきか。 思うに、国政調査権は諸外国の立法例を継承したものであるので、他の理由がない限り法的性質も同様に解すべきである。 (国会を明治憲法における天皇に代わる最高機関であるとを前提に、国政調査権を独立した権能であるとする見解もある。しかし、他の二権もそれぞれの権能においては最高機関であるから、国会を統括機関であると解するのは妥当ではない。 41条の「国権の最高機関」との文言は、国会が国民代表機関であることを政治的に強調したに過ぎない。したがって、何らかの法的効果をかかる文言に結びつけて考えるのは妥当ではない)。 したがって、国政調査権は国会の権能を効果的に行使するための補助的権能であると解する。 このように解した場合、国会の権能は国政のうちでも多岐に及ぶから、国政調査権の及ぶ範囲は国政のほぼ全範囲にわたると解される。ただし、調査の目的が権能に役立つ限りでしか行使できないという限界を有する。 ( )内は不要 【論点】国政調査権と司法権の独立との関係 憲法上司法権の独立が保障されている(76条、78条等)。国政調査権といえどもかかる司法権の独立を侵すことは認められない。 したがって、現に進行中の事件について、訴訟指揮の当否を調査する目的で行う国政調査は許されない。訴訟指揮権は司法権の行使にかかる訴訟の審理において重要な裁判所の権限であるからである。 また、裁判進行中と否とに関わらず判決内容の当否を判断する国政調査は許されない。判決確定後でも、国政調査を裁判内容に及ぼせば、将来の同種の事件における裁判所の判断に不当な影響が及ぶ可能性があるからである。 一方、裁判所と異なる目的から裁判と並行調査を行うことは許される。この場合、司法権の行使に不当な影響を及ぼす危険性は少ないからである。 【判例】二重煙突事件 事案 刑事事件の訴訟進行中検察が委員会に報告書を提出 → 公訴機関が裁判官に予断を発生させ、判断に不当な影響を与えることにならないか 国政調査権の行使として、検察官に報告書の提出を求めることは、直ちに裁判官に予断を抱かせるものでない。かかる報告は新聞紙上の事件の報告と性質を同様にするものであるからである。 したがって、このような国政調査権の行使に違法性は認められない。 【論点】国政調査権と行政権との関係 行政権に対しては、議院内閣制(66条3項など)の建前からして、広範な調査をなし得ると考えられる。 ただし、検察権との関係ではこの限りでない。検察事務は、準司法作用であるから、かかる作用には司法権に類似する独立性を保障する必要があるからである。 したがって、そのような要請に反する調査は許されない。 例えば、起訴・不起訴について政治的圧力を加えるような調査はもちろん、起訴事件に直接関係する事項や公訴追行の内容への調査、捜査の続行に重大な支障を及ぼすような方法による調査などはすべて許されない。 第二章 内閣 一 行政権と内閣 2 独立行政委員会 【論点】独立行政委員会 独立行政委員会とは、内閣から独立して活動する行政委員会である。かかる独立行政委員会は、行政は内閣に属するとする65条に反しないのか。 65条は、41条、76条と相まって、権力分立を定める。同時に、議院内閣制の下、内閣に行政を担当させることで行政権に対して、国民代表機関たる国会による民主的コントロールを及ぼそうとする趣旨も含まれる。 しかし、権力分立とは、分離された国家機関相互に抑制均衡させることで、国民の権利侵害を防ぐことを目的とする原理である。とすれば、さらに行政権を分離し、特定の職務を他の機関に担当させることはかかる目的に反するものではない。 一方、独立行政委員会の職務とされるものは、行政作用のうち中立性を要求されるものが多い。このような作用を担う機関は政党から独立した地位を保持する必要性がある。 もっともこのような機関についても民主的コントロールを及ぼす必要性は皆無ではない。 そこで、独立行政委員会ごとに合憲性を判断するのが妥当であると考える。その際には、ある程度国会のコントロールが及んでいるか、担当業務が民主的コントロールになじまないものか等の条件を総合勘案すべきである。 【論点】独立行政委員会と準立法作用との関係 独立行政委員会が準立法作用を行うことは合憲か。 これは委任立法の可否の問題である。 思うに、73条6号但書では、罰則すら法律の委任があれば制定しうるとしている。また、専門的・技術的立法の必要性から、一定の事項の定めをかかる知識に優れた内閣に委任することは合理的である。 とくに内閣の中でも技術的専門的知識が豊富な委員会がかかる知識を要する立法を制定することは、適任である。 したがって、委任立法は憲法上認められると解する。 