ベヒシュタイン物語

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●ベヒシュタインの歴史

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ベヒシュタインは1853年にカール・ベヒシュタインによって創業されたドイツ,ベルリンのメーカーです。 カールは1826年6月1日テゥーリンゲンの山なみの麓に生を受けています。カールには2人の姉が いました。すぐ上の姉のエミリエの夫はヨハン・グライツというピアノ職人でした。
karl 姉の夫がすぐれたピアノ職人だったということがカールをピアノ職人へと導いたのです。 義兄のところでの修行のあと、カールはプレイエルのドレスデン工場で働いています。そこで数年働いた後、 ピローというベルリンのメーカーでも修行しています。修行時代のカールの目標はパリへでて 修行することでした。当時パリはエラールやプレイエルなどの有名なメーカーがひしめき合い、 ヨーロッパのピアノ生産の中心的な場所だったのです。

カールは寝る間もおしんでフランス語を勉強し、 ついに1849年にパリへ旅たち、クリーゲンシュタインの 工房で修行を始めました。そして約4年の修行後、カールは1853年に独立したのです。 1853年は今も一流メーカーとして活躍しているスタインウエイとブリュートナーも創業された ピアノ史上栄光の年となったのです。

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カールは最初のピアノに9ケ月要しました。すべて自分による手作りです。初期のベヒシュタインを 最初に認めた音楽家は、後にベルリンフィルの指揮者もつとめたピアニストのハンス・フォン・ビューロでした。 彼は1856年のリサイタルでベヒシュタインの使用してリストのソナタを弾きました。彼はリサイタル後の記事の中で ベヒシュタインの持つ優れた特徴を強調しました。そして、その後もビューローはベヒシュタインの有力な擁護者となったのです。

そしてベヒシュタインの擁護者として忘れてはならないのは、あのフランツ・リストでしょう。 ビューローのリサイタルの後、カールはリストのリサイタルをベルリンに聴きにいきました。 その夜はエラールを使っての演奏だったのですが、カールはこれ程までにすさまじい打鍵を見たことがないと述懐しています。 そして彼はこの演奏にエラールが耐えられるのか注意深くみていました。 その結果、リサイタル後、弦がぶつぶつきれてしまったエラールの残骸を目にするのです。 その夜、カールはリストの演奏に耐えられるピアノを作ろうと決心するのです。 そしてビュローのアドバイスをもらいながらグランドピアノを完成させ、ついにリストに弾いてもらう日がきました。

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リストはベヒシュタインの真価を認め、そして2人はこの偉大なヴィルティオーゾが亡くなるまで親友となりました。 リストに認められたベヒシュタインは市場にも受け入れられ、拡大の一途をたどることになります。 1879年にはロンドンにも出店しています。さらに数年後にはヨーロッパ、アメリカ、南アメリカ、アジアの主要な 都市に販売代理店を設けています。 生産台数も1870年には年間400台、1883年には1200台、1910年には5000台もの生産を誇るように なりました。 その間、1900年には創業者カール・ベヒシュタインはベルリンで、その栄光にみちた生涯を閉じています。

カールの死後、会社は3人の息子、エドウィン、カール、ヨハンによって経営されます。 しかし、20世紀前半は世界的に難しい時代を迎えていました。 第1次世界大戦がはじまると、激しいインフレが起こりベヒシュタインのピアノは1桁違う値段になってしまったのです。 この苦難の時代は兄弟が力を合わせて乗り越えられたものの、1926年には工場の建設をめぐってエドウィンとカールが 対立し、エドウィンは会社を去ってしまいました。 そしてあの世界大恐慌と第2次世界大戦を迎えます。ゲルマンの誇りとしてのベヒシュタインはアメリカ・イギリスから徹底的に 工場を破壊されてしまいます。ハンブルグのスタインウエイがあまり損害を受けなかったのに較べると 戦後しばらく操業を開始できなかったベヒシュタインの損害のはげしさがお分かりになると思います。

