− 謎の論文 −

                        帆船

しりあ


この論文は、16世紀〜18世紀終わりまで活躍した帆船達を主題としている。帆船の構造と原理、装帆の種類について。そして当時の英国海軍の軍艦と、歴史の裏舞台で少なからぬ活躍をした私掠船という知られざる武装帆船についてまとめたものである。

1.帆走の歴史

人間がいつ、どこでどのようにして「帆」を思いついたのか今日でも定かではないが、少なくとも帆船の歴史は紀元前3000以上昔にさかのぼる。
 古代エジプトなどによって船に樹皮や獣皮を利用した粗末な帆が取り付けられたのが人類が風という自然の力を利用して工夫した帆船のルーツと考えられている。だが、15世紀以前は帆船の歩みに変化は乏しく、一本マストに一枚帆という
古代の形式そのままに、一本マストに三角帆や横帆がつけられる程度であり、せいぜい二本マストの帆船が目につくぐらいの沿岸航海用の小型なものであったと考えられている。大海航海に耐えうるような外洋航海帆船は15世紀に入ってからであった。
 15世紀にはいると、三本マストの帆船(前二本が横帆で後ろの一本が大三角帆)
がスペイン・ポルトガルなどで現れる。世界では海外市場の獲得、植民地発見の時代であり、大海原を乗り越え未知の大陸を発見するという望みが広がる。当時の帆船は船体の長さが幅の8倍以上あるガレー船などであった。
 ほどなく(1486、ディアス)三本マストの船隊が喜望岬を見出し、アメリカ大陸を発見した(1498年、コロンブス)さらに喜望岬回りのインド洋貿易航路が開拓され、ここに大航海時代が幕を開ける。ちなみに当時の三本マスト船は全長20数メートル、80トン程度の大きさのカラック(キャラック)と呼ばれる型の船。
 16世紀に入ってすぐの1519〜1522年にはマゼラン一行が船団をくみ、世界一周航海を成し遂げる。この当時の船はガレオン(表記によってはガリオン)と呼ばれる数百トンの大きさを持つ帆船であった。ガレオンはこれ以後の外洋港航海型帆船の主流となっていったのである。


2.帆走の原理
帆船が風を受けて走るのは、後ろから風に押されるだけではなく、前からの風が帆の裏を流れると、帆の表側の気圧が低下し、帆全体を表側へ引っ張るような力が働いて、船を前に進めることができるからである。また、帆の前に小さな帆を重ねると帆の表側に生ずる空気の渦を押し流す作用が発生する。これにより、帆走の効果大幅に向上するため多楼(複数のマスト、帆を持つ帆船)の帆船が生まれた。

2.1帆の形状と効果

 帆の形状は大きく分けて三種類ある。和船でも使われる横帆、近来の大型帆船等で良く見られた縦帆、そしてヨットなどに多用される三角帆である。

一般に横帆はマストに対してヤード(帆桁)を垂直にしたものから吊り下げ、その下のヤード、ないし甲板に帆耳をテークル(ロープ、または索)によって牽き付けることによって使用する長方形の帆のことである。横帆は追い風を効率よく利用することができ、荒天時の減帆・縮帆(帆のを大きさを縮めること)にも便利であり、大型航洋船に多く採用されていた。
なお、三角帆はジブと呼ばれる比較的小型の帆とラテンセールと呼ばれる大きなものに分けられた。ジブはテークルのみによって各頂点を牽かれ、展帆する固定型の帆である。一方、ラテンセール(日本語訳では大三角帆)はマストに対して×字を描くようにして斜めにとりつけられたブームに上辺がくくりつけられた可動式の帆のことである。このラテンセールが出現したのは13〜14世紀の地中海と言われており、ラテンセールは横帆では考えられない向かい風の公開を可能として航海術の発達を促した。この後、ラテンセールは発展を続け横帆と結びつき、そしてやがて縦帆の発明に至る。
 縦帆は、マストに対して斜め上方に据え付けられたガフ(斜桁)から吊り下げられる魚の尾鰭のような形状の帆のことで、展帆時は船体の左右、どちらか側に固縛されて運用される。縦帆は向かいに対する逆行性能と操帆作業の容易さにおいて横帆に優りながら、大型になると風を受けるために右舷から左舷、左舷から右舷へとスィングさせる操作が困難んいなる。また、強風時にはスィング時に受ける風圧と衝撃により船体自体を危険にさらす恐れがあったため、もっぱら沿岸航路の小型先向きであると考えられていた。