【論点】独立行政委員会と準司法作用との関係 憲法76条2項を反対解釈する限り、終審でなければ行政機関も裁判してよいと解される。 また、独立行政委員会の裁定について不服があれば普通裁判所に対して提訴することはできる。しかもまず専門的知識を有する委員会が一次的に判断をなすのは合理的である。 したがって、独立行政委員会の裁定作用は合憲である。 【論点】実質的証拠法則の合憲性 実質的証拠法則とは公正取引委員会の認定した事実認定について、その内容を証明する実質的証拠がある場合、かかる事実認定に裁判所が拘束されるとするものである。 独占禁止法が、実質的証拠法則を定めていることは、司法権を裁判所に独占させ、行政機関の終審裁判を禁ずる76条1項2項に反しないか。 思うに、結論が事実認定の如何によって左右されることからして、事実認定も司法権の内容であると解すべきである。 とすると、実質的証拠法則は76条に反し、違憲であるかに見える。 しかし、専門的知識が豊富な委員会の事実認定に、そのような知識に乏しい裁判所が拘束されるとすることは合理的である。 しかも、本規定では、裁判所が実質的な証拠の有無を判断できるとされており、裁判所には自ら拘束されるか否か決定する自由が留保されている。 したがって、実質的証拠法則は合憲である。 三 議院内閣制 1 議院内閣制の本質 【論点】議院内閣制の法的性質 もともと、議院内閣制とは、議院と内閣の相互抑制と均衡の関係を保ちながら協働の関係にあることを本質的要素としていた。 しかし、現代に至るまでに議院内閣制は様々な形で変容を受けている。そこで、様々な他国の議院内閣制の立法例を比較し共通する要素を分析してかかる問題を考えるべきである。 そしてどの立法例でも共通する、議会による政府の民主的コントロールの契機を議院内閣制の本質的要素とすべきである。 3 衆議院の解散 【論点】解散権の所在 解散権は形式的には天皇の下にある(7条3号)。しかし、実質的な解散権の所在は憲法上明文なく問題となる。 まず、国会に解散権が認められ、結果自律解散ができることになるか。 これを認めると多数派議員の意思によって少数派議員の身分を失わせる結果となる。したがって、本論点は消極的に解するべきである。 それでは解散権の所在をいかに考えるべきか。 本来衆議院の解散は政治的行為である。 それでも、天皇の解散権は形式的儀礼的行為とされるのは、助言と承認によって内閣が実質的判断を行っているからであると解される。 したがって、内閣が解散権を持つと考えるのが妥当である(7条3号)。 【論点】内閣が解散できる場合 69条を解散権の根拠条文として、解散ができる場合を国会が不信任決議をなした時に限定する見解がある。 しかし、解散は権力分立の抑制手段であるのみならず、国民の信を問う制度としての民主主義的契機も併有するので、その点も看過してはならない。 したがって、内閣が国民に信を問うため、自発的に国会を解散できる場合を認めるべきである。 ただし、内閣の解散権の行使には、あくまで民主主義的側面に役立つ限りでという限界がある。 解散が可能な具体例としては、選挙の時に問題にならなかった重大問題が生じたときや、内閣と国会が対立し、責任ある政策形成ができなくなった場合などが挙げられる。それに対して、政治的戦略としての解散は当然認められない。 第3章 裁判所 一 司法権の意味と範囲 【論点】司法権の独立 司法権は、政治的権力から国民、とりわけ少数者の人権保障をはかる義務を帯びている。 そのためには、他の国家機関などからの外部的圧力による影響を受けない公平な裁判を実現する必要がある。しかし、裁判所は非政治的・受動的権力だから、立法・行政権に干渉される危険性が大きい。 そこで、その使命を全うさせるため、司法権の独立が憲法上保障されたのである。 その内容は、裁判所の独立(77条)裁判官の独立(76条3項、78条)からなる。 3 司法権の限界 【論点】司法権の限界 1、司法権の行使にあたっては、次のような限界が存在する。 まず、司法権は、法律上の争訟について法を解釈・適用し、宣言する国家作用である。 したがって、法律上の争訟でない、いわゆる事件性の要件を欠く事件に対しては司法権は行使できない。ここにいう法律上の争訟とは、具体的な権利義務または法律関係の存否についての争いで、法律の適用によって終局的に解決できるものをいう。 事件性を欠く事例としては、学問上の知識の当否・宗教の教義の真否等についての争いなどが挙げられる。 特に、法律によっては終局的な解決ができないが、問題解決にはその判断を避けられないという前提問題が存在する場合がある。 このような場合、形式的には法律上の争訟の形をとっていても、同様に司法権の対象外と解するべきである。 