ドイツのメーカーはベヒシュタインにしてもブリュートナーにしても敗戦国となってしまい、工場が破壊されて、戦後なかなか 過去の栄光を取り戻すのは難しかったようです。一方戦勝国のスタインウエイはそこまでは影響を受けずに戦後のシェアを一気に 引き上げました。現在、スタインウエイが世界のホールのほとんどに入っているのはそういった背景もあるようです。
ベヒシュタインは苦労しながらも40年代の終わりにはなんとか生産再開にこぎつけました。しかし1962年にはアメリカの ボールドウィン社の傘下になるなど、その後も苦難の道は続きます。 しかし、1986年にやっとドイツ人による経営にもどりました。かれらはベルリンに組織を再集結させて創始者カールの考えを 復活させるべく活動を開始します。現在は同じドイツのメーカーだったツィンマーマンとホフマンも含めてベヒシュタイングループとして 経営を安定させて、美しいベヒシュタイントーンを聴かせてくれます。

また、ベヒシュタインは創業から150年を迎えた2003年に、かなり大きな設計変更を行ないました。 まさに今までのベヒシュタインのイメージを変えてしまうほどのものです。
ベヒシュタインというと、大きなホールでの演奏よりは少し小さめな会場での演奏の方がピアノの 微妙なニュアンスが伝わりやすく、適しているというイメージだったのではないでしょうか。 しかし反面、音量がスタインウエイなどに比べると少ないという指摘があったのも事実だと思います。 今回はそのような問題を解決すべく設計が変更されたようです。
具体的には高音域の音量を大きくするためにハンマーヘッドを大きくしたことがあります。 その結果、ベヒシュタインだけが保持していた総アグラフが採用されなくなり、スタインなどと同じように 高音域の弦を押さえるのにカポダストロバーが採用されるようになりました。 また側板も以前よりも厚くなったようです。また、ベヒシュタインの外見的な特徴であった、むきだしの ピン板もフレームで覆われました。

これらの結果はどうだったでしょうか。僕はピアノを生業にしている方が感想を述べているのを 2回ほど聞く機会がありました。どちらもかなり好意的な意見でした。
僕の意見としては、以前のベヒシュタインとスタインの中間的のところかな〜というのが感想です。 音量的には以前よりもパワーがあります。そして音色は以前は木が鳴っているイメージでしたが、 今回のものはそれにフレームがもつ、きらびやかさが加わった感じでしょうか、すこし華やかになりました。 どちらが良いかは個人の好みですが、今回の設計変更でより一般的なものになったような気がします。

話は横にそれますが,ベヒシュタインと日本とは結構関係が深いのです。というのは日本楽器(現ヤマハ)は 大正10年にベヒシュタインと輸入代理店契約を結んでいます。さらに大正15年にはベヒシュタイン社の監督技師である エール・シュレーゲルを招聘し、技術顧問をしてもらっています。
シュレーゲルはベヒシュタインに入社する前にブリュートナー社に在籍していたこともあり、 名門と呼ばれる両社でのキャリアは数十年にも及んでいました。

当時,日本楽器に所属していて、後にディアパソンを作った大橋幡岩や,カワイをつくった河合小市なども シュレーゲルの指導を受けています。彼は日本楽器3代目社長の川上嘉市のもと、大活躍したようです。彼のもとで技術者たちは 今まであまりしていなかった、「よい音とは」「よいピアノとはなにか」という抽象的で感性的、音楽的な議論を続け、 そして整調技術をはじめとする製作技術を学んだのです。戦後、大橋幡岩は当時を振り返ってこう述べています。いわく 「彼を境に日本楽器の、否日本のピアノは生まれ変わった」。
日本楽器ではそれまではスタインウエイをモデルとしていたのですが、これ以降、戦後までベヒシュタインをモデルとすることになります。 私は戦前のヤマハのピアノは弾いたことも聴いたこともないんですが,どんな楽器だったんでしょうね。

日本とベヒシュタインでもう一つ。ベヒシュタインは出来上がったピアノを出荷するとき、最初の出荷先を記録に残しています。その中に 「His Imperial Majesty,The Mikado of Japan」という記載があるそうです(英語なのは不思議ですが(笑))。ミカドなんていう 言葉をつかっていることからかなり古いものでしょう。もしかしたら皇居で皇族の方々が今でも弾いているかもしれませんね。

