物心ついた時にはすでに彼は闇の中にいた。
岩を削り、そして土を運ぶだけの毎日。
ただ単調な動作を繰り返すだけ。
飢餓と疲労に皆がただ倒れゆく中で、彼は生きていた。
やせこけ青ざめた顔の中、目だけ異様な光を放つ。人の様子を上目がちに伺い、口元に卑屈な笑みを浮かべ媚びる。そうやっていき永らえていた。
そしてあの日、偶然に大きな空洞に掘りあたった。
突然現れたその空洞の向こうには長い長い道が続いていた。
ただ一つの道が続く。その道を彼はゆっくりと足元に転がる岩をよけながら進んだ。
「―――」
後から、声がした。
誰かが、叫ぶ声がする。
闇の向こうに揺れる松明の炎。誰かが追いかけてきたらしい。
「………ど、………こい」
遥か向こうで聞こえる声に混じって、カラリという音がする。
そして視界に落ちる砂。
(――崩れる!)
地が揺れる。轟音とともに。
舞い散る砂埃から身を庇う。
明かりが消えた。
豪音がようやくおさまった。真の闇の中、手探りで道を探す。
冷たい岩の感触。
確か入り口があった方面、――落盤したのだ。
全身を襲う、恐怖。
声の限り彼は叫んだ。
オレはここにいる、と。
いくら待っても助けはこなかった。
自明の理である。
いくらでも補充のきくものを、わざわざ危険を冒して、助ける必要はないのだ。
素手で岩を引掻く。生への執着を捨てられない彼は生きるためあがき続けた。
叫びつかれ、それでも怠慢に土を掘る。すべての爪がはがれた、指先にぬめった柔らかい塊がふれる。
ふいに思いだされる堪えようのない飢餓。
迷いは一瞬。
彼はそれを口元へと運ぶと、喰らった。
それが何であるか、彼は理解していた。
しかしそんなことはどうでもよかったのだ。
すべて食べ尽くした時に、彼はもと来た道に戻るのをあきらめた。
放心したままの彼の背後に続く道。
どこまで続くのか、先に何があるのかまったくわからぬ道である。
明かりもない。
それでも、重い足取り一歩踏み出す。
人一人やっと通れる程の穴である。
どれだけ歩いただろうか、指先の感覚以外は何も意味をなさないこの場所に、時間があるわけはなかった。そして彼にも時間の観念はなかった。気づいたら暗い闇の中にいたのだ。彼は今自分が何歳なのかも知らない。
延々と道を探っていた手が前方にくる。それから、上へそして下へ、続く道を探して辿る。
いつまでも辿る。
そして、ようやく悟る。
先がないのだと。
今までの道筋にわかれ道はなかった。
そしてこの先はない。
木霊し続ける、彼の嘲笑。
絶望に笑い続けるしか、彼にはもはやできなかった。
もう一度、素手で掘り続けるか、この固い岩盤を。
地が揺れる。
再び落ち始めたのだ。それでも彼は笑い続けた。
舞い散る砂埃にはむせたが、彼はまた押しつぶされなかった。
前に広がる空間。
道は開けたのだ。
土砂に埋まった足を前に出す。
青い光り。
それは突然のことだった。
開けた空間へと出たと思った瞬間に、目の中に入ってきた。
黒だけの世界に浮かぶ青。
震える足で近づく。差し伸べた手が、中へと吸い込まれる。
ぽちゃり。
冷たい水である。
水面に口をつけ彼はそれを飲んだ。
喉を伝って清涼な水が全身に染み渡る。
小さな泉は限りなく澄んでいたが、それでも先がわからぬほど深かった。
そしてその青緑の奥からわずかな光りが差し込んでいるのだ。
水面から放たれるわずかな光りであたりを見回す。
また先はない。
そして再び泉を見つめる。
わずかな光りが瞳に焼きつく。
いつしか彼の体は冷たい水に飛び込み、ひたすら光を追い求めていた。
そして―――。
白。
はじめに彼の目に入ってきたものである。
眩んだ目を掌で庇い、徐々に瞼を上げ、半ばで、目を見開く。
鮮やかな色彩が目の中に飛び込む。
そして、息苦しさに気づくと大きく息を吸い込んだ。
体中に染み込む息吹。
外に出たのだ。
彼がそのことを理解したのは、いつのことだったろうか。
水に濡れ、疲れ果てた体を引きずり、鮮やかな緑の中へと吸い込まれていく。
彼の意識は急速に遠ざかっていった。
気絶した彼は近くの家の住人に助けられ、暖かいベッドと心行くまでの食事が出された。
彼を助けたものが微笑む。
いままでにない満腹感、それとは裏腹に満たされない欲求。
―――食イタイ。
食べ物を探す瞳が辿り着く。
彼を助けたものが微笑む姿に。
彼を束縛するものはもはや何もなかった。
《終》