2、次に、事件性の要件を満たしていても、他の国家機関との関係で司法権が行使できない場合がある。その例としては、各議院の自律権に属する事項、他の機関の裁量に属する行為を挙げることができる。 さらに、高度に政治性ある国家行為については、司法権は性質上判断ができないとされる。 政治的責任を負いえない裁判所がこのような統治行為の適否を判断することは、国民主権の観点上妥当でない。すなわち統治行為の理論は、司法権の内在的制約によるものである。 最後に、自律的な法規範を有する特殊な部分社会の純粋な内部的事項については、司法権の行使を差し控えるべきである。団体の自治を尊重すべきだからである。 【論点】統治行為の概念を認めてよいか 司法権は独立が保障されているという制度上、他の二権とは異なり国民に政治責任を負いえない立場にある。とすると、国家の命運を左右する行為については、政治的責任を負えない裁判所は判断できないというべきである。 以上から、司法権の内在的制約として、統治行為論は認められる。 ただし、憲法上の根拠がない司法権の例外を無闇に認めてはならない。 したがって、他の法理によって説明できるときには他の法理を使うべきである。また、精神的自由権・選挙権の侵害を争点とする事件の場合には、右理論を適用して判断を回避してはならない。 右権利はまさに民主政を支える権利であるから、不当に制約された場合、民主政の外にある裁判所でないと回復しうるものではないからである。 【判例】安全保障条約の合憲性(砂川事件) 判例は、安保条約は高度の政治性を有するものとしながら、一見極めて明白に違憲無効でない限り判断できないとした。 右判例について、法理論として統治行為論を用いたのであれば、裁判所は一切判断できないはずである。高度の政治性ある条約について司法判断ができる可能性を認めた本判決は、統治行為と、内閣・国会の裁量の問題との中間をとった判例であると評価できる。 【論点】部分社会の法理は認められるか 部分社会の法理とは、自律的な法規範を有する特殊な部分社会について、内部紛争は司法審査の対象にならない。一方、一般市民法秩序と接点がある問題については司法審査の対象となるとするものである。 しかし、かかる法理は様々な性質を有する団体を一般的・包括的にとらえるきらいがある。 思うに、司法審査の対象となるか否かは団体や問題となる事項ごとに個別的具体的に判断すべきであると解する。 (実際の問題では部分社会の法理を認めて、事案に当てはめた方が楽) 【判例】地方議会と部分社会の法理 事案 議院に対する出席停止の懲罰議決の効力 思うに、地方議会は憲法が地方自治の本旨として認めた団体自治の担い手である(92条)。したがって、地方議会の自主性は尊重されるべきであるから、純粋な内部事項については、裁判所の判断に委ねることを適当としないと解すべきである。 本問にいう、出席停止処分は団体の構成員への懲戒権の行使として、まさにそれに該当すべきものということができる。 それに対し、除名処分は構成員が被る不利益の度合いが大きく、その一般市民として有する権利が侵害されたものであるといえる。この場合、もはや純粋な内部事項とはいえず、司法判断は及ぶと解する。 *地方議会 → 政党、地方自治(92条) → 結社の自由(21条1項)として、政党内部の問題についても同様の論証で乗りきれる。 【判例】富山大学事件 事案 学生の単位・専攻課終了不認定処分 大学は憲法上自治的運営が認められていると解される(23条)。したがって、大学内部の運営については自律的判断が尊重されるべきであり、純粋な内部事項については司法審査は差し控えるべきである。 本問にいう単位授与行為は、教育上の措置であり、純粋な内部的事項といえる。したがって、その当不当に対して司法審査をなすことは許されない。 しかし、単位が具備されているにもかかわらず、専攻科終了を不認定とする処分は、大学の利用拒否といえる。国民は公の研究施設として、大学を利用する権利を有するから、大学の利用拒否は一般市民として有する権利の侵害といえる。また、要件具備後の専攻科終了の認定は専門的判断が必要なわけでもない。 したがって、専攻科終了の不認定は司法審査の対象となると解すべきである。 二 裁判所の組織と権能 1 裁判所の組織 【論点】国民審査の法的性質 国民審査制度(79条2項)の目的をいかに解するべきか。 右制度では、条文上投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときその裁判官を罷免するとされている。したがって、国民審査制度は原則として解職の制度であると見るのが妥当である。 