桜坂(仮)

 

   

 

立派な建物が並ぶ、静かな住宅街の中に普通の家の二倍の広さの敷地を白く囲まれた邸宅がある。 二階建ての現代風の建物である。二階の一部はルーフバルコニーになっており、 そこから一階の庭へと螺旋階段が繋がっている。
 周囲を囲む木々は手入れをされていないようだが、元はさぞきれいな家であっただろう。
 表札の名前は日向。
 今、玄関の扉が開き、一人の青年が出てきた。傍らには犬の姿がある。 これから朝の日課である散歩に行くのである。
「行くぞ」
 犬に声をかけ門を出た青年の年頃は二十四、五歳。 こんな立派な邸宅には一人で住める年頃ではなかったが、彼はここに一人で住んでいた。 もちろん訳ありで。
 決まった道中、いつもと変わりない散歩を終え、青年は犬に缶詰を用意し、 そして冷蔵庫からコーヒー缶を一本、青年の朝食である。
 青年の足元で嬉しそうにしっぽを振りながら、食べる犬に向かって青年が独り言をこぼす。
「それにしても、お前のご主人様はどこにいったまったんだろうなあ」
 青年は犬の本当の飼い主で話はない。それは、先ほどの「こんな家に彼が一人で住むわけ」でもある。
 自分の家でもないところで、自分が飼っているわけでもない犬と同居しているという不可思議な状況。
 すべては三年から始まった―――。