2.2装帆の種類
 近代の帆船は性格の異なる横帆と縦帆を巧みに組み合わせ、それぞれの目的にあった帆装を作り上げている。代表的な装帆の例を以下に示す。

横帆船:主帆が横帆であり、2本以上のマストに横帆を持つ帆船のことをさすが、補助的に縦帆を備えているものが多い。

縦帆船:主帆が縦帆である帆船で、補助的に横帆を備えている場合もある。


これらの帆装が頂点に達したのが、19世紀後半のクリッパーと呼ばれる型の帆船である。30枚以上の横帆や縦帆が生み出す力は、スマートな船体を20ノット以上の速力で走らすことも可能だった。

 バーケンティン
 三本以上のマストを持つ複合縦帆装帆で、一番船首よりのマストにのみ四枚の横帆を
 持つ。

 バーク
 三本以上のマストを持つ複合横帆装帆で、一番船尾よりのマストにのみ縦帆を持つ。

 フルリグドシップ
 三本以上のマストを持つ複合横帆装帆で、一番船尾よりのマストに縦帆と横帆を備
 える。(クリッパーはこの装帆の発展型)

 ブリッグ
 二本のマストを持つ複合横帆装帆で、後ろ側のマストに縦帆と横帆を備えるフルリグ
 ドシップの縮小版。

 ブリガンティン
 二本のマストを持つ複合縦帆装帆で、前側のマストに横帆を備えるバーケンティンの
 縮小版。

 スクーナー
 二本以上のマストを持つ縦帆装帆。

 トプスルスクーナー
 二本以上のマストを持つ複合縦帆装帆で、前側のマストに縦帆と横帆を備える。
 バーケンティン非常に良く似た装帆。

 ケッチ(ダウ)
 二本のマストを持つ大三角帆装帆。(ダウは18世紀ぐらいまでの呼び名)

 カッター
 傾斜角のついた一本マストを持つ複合縦帆装帆で、一本の傾斜マストに縦帆と横帆を備える。

 カラック
 三本のマストを持つ複合横帆装帆で、一番船尾よりのマストに大三角帆を備える。(コロンブスの座乗艦、サンタ・マリア号がこの装帆)

 ガレオン
 三本以上のマストを持つ複合横帆装帆で、船首より二本以外のマストは全て大三角帆を備える。




3.操船技術
 ヨットのような小型帆船もマストを複数本持つ大型帆船もすべて帆船は帆を使い、風の力を巧みに利用して走る。帆走中は、風の向きに対して帆の「開き」の角度を変えることにより帆の向きを調節し、常にもっともスピードのでるような状態にしておかねばならない。それ故、帆船はその行き先方向に対して風の吹く方向が変化すればその都度、ヤードを施回させ、風にあわせる必要が生ずる。
 帆船が滑るかのように快走しているときは、すべての帆に風が十分に入り、帆がなだらかな曲線を描いているときである。間違われがちの事実であるが、帆船が快走状態になるのは斜め後ろからの風を受けたときであり、追風(真後ろからの風)の状態が一番効率がよいわけではない。なぜならば、追風の場合は前帆が効率よく風を受けることができないからである。
 帆船の場合、いい方向から「適度な」強さの風が吹けば驚くほどの快速ぶりをみせるものの、風が止まってしまえば速力はとたんに落ちるというものである。
 こうした風のほかに速力に影響を与えるものとしては、帆の面積、帆の形とふくらみ、風に対する帆の角度などが上げられる。1600年代以前によく見られた帆が風をはらみやすいように大きくゆとりをもたせていた装帆も帆走の原理からしてみれば効率的なものではない。近代帆船にみられる装帆に大きくゆとりが持たせられていないのはそのためである。

3.1風上に向かっての帆走
 帆船はいつも順風で走れるものではない。目的地が風上である場合、逆風をついて風に向かうこともある。しかし、帆船は特性上風に対して真っ直ぐに走ることはできない。船の進行方向と風向きの角度が小さすぎると帆に風を受けることができなくなり、帆はバタつき前進力を失ってしまうのである。 そのため、目的地が風上にある場合はその航路を風上にとり、帆に風を受けることにできるぎりぎりの角度で風上に切りあがり、しばらく進んでから船首を回頭し、今度は反対方向へ向かって進んでいくというジグザグの航路をとり、風上の目的地へと進んでいく。これを「間切る」という。余談ではあるが、多数の帆を持つ西洋帆船に比べ、一枚帆で甲板を持たない和船でのこの作業は困難を極めたという。この事は「雨風に間切るその夜の/その身のつらさ/もうやめますわいの/船乗りを」といった和謡が残っていることからも容易に推察できよう。
 なお、普通の横帆では、このジグザグの角度を60度以内に小さくすることができないが、もっとも近代的な縦帆ではこのジグザグの角度を40度まで近づけることができる。一般的にはこの風に対する性能が帆船のもっとも重要なポイントといえる。