ただし、任命後一回目の国民審査では、任官間もないものが国民審査される場合もある。したがって、この場合には、任命行為としての性質も併有すると解する。 【論点】下級裁判所裁判官の任期 憲法上下級裁判官は、任期終了後再任されることができる(80条)とされている。 この場合の再任について、指名権者の裁量をいかなるものと考えるべきか。 裁判所は特に少数者の人権を保障する役割を担っているから、裁判所の構成員である裁判官の身分は厚く保障されなければならない。 そのような要請に適合するよう、本問題は解さねばならない。すなわち、裁判官の弾劾事由がある・心身の故障に基づく職務不能など、不適格者であることが客観的に明白である場合でない限り、再任されなければならないと解する。 3 最高裁判所の権能 【論点】法律との効力関係 思うに法律は両院の可決で成立するなど、成立要件が規則よりも厳格である。したがって、法律が規則に優位すると考えるのが原則である。 しかし、規則制定権は司法権の自律性・独立を守るために最高裁判所に認められた権能である。したがって、内部事項については規則が優先されるべきである。 また、それ以外の事項についても、裁判所の専門的判断を尊重すべきであるから、規則事項についてはなるべく規則で規定すべきであると解する。 4 裁判の公開 【論点】公開を要する裁判の意味 公開を要する裁判とはいかなる手続をさすか。 思うに、32条と82条にいう「裁判」の意義は同じであり、相まって公開と対審・判決による裁判を受ける権利を保障したものということができる。 したがって、公開を要する裁判は純然たる訴訟事件に限定すべきである。 ここに純然たる訴訟事件とは、当事者の意思如何に関わらず終局的に事実を確定し、当事者の権利義務の存否を確定することを目的とする裁判手続をいう。 (他説 純然たる訴訟事件と非訟事件の区別は明確でない。しかも、裁判行政作用が増加しているから、非訟事件への配慮も必要である。 そこで、82条の対象か否かの区別は、事件の性質・内容にしたがって個別的に判断するのが妥当である。裁判においても常に対審・公開を要求する必要はない。 したがって、32条は手続ごとにそれなりの公平な手続を要求したものであると解することになる。) 第四章 財政・地方自治 一 財政 3 予算 【論点】予算の法的性格 まず、予算の法的性格をいかに考えるべきか。 思うに、財政に民主的コントロールを及ぼすべく、予算に国会の議決を必要としたものである。この趣旨に反しないため、予算には法的拘束力を認めるべきである。 そこで、予算を法律とみる見解もある。しかし、予算は内閣が作成するし、法律とは議事手続が異なる、一会計年度限りの効力しかないなど、法律と解するには特別な要素が多すぎる。 したがって、予算は法律ではないが、政府の財政行為を規律する法規範であると解するのが妥当である。 【論点】国会による予算の修正 *予算法形式説を前提に 予算は国法の一形式であり、国会は立法機関であるから、国会に予算の修正権は認められると解する。ただし、どの程度の修正権が認められるかについては、別途の考慮を要する。 まず、減額修正については、無限界になしうると考えうる。特にそれを認めない理由もない。 一方、増額修正のためには、予算に相当する財源が必要である。したがって、一定の制限があると解すべきである。すなわち、同一性を損なうような大修正はできないというべきである。 【論点】予算と法律が食い違ったときの処理 *予算法形式説を前提に まず、予算があって法律がない場合、法律がない以上、内閣は何もできない。したがって、内閣は予算の執行のためには国会の法制定を待つしかないことになる。 一方、法律があって予算がない場合であるが、内閣は法律を誠実に執行する義務あるはずである。すなわち、法律にあわせて予算は作成されるべきである。 したがって、内閣は法律の施行のために予備費の支出、補正予算を組むなど対策を講じるべきである。 以上、法律と予算との齟齬が生じた場合、国会は何ら法的義務を負うものではないと解する。 4 公金支出の禁止 【論点】公の支配の意味 公の支配に属しない団体への公金支出は禁止されている(89条)。しかし、「公の支配」の程度をいかに解すべきであろうか。 思うに、89条の趣旨は公の支配に属しない団体に公費を支出することで、公金が濫費されることを防止すべき点にある。 したがって、公金の濫費を防止できる程度の監督・コントロールが及べば、「公の支配」の要件は満たすと解するべきである。 【判例】幼児教室への公金支出 まず、幼児教室は89条にいう教育の事業にあたるか。 本件幼児教室は学校教育法にいう幼稚園にはあたらない。