■ 変化の夜 ■
その夜は月も星もなく、道を照らすものといえば手にした提灯の灯りだけだった。
夜道を怖がる往壓ではなかったが、さすがに人気のない道を、提灯だけを頼りに歩くのは心もとなかった。
聞こえる音も右手を流れる川の水音だけだ。
(もう少しいけば人家もあるだろう)
小笠原の使いで品川宿にまで行った帰りだった。宿場町のにぎやかさに惹かれて飯屋や賭場を覗いていたらこんな時間に。
顔を上げても真っ暗闇が見えるだけなので、往壓は灯りで照らされた自分の足元ばかりを見つめていた。
なので、道の向こうに灯った明かりにしばらく気づかなかった。
(おや、こんな時間に人がいやがる)
不審に思った気持ちと、人がいたことの安堵さ半々というところだろうか。
自分が不審に思ったということは、向こうもきっとそうだろう、と往壓は考えた。おまけにこちらは、今は小笠原の家臣ということで武士の身なりをしている。辻斬りなどと勘違いされるかもしれない。
とはいえ、声高らかに名乗って歩くのもおかしいし。
往壓はそんなつまらぬ心配をしながら歩き続けた。
向こうの提灯の灯りも徐々に大きくなってくる。
(いや、もしかして向こうが辻斬りという場合も)
(いやいや、辻斬りが提灯などを持って歩くわけもなし)
(おそらく俺のように何か用事があってうっかり遅くなったヤツに違いない)
(しかし提灯を見せて油断させ、近づけば刃物を出してくる強盗って話も)
さまざまに考えを巡らせながら近づいていく。
(それにしても人気のない道は恐ろしいが、そんな場所で人に出会うというのも恐ろしかったり嬉しかったり………なかなか気まずいもんだな) (向こうも同じように怖がっていたりするのだろうか)
(手前でこんばんはと声をかけてみようか)
(鼻歌を歌ってみるというのはどうだろう)
ぐるぐると考えはするが結局黙々と歩き続ける。
やがて相手の姿がぼんやりと見えてきた。もっとも提灯を手前に下げているので足元の部分だけだが。
(おや、女じゃないか)
往壓は驚いた。
(こんな夜更けに女が一人とは、おかしいんじゃないのか? まさか)
ぎゅっと提灯を握る手に力が入る。
(狐狸妖怪の類じゃねえだろうな)
(気をつけろ、声をかけられてうかつに返事をしたら、化かされて川に落とされてしまうかも)
(それとも私娼か? やはり声をかけられてそのへんに連れ込まれて)
(お楽しみの真っ最中に男が刀を下げて乗り込んできたりとか)
それでも足は止まらずどんどん近寄っていく。青い縞の着物の柄が見えた。提灯を持った白い手首が見えた。
もう少しですれ違う。
あと三歩、二歩、一歩。
すれ違いざま、女は軽く会釈をした。つられて往壓もあごを引く。
(………)
いい香りが鼻をくすぐった。
「それだけか?」
宰蔵がつまらなさそうに呻いた。
「それだけだ」
往壓はそっけなく応える。
「なんだ、その女が狐狸妖怪、幽霊悪霊の類か凶状持ちなら話は面白くなるのに」
「面白くなんかならなくていい」
女とすれ違った往壓はそのまままた一人で暗い夜道を歩いて自宅へ戻ったのだ。もちろん、途中でなんの変事にも会わなかった。
翌日、前島聖天に出向くと境内で宰蔵がごろごろしており、なにか面白いことはないかというので昨日の話をしてみたのだが。
「俺が言いたいのは、心の持ちようで相手がどんなものにも変化してしまうということだ」
往壓の中で暗い夜道を一人で歩くのは心細かった。しかし、人が見えたとき安堵より怖れが勝った。最初は相手が辻斬りではないかと怖れ、強盗ではないかと怖れ、女だとわかると狐狸妖怪の類ではないかと怖れ、美人局(つつもたせ)ではないかと恐れた。
通り過ぎるまでさまざまな妄想が往壓を襲い、緊張させた。
そして通り過ぎたら過ぎたで、元通りの一人ぼっちになったことが前よりもいっそう心細くなった。
「人の心というのは怖いもんだ」
「教訓的なオチのついた話ほどつまらないものはないな」
宰蔵がからかう。そこへ小船を操ってアビが戻ってきた。
「往壓さん、来てたのか」
アビは大またで近寄ってくると、神殿の中へ入ってきた。
「昨日の夜遅く、大井川で女が殺されたらしい」
「え?」
「朝になって土手に転がっているのが見つかった。金を奪われ殺されたようだ」
それを聞いて宰蔵が顔を上げた。
「大井川の土手って昨日、お前が夜中に歩いた場所だろ?」
「あ、ああ」
往壓は立ち上がりかけ、また座った。
「その女、お前が見た女じゃないのか?」
「わ、わかんねえ」
「お前が会った女はホントに生きてた女なのか?」
たたみかけるように言う宰蔵に往壓は力なく首を振った。
「わからねえよ」
アビが往壓を覗き込んだ。
「ホトケを改めにいきますか?」
「………そうだな」
往壓はうなだれた。
「もしその女なら………俺と会う前に死んでいれば幽霊だろうし、俺と会ったあとに死んでいるなら夜道を送ってやらなかった俺の罪だ………」
「夜中にいきなり知らない男に送ってやると言われて了解する女はいない。お前の責任じゃない、竜導。もしかしたら全然別な女かも」
「そうかもしれねえ。だけどよ宰蔵、俺は今ほどあの女が幽霊であればいいと願わねえことはないよ。ああ、ほんっとに人の心てえのは勝手だよな」
往壓はそう言って元気なくアビと一緒に小船に乗っていった。
死んだ女が往壓の見た女じゃないといい。
宰蔵は往壓のためにそう願った。