日常と非日常の境はひどく曖昧なものだといわざるをえない。 日常とは人が毎日のように繰り返し行うことだ。 毎日の繰り返しは、個人の習慣以前に、生きていくうえで必要最低限のものがある。 衣食住、――あたりまえすぎて誰も気にとめぬが、この条件を満たすために、一部のワーカーホリックを除き、人は仕事をするのだ。 ところが軍人はこの三大原則は免除されている。 いや、正確には三原則を満たす「職業」なのだが、それでも軍人でありつづける限り、保障されている。 必要物品の大概のものは支給品という形で手に入る。食堂がある。宿舎もある。 生きていくために原則は保障される、生活とは無縁の職業なのだ。 そのためか独身者用宿舎にはキッチンが存在しない。 家族用住宅にはそなえつけのキッチンが存在するが、これは軍人のためいうよりも、その家族のためのものだ。 それ以外といえば、医務用の宿舎にはキッチンが存在する。 それは彼らが軍人でありながら、戦闘行為には携わらない故だろう。 しかし、彼らとて、医師という多忙な職務のため、折角の設備を利用する機会にはめぐまれない。 しかし、今日、そのある一角が使われていた。 外科主任サラディン・アラムートの居室であった。 だが、使っているのは本人ではなく、ひざまで届く長い黒髪と、並外れた容姿のため、軍人には見えないがそれでも生粋の軍人である、ルシファード・オスカーシュタイン大尉だった。 その手にはナイフならぬ、包丁が握られ、鼻歌をうたいながら、手際よく大根の皮をむいていく。 これは明日の仕込みである。 時計の針はとうに深夜を回っている。だが、多忙な外科主任が帰ってくる気配はない。 ――どうしようかなこれ。 煮込んだ魚を前にしばし悩むが、妙案を思いつく。 帰ってこれないのなら、こちらから行けばよいのだ。 すぐさまルシファードは密封容器を探し始めた。 肝心のものよりも先に棚の中に奇妙なものをみつける。 「なんだ、これは」 黒い……干物……? ビンの中に中に数個つめられた、黒く乾燥した何かだ。 その原型を想像するのはむずかしい。 常人であれば、正体不明物に悩むところであるが、あの不思議なドクターなのだからと、ルシファードはあっさりと納得をした。 それよりも今は、このサバの味噌煮をとどけることの方が先だ。 現在、軍病院は昼の外来が増えたため、昼間は外来の業務に忙殺され、夜は書類に追われる。急をようすることはないものの、仕事がたまっている。 多忙は胃を満たすこともできない。それなのに、鋭敏になった嗅覚がたべものを匂いを知らせる。 ――しかも、おいしそうな魚の……味噌の。 「よう、ベンも食べるか」 ルシファードの何気ない一言だが、それに対するカジャは空腹のあまり殺気だっていたかもしれない。 「一皿、私にもくれ」 どんなに忙しくても、そこに否やという返事は存在しない。 渡された後は、無言のまま箸を進める。 空腹は最大の調味料ともいうが、空腹をとおり越した飢餓には、胃が焼きつくようだ。 ルシファードがもってきた料理は見る間にその容量を減らし、すべてがなくなってようやく一息つくことができた。 そこで、食後のお茶をいっぱい。 ようやく人心地ついたところで、いつもこの男の言動は事件を引き起こす。 「そういえば、ドクターききたいことがあるんだが」 「なんですか?」 「棚の奥にあった黒い干物――あれは一体なんなんだ?」 「ああ、あれはヒキガエルです」 同情と嘲笑と不可思議とも呼べる感情の波に引かれたカジャは、その事実に気がついてしまった。。 ――――! 「……サラ」 「なんですか、カジャ」 「君は私になんてものを飲ませるんだ」 「どうした、ベン」 「オスカーシュタイン大尉、そのヒキガエルがこれだ!」 カジャが指差した先は手元の湯飲みの中の綺麗なミントグリーンの液体を指していた。 「これを飲みたいといったのはあなたですよ」 「それはよく効くからだ。それにハーブティーだと思ったいたからだ。これではゲテモノティーではないか」 「主成分は、ハーブですから、ハーブティーですよ」 「……他にどんなものを入れているんだ」 ここまで来たら、もうこれ以上のものは入っていないだろうと思って聞いたカジャだったが、すぐに後悔することになる。 「他に……ですか、ジギタリスとマリファナとマンドラゴラと――」 「なんだって君はそんなものを――劇薬と麻薬と媚薬じゃないか」 「強心剤と鎮静剤と睡眠薬ですよ」 「薬効より、毒性の方が強そうだ」 「それをうまくブレンドするのが特製ハーブティーですよ」 嫣然と微笑む外科主任に、内科主任はあきらめの境地で、矛先を変えることにした。 「オスカーシュタイン大尉、君はこんなものを呑まされて何も思わないのか」 「なんだって、いいじゃねぇか。よく効くんなら」 カジャのもくろみはあっさりとはずされた。 あくまで彼は軍人。日常とは無縁の職業なのだ。 今まで艦隊勤務がほとんどだった彼はそのほとんどの時間を宇宙空間で過ごした。 地上戦でのような食料が手に入らず、現地調達という悲惨な経験はないが、それでもあじけのない非常食料のみですごしたことはあり、食事というものへの執着はない。 もっとも、彼の最も強い執着は睡眠欲だろうが。 この日、カーマイン基地の噂に、ドクター・サイコの伝説がもう一つ追加されることとなる。 これは日常である。 ドクター・サイコの伝説がまた増えただけの日常。 日常と非日常。 その境は曖昧で、しかし、相容れないものなのだ。 《終》
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