関東大震熊谷日誌

高橋博,1988,宇宙から見た地震雲,地震ジャーナルのPDF (pdf、1100KB)


塚本治弘,1989,「地震雲」はあるか?、「天気」のPDF (pdf、900KB)


「関東大震熊谷日誌」原本ビラのPDF (pdf、305KB)


大正十二年九月一日関東大震熊谷日誌
(印刷の代りに謄写版で作成)
埼玉県熊谷測候所長 平野烈介手記
(注:現 熊谷地方気象台長)

九月一日
 一昨日九州に風水害を起した台風は中国地方を貫き、近畿を荒し、今朝信州・飛騨を経た後、本県北方を東北東に通過す。昨夜20時暴風警報を発令したが、間もなく天候不穏、南東風募り強驟雨時々来る。この風雨中に今朝5時半自宅で微震を感ず。天候益々険悪につき直ちに朝食もとらず出所し、暴風警報の追加を発令す。宿直の木村技官は、夜来の測定成績を語り地震計記象紙を示して曰く「台風接近、例により近地地震あり」と。然り、近頃これが常例なり。別に具体的調査はしていないが、風雨観測の繁労前後に地震計操作の作業が追加され、当務者は体験的にこれを会得した。大気圧力急変等の外力に敏感となれる関東地方の地盤状態を憶測すれば恐ろしき事なり。されど即座に大地震ありなど夢にも考へず、該当地震を験測すれば5時35分34秒発震 (注:この時刻に測候所に着震した意味)。初動微動継続時間25.2秒、最大振幅0.09mm(周期0.9秒)震央距離187キロでだいたい南西方向。益々強くなりたる雨は9時より小降りとなり11時霄れて雨後の青空を軽快なる白雲去来す。
 職員が昼食でも済ませば警報解除の手続をしようと思っていたら、その時、ガタガタと戸障子はためく地震初動に、又小震かと時計(11時59分を示す)を見る間もなく強烈なる東西動に著しき上下動を混じえて0.6,7秒の周期で家をも覆さん激動、職員総立ちとなる。されどその時は当所の本館倒潰を直感するほどに振動急にして、家屋の自己振動周期を超越していたが、十数秒後には家の揺れと地震が共鳴して物凄き事甚しく、屋外に飛出す者もいたが、幸に倒潰を免れ、烈しき余動に一同よろめきつつも地震計の操作に着手した。微動計は東西動の重錘振落されて破壊、南北動も重錘偏傾して元に戻らず。普通地震計は東西・上下の両成分破損し、ただ南北動のみ自己記録可能外の大振を無茶苦茶に描いており、如何ともする能はざるとき、12時3分再び強大なる急震を感ず。次で普通地震計の応急修理に着手し、回転済ドラムを取はずした時12時11分17秒第3回強震に襲われる。器機皆甚しく狂い自由に動かず、ただ微動計のみ復旧す。続いて12時18分、同24分強震あり、同35分、同37分、同42分弱震あり、同49分又もや強震あり。これを強震の最後として、あとは弱震以下となる。外を見れば付近各工場の大煙突は折倒又は危険状態であったが、低小なるものには異常無し。(注:すべて熊谷での震度)この時、付近の町村民が今後の成行を聞こうとして本所に群訪し交々地裂家潰を談ず。急遽来所の警察署・長役場員に対して「もはや強震は無いが、小震は今後一週間は頻発する、震源は本県である」と言明す。時事新報記者もこれを聞いて東京本社に報知すべく自動車で飛ぶ。この時、通信交通機関はのこらず途絶していた。以後も余震頻発して物情騒然、本所の門前に市をなす。一々応答する事ができないので、門前へ前記の文句を大きく掲示し、なお震源は武蔵(注:現在の埼玉県)北部の地下10里(約40km)であると付記す。これはこの地震の初動微動継続時間10秒内外にして大森博士の公式を適用すれば震源距離(極近なら震央距離ではない)70余kmとなり、射出角が相当大きいので目算上武蔵北部の地下10里と云うより外無かったためである。知事へも報告しようと思ったが電話電信汽車皆不通。しかし秩父方面より警察電話が通じて「この地方、余震のつど音響ドードーと轟き、高所から南方を望むと伊豆方面に噴煙揚がるが如し、大島噴火ではないか?」と報告兼問合せがあった。もとより火山爆発に非ざる事は明瞭であるが、これを聞いて私は却つてこの震源が秩父に近き事を想像した。震源には近いが秩父地方は古生統の一枚岩であるので、震害軽微にして、ただその南方山中に山崩が続発して轟々の響を発しているのではないかと想像した。
 この後も余震続発、人々本所に雲集し、付近の損害模様を喧伝されるので、14時より所員を町内視察に出し、更に17時には自身で町内を見まわる。被害は案外軽く、全潰家屋は無いが、瓦や壁の崩落は随所に見られ、神社の石燈籠は東方に跳飛ばされており、河堤や道路は至る所亀裂し、地下水や泥砂を噴き出した所もあり、井水概ね濁り本町にては酒屋の大井戸に消防ポンプを仕かけ各戸に給水しつつあり、人々は往来に畳など敷き露営の準備を整へていた。日が全く暮れた頃、ふと見れば東南の空に14時頃より異様に湧起していた積乱雲が真紅に変色した。あたかも近村大火の如し、警鐘が鳴り消防隊が出動したが、東京火災の火映と思もわれ空しく引返す。東京日々支局前には、警視庁及帝大・帝劇火災、本県南部及東京市の震災猛烈の掲示があった。夜に入り南東の火雲は益々炎々として終夜衰えず。夕食後、地震の験測中、時事新報記者が東京より帰来、その惨憺たる被害及混乱を説き、沿道の震災概況を報ず。熊谷の南方4kmほどの久下村は地裂甚し、それより南方に至るに従い被害は激増しているが地変は少しといふ。東京行各列車は皆旅客を熊谷駅に下し大混雑。余震頻々として夜半までの12時間に173回。

