ちょっと見ない大きな蜘蛛が、ぞろりと畳の上を這っていった。
朝の蜘蛛は縁起がいい、ということで常には殺さない往壓でも、少しうなじの毛が逆立ったほどだった。
蜘蛛は見ているうちに畳を伝い土間に降り、人のように傾いだ腰高障子から外へ出て行った。知らぬ間に息をつめて見ていたらしい。姿が見えなくなって往壓は、はあっと大きな溜息をついた。
ってことは俺はあの蜘蛛と一夜を共にしたってことかよ。
どこにいたのかは知らないが、居たのを知ってたら薄気味悪くて寝られなかったかもしれない。
往壓は布団から出ると蜘蛛のあとを追うようにカラリと戸をあけて外へでた。朝だというのにどんより曇って薄暗い。
井戸で顔を洗っていると、同じ長屋に住む棒手振【ぼてふり】が声をかけてきた。
「よう、往さん、お安くないね」
「あ?」
「朝っぱらからそんな色っぽいもの見せ付けるなよ」
「なんのこった?」
「ここ、ここ」
棒手振は自分の首筋を指差した。
「首?」
手をやった往壓に棒手振がにやりと笑う。
「赤くなってるぜ。どこの女に吸い付かれたんだか」
往壓は首筋をさぐった。耳の下あたりに押すと小さな疼きが走る場所がある。
「なんだ?」
往壓には身に覚えがない。
ふと先ほどの蜘蛛のことが頭をよぎった。疼きがぞくりと震えになった。
「…導、竜導、聞いているのか?」
小笠原の苛立った声に往壓ははっと顔を上げた。
「眠ってたのか? しっかりしろ」
前島聖天で新しい妖夷の話を聞いている最中だった。どこからうとうとしだしたのかわからないが、目を覚ましてもまだ頭がぼうっとしていた。
「これから出向くのだぞ。大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だよ」
往壓はふところから出した手でぽりぽりと首筋を掻いた。隣に座っていた宰蔵がそんな往壓を見上げて眉をひそめる。
「竜導、あまり弄らない方がいいぞ、赤くなってる」
「え?」
「最初に見たときより大きくなってる。掻かない方がいい」
往壓は思わず手のひらでその場所を覆った。まったく無意識に掻いていたのだ。
「蚤にでもくわれたのだろう」
小笠原が不快そうに吐き捨てた。
「いや、蚤のあとじゃないな」
蚤に関してはつきあいが長いというアビが往壓の首を見ながら言う。
「痣みたいですね」
四人の視線を受けて往壓は立ち上がった。
「虫に食われたんだよ」
「薬でも塗っておきますか?」
元閥がそう言ってくれたが往壓は首を振った。
押さえた手の下で皮膚が少し熱かった。
その日倒した妖夷はたいした大きさではなく、全員の腹に収めるだけの量はなかった。
「俺ァ今日はいいや」
往壓はそう言って別れようとした。
「竜導」
宰蔵が声をかけた。
「なんだ?」
「虫刺され、消えたみたいだな」
「そうか?」
「よかったな」
「なんだ、心配してくれたのか?」
「そうじゃない」
宰蔵は頬を膨らませた。
「気味悪い形だったから気になってただけだ」
「気味悪いって」
「蜘蛛みたいだった」