しかし、89条にいう「教育の事業」に当たるか否かは、人を教え、導くことを目的とする継続的活動であるか否かによって判断すべきである。 当該幼児教室は、幼稚園とほぼ同じような教育事業をなしている。したがって、幼児教室の経営は「教育の事業」あたるというべきである。 それでは、幼児教室は「公の支配」(89条)に属するといえるか。 思うに、89条の趣旨は、公金の濫費を防止する点にある。したがって、濫費を防止しうる程度の支配を及ぼせる団体に対しては、公金支出をなしてよいと解すべきである。 本件幼児教室には公の利益に反する支出が行われないよう、個別の指導・管理がなされている。 特にかかる幼児教室は本来公権力がなすべき教育の事業を(26条参照)代わって行っているものである。かかる教室に公権力が補助をなすことは公の利益に沿うものとすらいえる。 したがって、かかる幼児教室への公金支出は合憲と解すべきである。 二 地方自治 1 地方自治の本旨 【論点】地方自治制度の趣旨 憲法上地方自治制度が保障されているが、かかる保障の法的性質が問題となる。 右制度の保障によって、地方の実状にあったきめ細かな政治を実現することができる。しかも、権力を地方にまで分散すれば、中央権力の強大化防止にも役立つ。 このような理由から、憲法は制度的保障として、地方自治制度を定めたと解すべきである。その地方自治制度の侵すべからざる核心を「地方自治の本旨」というものである。 右地方自治の本旨の内容は、地方自治が住民の意思に基づいて行われるという住民自治、さらに地方自治が国から独立した団体に委ねられるとする団体自治からなると解する。 【論点】地方自治の保障の性質 憲法は地方自治を保障しているが(92条)、かかる保障の法的性質をいかに解すべきか。 思うに、地方自治を保障すれば地方の実状にあった施政を行えるし、権力を地方に分散させることで、権力の濫用を防ぐことができる。 すなわち、地方自治制度の保障は間接的に人権保障を行うための、制度的保障と見るべきである。 そして、かかる制度的保障の核心が「地方自治の本旨」である。 かかる地方自治の本旨の内容は団体自治・住民自治の二つの内容からなる。その中心は住民自治にあり、住民自治実現の担保として、団体自治が保障されるという関係にあると解する。 2 地方公共団体の機関 【論点】特別区は普通地方公共団体か 思うに、憲法上地方自治を認められているのは普通地方公共団体であると解する。ここに普通地方公共団体とは、事実上住民が経済的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的意識が存在し、相当程度の地方自治の基本的権能が付与された地域団体のことをさす。 ここに、特別区は市の性格をも併有した独立地方公共団体の一部ともいえる。とすると、特別区は憲法上の地方公共団体とは認められず、地方自治の保障が及ばないことになりそうである。 しかし、通常国民には都道府県レベルと、市町村レベルの二レベルにおける地方自治が保障される。にもかかわらず、特別区の住人に対してのみそのような保障が及ばないとするのは妥当でない。また、特別区に条例制定権が付与されていることの合憲性を説明するには、特別区を普通地方公共団体と見るほかない。 したがって、特別区は普通地方公共団体にあたり、にも地方自治の保障を及ぼすのが妥当である。例えば、区長・区議員の直接公選制は憲法が保障していると解するべきである。 3 条例 【論点】憲法上の法律留保事項を条例で定めうるか 憲法上財産権の内容、及び租税附加に関する規定は法律で定めなければならないとされている(29条2項、84条)。にもかかわらず、条例で右事項を定めることはできるか。 思うに、右両事項が憲法上法律事項とされた趣旨は、法律が国民代表機関たる国会によって制定される点に鑑み、国民の権利への不当な侵害を防止しようとした点にある。 一方、条例は地方議会によって定められる立法であり、民主的基盤を有する自治法である。すなわち条例は準法律的性格を有するものであるから、条例によってかかる事項を定めることは憲法の趣旨に反するものではない。 特に地方自治を強固にするためには自主財源の確保は不可欠であるから、条例による租税賦課権を地方公共団体に与えることは特に重要である。 以上から、いずれの事項についても問題はないと解する。 一方、罰則も法律事項とされているが(31条など)、条例で罰則を定めることは許されるのか。 罰則は国民の人権を強度に侵害するものであるから、条例で無制限に定めうるとすることはできない。すなわち、罰則を定めるには、法律による授権は必要であると解すべきである。 しかし、条例は民主的基盤を有する自主的立法であり、準法律的な性格を有するといえる。 