二日
 所員を久下村に派遣す。同地方は土地の亀裂甚しく、所員の実家は殆ど潰れたりと云ふ。東京との通信が全く絶えているだけでなく、当地の郵便は皆東京経由であるので各地との通信すべて途絶えている。午後4時頃、中央気象台へ講習に派遣していた所員が命からがら避難し帰る、その談によれば中央気象台は地震当時官舎敷棟が半潰したが、市内に逃出すや猛火に追はれ、火粉を浴び阿鼻叫喚の中を潜抜け、市中で夜を明かし、翌朝、日暮里駅にて乗車し破壊せる赤羽鉄橋を歩いて渡ったと。この頃より東京避難民が続々熊谷へ着き、東京・横浜の全滅惨状及不逞団の暴動等を伝ふ、今朝より警察電話県庁に通ず、直ちに地震概況を知事に報告す。本日中の余震回数304回。
 しばらく余震が頻発しているが器機破損して完全なる測定不能、種々苦辛の結果はただ初動継続時間が概ね10秒内外で発震回数の経過に異常なきを知り得るのみ。気象電報不通にして天気予報に困る。今後の処置如何。中央気象台の安否を見届け及これ等の打合せ方々震災視察の必要あり、明日未明に所員を伴い出京せんとゾウリ・食糧を用意す。しかし、夜になり逞団に関する流言頗る不穏。東京には大殺戮行はれているなどの風説盛んにして、又熊谷駅よりは汽車の混雑甚しく乗車危険なれば見合わした方が良いとの忠告あり。見合わす。

三日
 本日中の余震総回数123に減す。
 刻々伝わる情報を総合するに中央気象台の存在疑はし、今夜単身出京せんと再び装糧を整へたが、夜に入り不逞団が熊谷に侵入、爆弾・毒薬を投ずなどの風説あり。夜警団体が出動し、町の要所を固め、邸内は各自警戒せよと夜警的装束の者がふれに来る。徹宵警戒す荷造りをして避難の用意する者もあり、陰惨たる不穏事件が行なわれているかの如き有様なので、一所員が来て、今暫く出京を見合せよと忠告し、自らその瀬踏せんとの意を示す。

四日
 早暁、一所員が中央気象台の存否を見届けに行く。朝、火葬場番人が惨死体を積重ねた荷車を曳いて通る、形勢不穏物情騒然たり。上京の所員は夜になっても帰って来ない。本日の余震回数71。本日初めて配達された東京新聞によれば、今回の震央地は相模湾又は伊豆大島等の説あり。それにしては当所での初期微動継続時間のあまり短きに不審を抱く。

五日
 午前2時、所員が東京より帰る。帰途、汽車の窓より乗込む時、列車の屋根上に満杯に乗った旅客の落した水瓶のため頭部に負傷し、血を流しながら中央気象台の状況を報告、内容は、本館も官舎も全焼し、人は皆旧本丸内に避難したが食糧に窮す。よって直ちに熊谷に向け自動車を発し米を取りに来るはずなりと。
 早速、米の買収に奔走したが、売手も無く困っていた。しばらくしてなんとか農家の者と購入契約ができた。東京からの自動車を待てども来ない。本日の余震67回。

六日
 震災視察、事務打合及地震報告かたがた中央気象台を見舞おうと午前3時出発。汽車は遠方よりの客にて満杯で片足も入れる事ができず、貨車・機関車はもちろん屋根の上も満員で止むなく車外より窓に取縋る。途中各駅にて長時間停車し田端駅に着いたのは14時半。徒歩で市内に入れば満目荒涼たる廃墟と化し、帝都は文字通り全滅なり。中央気象台は風力台と書庫を残して、構内一面灰煙瓦石のみ。その中に不思議にも築地技師の官舎のみ傾斜して、物に支えられ炎を浴びた形跡を残して残存していた。自動車が来なかったのは当然で、真先に自動車が破壊されていて澤田運転手も大負傷を負っていた。とりあえず1日以来の報告をし、事業の大勢に関する諸般の都合を承き、米の供給を引受け、岡田台長、築地技師、梶間、佐藤両技手に逢うだけで、他を見舞ふ暇も無く帰途に就く。日暮里より出発する汽車の混雑往途よりも甚しく、プラットホームは待ちあぐねて乗込めない避難民に満つ。辛うじて窓に片足を引掛け帰ったのは翌日午前3時なり。本日中の余震回数41。
 県外との郵便電信すべて不通、他県の消息少しも分からず、昨日を以て戒厳令区域が埼玉全県に拡張された。(打切)