 夜の都会は、光の展示場である。
 コンビニの袋を片手に、二十四時間経営のファミレスの前を横切った木崎の横顔を間断なく 流れる車のヘッドライトが白く染め上げる。木崎はまぶしさを気にした様子もなく、 ただ黙々と歩を進める。
 闇へと続く横道の前の暗闇を通り抜けようとして、ふと立ち止まる。
 なにか、聞こえたのである。
 かすかな、……動物の鳴き声。
 立ち止まり、小道の闇を見つめる。
 正体を探るため横道へ一歩踏み出したとたんに、全身が闇の中に取り込まれる。
 さっきまでの光の氾濫が嘘のように暗く、そして遠くで響くもの音以外には、しずかである。 かすかな鳴き声を辿る。ようやく闇に慣れた瞳に道端のダンボール箱が映る。
「………」
 黒い毛むくじゃらの物体から、鳴き声は出ている。中にいたのは、子犬である。
 体中の力が抜け、ため息がでる。
 恐れもなく、見上げてくる黒い瞳を覗き込みながら、その頭をなでる。
「捨てられたのか、……お前も」
 ぱたぱたと高速で回転する尻尾に、飼い主に対する、怒りが込み上げてくる。
 が、自分は飼えない。現在ボロアパートに住んでいて、おまけに自分以外のものを養っていけるほど 、余裕もない。
 せめてできることといえば、手持ちの弁当の中から、 肉を取り出し目の前においてやることぐらいである。
「誰か他のいい人に拾ってもらいな」
 もう一度頭をなでると振り返らずに立ち去った。
 再び大通りへと戻って、沈んだもの思いに髪をかき上げる。 大通りに広がるのは数え切れないほどの喧騒。
 その中に紛れ青年も歩き出すしたが、数歩あるいたとこで、すれ違う人間の視線がなぜか、 自分を見ていることに気づく。
 いぶかしげに思って、よくよく注意してみてみると、それは自分を通り越して、後を見ているのだ。
「!」
 勢い良く振り向くと、先ほどの子犬がそこにいた。
 青年と目が合うとかわいらしい鳴き声をあげる。
 後悔の念が胸いっぱいに広がる。
 同情して、餌なんてやるんじゃなかった。
 彼の弁当には、もう食べるものはない、彼の生活では犬を買う余裕なんてないと、 説明してもわかるはずがない。
 覚悟を決め、無視して歩き出す。先ほどよりも早く。
 向かい側から歩いてきた男が、こちらに視線を向ける。こいつも犬を見ているのだろうと、 罪悪感を抱えたまま男の横を通りすぎようとした時、声をかけられた。
「ねえ、あれ君の犬?」
 木崎は立ち止まりその男を凝視する。三十二、三歳の男である。浮かべている笑みは柔らかく、 見るからに温和そうな眼鏡をかけた人の良さそうな男である。
「違う。………これ、あんたにやるよ」
 青年は黒い物体を拾いあげると男に押し付けた。 肩の荷をおろし、これで心置きなく帰れると顔をあげたときに、再び男と視線があう。
「いや、僕は飼いたいわけじゃないよ」
 柔らかな物言いだが、無視できないものがある。
「オレも飼うつもりはない。ついでにそいつは飼っていたやつでもない。 一つ向こうの路地にすれられていたんだよ。あんたが飼う気がないなら、 元のとこにほっておくしかないな」
 再びどうしようもない罪悪感を抱え、冷たく言い捨てた。
 もともと捨てた飼い主が悪いのだ、と割り切る。
 男の掌の中の黒い瞳がじっと見つめる。
 それでも、男は引き下がらなかった。
「どうして、飼えないの?」
 無視して歩き出す。後ろで追いかけてくる足音。
 犬よりも厄介なもの拾っちまったか、一瞬、心の中をよぎる。
「ボロアパートでもって、こいつが帰るかって言うんだよ」
 それでも、木崎は律儀に返事をした。
 男は思案顔すると、
「じゃあ、飼えれば問題ないっていうんだよね」
 にっこり笑顔、なにかまずい状況に追い込まれていっているような気がして、 木崎は思わず逃げ腰になる。しかし、それを悟られまいとして、傲岸不遜に振舞う。
「何? あんたが大家に交渉してみるっていうのか?  無理だと思うけどな、確か大の犬嫌いのはずだから」
「いや、その反対、建物を僕が提供するよ」
「…………………はっ?」
 数瞬の沈黙の後、木崎なとてもまぬけな顔をする。
「ん、だから、建物提供するから、君がこの子を飼わないか?」
 ―――新手の不動産やか?
 真っ先に木崎が疑ったものである。
「わりぃけど、オレが金持っているように見えるか? 家の押し売りなら、お断りだぜ」
「家賃はいらないよ、この子を飼ってくれるなら」
 もはや、木崎は顔に不信の色を隠さなかった。
「なんで、あんたがそんなことまでするんだ」
 男は困ったような顔をしてしばらく悩んだ後、呟いた。
「怒らないと、約束してくれるかい?」
 何、ガキみたいなこといってんだろうと内心で独り言を洩らし、木崎はまゆを上げる。
 しかしもはや、相手の男のペースである、ため息をつきつつ、うなづく。
「その子の飼い主が僕だったからだよ」
 拳が震える。
 かろうじて目の前の男をなぐらなかったのは、約束と、きの抜ける男の笑顔。そして、大人気ないと思えたからだ。
「なんで、捨てたっ!」
「捨ててないよ、里親探ししてたとこだよ」
「?」
「ずっと、見てたさ、あそこで」
 指差す先には、二十四時間経営のファミレス。
 そして男が指を動かす先には子犬がいた路地が見える。
「この方が効率がいい」
 木崎はもう話す気もなくして、その横を通り抜ける。
 頭の血管はすでに二、三本きれているだろう。
「それなら、別のヤツを探しな」
「そうゆうわけにもいかないんだよね」
 くすりと笑みを浮かべる、最初は人のよい笑顔だと思ったが、ここまでくると人を見下しているようで、 心底腹が立った。男は木崎の様子を気にした様子もなく、 あるいは気づかなかったのかもしれないが、端然と言葉を続ける。
「これでも、僕(元)飼い主なんだよ」
「何がいいたい?」
「この子、――ユミっていうんだけど、僕より、君になついているってことさ。 これはもう君が飼うしかないと思わない?」
「ユミ?」
「そう、優しいに美しいって書いて、優美っていうんだ」
「なんで、犬にそんな名前をつけるんだよ。――奥さんの名前とか?」
「…………」
 木崎は冗談半分、からかい半分で言ったのだが、返答がないのは、図星だったらしい。 男の頬が桜色に染まっている。
「えっ、マジ?」
「90%ぐらいあたり……かな」
「そんな犬なのに、捨てるのか」
「手放すだけだって」
「……どうして?」
「ちょっとね」
 やはり、どうしうもなく、胡散臭い。
 なんと言って断ろうかとしている木崎に男が提案する。
「ねえ、立ち話もなんだから、ウチにこない? すぐそこだし、なによりこの子の道具も上げたいしね」
 この男の笑顔はかなりの曲者である。要請という形をとりながらも、 事実は脅迫しているのである。なにやら、断れなさそうな迫力がある。
 木崎は押しに弱いらしい。すっかり男のペースにはめられていた木崎などには太刀打ちできるはずもなく、気づけばつれてこられていた。
 そこでようやく男の名前を聞いた。
 日向陣、それが彼の名前だった。
 「日に向かう」という名前、温厚な様子の彼に、まだにぴったりだと思わず口にしてしまったら、意外な答えが返ってきた。
「日に向かうってことはね、それだけ影もできるってことだよ」
 その時の悲しげな笑みが木崎の心の隅に引っかかる。
 思わず、確かにあんた見かけによらず性格悪いものなという言葉を飲み込んだ。
 家の中に、入ると優美はくつろぎだ様子で、床に寝そべる。 やはりここが優美のもといた場所なのであろう、 つまりそれはこの目の前の男が飼い主であったとの少しは証明になるかもしれない。 お茶をいれる所作も不自然なところはない。ここがほんとうに、 彼の邸宅だということはおそらく間違いはないだろう。本当に彼のものだとした場合、 それを譲渡するんは、何か裏があってしかるべきである。
 そのことをきいてみないわけにはいかない。
「なんで、そんなことをしてまで、こいつの里親探ししているんだ?」
「実はね、祖父がなくなったんだけど、遺書にはこの優実が懐いたものに譲るって書いてあったんだよ」
「嘘だろ」
 即答した木崎に日向は苦笑をもらす。
 やはり、どこまでも、本音を話さない男だ。
「君はこの子を飼ってくれればいい。そうすれば、この家を貸すよ、――もちろん家賃はいらない。悪い条件ではないと思うけど?」
 胡散臭さ過ぎる話であったが、木崎は結果を言えば、承諾したのであった。金がかかるわけではなし、何か厄介事があるのだろうが、それはその時考えればいいと、前向き思考を持つことにしたのである。
 そして、日向はというと、木崎に家の鍵を渡すと、そのままどこかにいってしまったのである。以来、一度も帰ってきていない。半ばしかたなしに、木崎はその一人ぐらしには無駄の多い住宅にすみ始めていた。
 そして、何事もなく、三年間が過ぎてしまったのである。

《続》


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