したがって、法律による授権は、相当程度に具体的な委任であればたりると解すべきである。 そして、地方自治法は右程度の罰則制定の委任をなしていると考えられる。したがって、条例で罰則を定めることは憲法上問題ない。 【論点】法律の範囲内の判断方法 条例は法律の範囲内で制定されなければならないとされている(94条後段)。それでは当該条令が法律の範囲内といえるか否かについて、いかに判断すべきか。 (かつては、法律が定めた事由については条例は改めて制定できないとする法律先占論が唱えられていた。しかし、これはあまりにも硬直した解釈であるといわざるを得ない。) 思うに、憲法が地方ごとのきめ細かな政治を実現するため条例制定権を地方自治体に与えた趣旨を生かした解釈を取るべきである。 したがって、単に条例と法律の法文を比較対照するだけではなく、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較した上で、両者に矛盾抵触があるか否かをもって判断するのが妥当である。 例えば、ある事項について既に法が定立されている場合でも、その法が別段の規制を許す趣旨である場合は、同事項についての条例を制定することは可能である。また、そうでなくても条例が法律の目的・効果を侵さないならば条例制定は可能である。 また、法律がなくても、規制をせずに放置する趣旨である場合は、条例制定は不可能であると解すべきである。 第五章 憲法の保障 二 違憲審査制 2 違憲審査の方法 【論点】日本国憲法の違憲審査制 最高裁判所は違憲審査における終審裁判所である(81条)。しかし、裁判所がいかなる違憲審査の方法を採りうるか、明文上明らかでなく、問題となる。 思うに、81条は司法の章に定められており、司法権は具体的事件の存在を前提とする権力作用である。したがって、具体的事件の判断にあたって違憲審査権を行使する付随的審査制をとっていると考えるのが妥当である。 かかる結論は抽象的審査制を積極的に認める条文が憲法上存在しないことからも、支持できる。 3 違憲審査の主体と対象 【論点】条約は違憲審査の対象になるか 条約には、関税に関するものなど、そのまま国内法的効力を持つものがある(自動執行力ある条約)。したがって、条約とその他国内法とは一元的な関係にあると解するべきである。 このように考えると、両者とも矛盾抵触する可能性がある。そこで、条約と憲法について形式的効力はどちらが強いかが問題となる。 思うに、簡易な手続で憲法を改正する手段を認めることはできない。また、授権規範が下位規範であるとすることは論理矛盾である。となると、条約締結・承認権を授権した憲法が条約よりも下位の規範であると考えることはできない。 したがって、形式的効力は憲法の方が強いと考えるべきである。 右を前提として、条約を違憲審査の対象とできるか。 確かに、81条からは意識的に条約が除かれているが、それは条約の「国家間の合意」という特殊性に配慮したものである。だから、国内法として側面については裁判所は合憲性を判断できるとしてよい。 また、条約には政治的内容を持つものが多いとしても、それは統治行為など他の法理で対処すべき問題である。一般的に憲法判断を否定する理由にならない。あくまで憲法の最高法規性を維持できる解釈を採るべきである。 したがって、条約は違憲審査の対象となりうると解する。 【論点】判決の効力 法令に違憲判断が下された場合、当該法令の効力をいかに解すべきか。 もしも、法令が客観的に無効になるとすると、裁判所が消極的立法作用を営む結果となり、国会の立法権(41条)を侵害する。しかも、違憲判決の影響の大きさを恐れ、裁判所が違憲判断をなす事に消極的になる可能性もある。 思うに、日本国憲法は違憲審査の方法について付随的審査制をとると解され、違憲審査は事件の解決に必要な限りでなされる。このような違憲判断の方法からすれば、その効力も当該事件の解決に必要な限りで発生すると解するのが自然である。 しかも、文面上無効の判決手法が存在するし、さらに他の国家機関は違憲判決を十分尊重すべきである。したがって、自説を採りつつも事実上一般的効力に近い結論も取ることはでき、法的安定性への配慮も十分である。 したがって、違憲判決には個別的効力しかないと見るのが妥当である。 *合憲判決、処分の違憲判決に個別的効力しなかいのは明らか 三 憲法改正の意義と限界 2 憲法改正の限界 【論点】憲法改正に限界はあるか 思うに、憲法改正権は制憲権に創設された権利である。したがって、論理的には、自己の存立基盤を変更することは許されないはずである。 前文が、人類普遍の原理に反する憲法は排除されるとしているのはかかる趣旨の確認であると解する。