●ベヒシュタインピアノの特徴

側板

ピアノのボデイの曲線の部分を側板といいます。ベヒシュタインはここの部分には標高の高い山に生育している赤ブナ材をまげ それを17層に接着しています。
後でのべますが、響板には弾力性のあるものを使い、側板には硬い材質のものを使うことによって 響板振動のエネルギー損失率を下げているのです。

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支柱

ピアノの裏にまわると太いはりのようなものを見ることができます。これは弦の張力を鉄骨とともに支えている「支柱」と 呼ばれる部分です。
支柱は張力を支えるだけではなく響板や鉄骨の振動も含めた低音や高音の響きの成分をピアノ全体に伝えるという 重要な役割もになっています。

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ピン板

ピアノの鍵盤のすぐ前には弦をとめるチューニングピンとそれを支えるピン板が見えます。 ピン板はチューニングピンをしっかりと支えるために特に硬い材質である、「ブナ材」を28層にわたり 木目を交互にして接着されているます。また、外見的にもベヒシュタインはピン板が鉄骨でおおわれていなく むき出しになっています(2003年の設計変更でかわりました)。これはチューニングピンの長さを短くしてしっかりとピン板につけ、調律のもちを 良くしようとの工夫です。

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響板

よくスタインウエイは鉄骨を、ベーゼンドルファーは箱を、そしてベヒシュタインは響板を 鳴らそうとしているといわれます。ベヒシュタインのクリアーなサウンドはこの辺に秘密があるのかもしれません。

ベヒシュタインの響板にはヨーロッパ南東部、特に厳しい気候の高い山に生育する「ハーゼルフィヒテ(とうひの一種)」 が使用されます。この木は板状に切断されたあと、10年にわたり寝かされます。こうしてゆっくりと響板として 最適な含水率を達成し、内部繊維組織を安定させるのです。そしてさらに響板の形に加工されたのち数ヶ月、通常の 室内と非常に近い湿度、温度の中で寝かされます。このことによって完成後のひずみやそりを避けているのです。

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鉄骨

いうまでもなく現代の巨大な弦の張力を支えているのは主に鉄骨です。それだけに現代のピアノにとって鉄骨は 非常に重要なパーツになっています。ベヒシュタインの鉄骨は昔ながらの砂型でつくる、 ねずみ鋳鉄と呼ばれる材料で作られます。これは笛のような雑音を防ぐ効果があり、周波数特性に優れているといわれています。 そして、この鉄骨も自然の環境に長期間放置し、内部の歪みを十分に取り除く努力がされています。

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●ベヒシュタインを愛した音楽家たち

ベヒシュタインを愛した音楽家の中では、まずなんといってもリストでしょう。彼はこんな言葉を残しています。 いわく「この28年間ずっと貴社のピアノを弾き続けてきたが、ベヒシュタインピアノはいつでも最高の楽器だった。」

また,ピアノ音楽に革新をもたらしたドビュッシーもベヒシュタインを愛する1人でした。 かれもこんな言葉を残しています。「ピアノ音楽はベヒシュタインのためだけに書かれるべきだ。」 これは私の勝手なイメージですが,ベヒシュタインのピアノは音を重ねていったときに,もちろん響きあうのですが, それぞれの音の芯はぼやけません。なので非常に鮮明な音作りができるのです。 ドビュッシーの音楽はフンワリと響かなくてはいけませんが,ぼやけてしまってはきれいではなくなってしまいます。 そんなところから彼はベヒシュタインを愛したのでないでしょうか。

ほかにも著名な音楽家がベヒシュタインの賛美する言葉を残しています。

アルトゥール・シュナーベル
「ベヒシュタインは指と耳を満たす」

フルトヴェングラー
「ベヒシュタインは間違いなく現在製作されている中で最高のピアノのひとつである。 とりわけ高貴で豊かな音色。甘いのに、崇高。」

ケンプ
「ベヒシュタインの時代に生きられて嬉しい。」

バックハウス
「私は、堂々たるベヒシュタイングランドの信奉者です。」

最近ではフジコ・ヘミングさんがベヒシュタインを愛用されていますよね。彼女のカンパネラの高音の涼やかな音を 聴くとやっぱりベヒシュタインはいいな〜なんて思ってしまいます。

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