3.2上手廻し(タッキング)と下手廻し(ウエアリング)
 いずれの方法も帆船が回頭、つまりUターンするときの方法。
 上手廻しは船の左から風が吹いている場合左廻りを、船の右から風が吹いている場合は右廻り、つまり風上廻りで回頭する。風を使ってのスピンターンとでも言えようか。この帆走法は高度な技術を要するが、回転半径が小さく、比較的高速度に回頭する事が可能。 一方、下手廻しは、上手廻しとは逆に左からの風の場合は右廻り、右からの風の場合には左廻りと、つまり風下廻りで回頭する。回頭の始めから風の力をめいいっぱい使えるので比較的容易に回頭することが可能ではあるが、最初に風を受ける分、回転半径が大きくなり、その分廻り方が遅くなる。

3.3詰め開きと一杯開き
 性能ぎりぎりに風を間切る時の帆の状態を示す。詰め開き(クロースホールド)は帆船が性能一杯に風上に切りあがって(出来るだけ風の方向に近い角度で)帆走する状態を示し、帆走法の内で一番重要でまた難しいとされている。どの程度まで切りあがって帆走できるかはもちろん帆船の性能によって異なるが、斜め前方向からの風が吹いても船はこの方法で前進(ほぼ直進)する事が出来る。この詰め開きの状態がし過ぎると、本来風を受けねばならない帆が風をはらむことが出来なくなり、帆の裏側に(普通は進行方向前面)
に風を受けてしまいバタつく。この状態を「裏帆を打つ」といい、船は行き脚を失ってしまう。また、この裏帆を打つという操船は故意的に行われることもある。行き脚を急速に削ぎ落としたいとき、または停船したいときの最終プロセスなどである。これにより帆船は船体に大きな抵抗が生じ、まるでブレーキをかけたかのように行き脚を失うことが出来るのである。なお、一杯開き(フル・アン・バイ)とは帆船が性能一杯に風下に切り下がって帆走している状態を示す。前述したが、帆船は真後ろからの風を受けた状態が最も効率よく帆走できるわけではない。従って、一杯開きとは帆船が最も効率よく帆走している状態を示す。この状態を「順走」とも呼ぶ。

3.4漂駐と漂泊
 混同されやすいが、いずれも帆船を一定の場所から遠ざけないようにするための
操船技術である。漂駐(ヒッブツー)とは、錨を使うことの出来ない深い海域や緊急時などで用いられる、船を一時的に一定の場所に止める方法のことである。漂駐は帆と舵を用い、前進・後退を繰り返し、船をその場に止めるが、実際にはいくぶんかずつ徐々に風下方向に流されていくというものである。一方、漂泊(ライツー)とは荒天支索帆、つまり特に頑丈にあつらえられた小さな帆、のみを展帆し船首を風下方向に向けさせた状態で風・海流に流されるままにし、嵐などを乗り切る操船技術である。漂泊時にはシーアンカーと呼ばれる船首、又は船尾から流して水上に浮揚させ、船首を風上に保つ一種のタコを用いて船体の安定性を増させることもある。


4.沿岸航海
 沿岸航海のみならず、航海に必要とされる道具は海図とコンパス(羅針盤)である。この羅針盤の発明によって大航海時代が切り開かれ、未知の世界へと探索の手が広げられたわけだが、この海図はその大航海時代の船乗り達が実際に自分達の目で見た形状、大きさ、深さを書き込んできたものの集大成である。この時、この深さを測るのに利用されたのが測鉛と呼ばれる道具である。測鉛は、大航海時代、航海とは切っても切れないものであった。なぜならば、植民地となりえるような土地は大抵外洋航海型の深い喫水の帆船が側まで行けるような好条件ばかりとは限らなかったからである。現地人の多くは、低喫水の小さな小型船しか持っていないことが多く、きちんと整備された「錨地」を必要としなかったのである。 一般に用いられた測深の方法は測鉛と呼ばれる鉛の重りのついた長い鎖で、鎖に深度目盛りがついたものを船首から海に投げ込み、深度をはかっていた。また、この測鉛の先端の重りの底には獣脂を入れるスペースがあり、その獣脂についた海底の砂や石などを手に取ることにより海底の底質を調べたという。

4.1 銅板
 近代の鋼船が錆を避けるために塗装などの各種皮膜で船を覆っているように、木造の帆船もまた船を腐食などによる被害から守るために銅板で喫水線下船を覆っていた。この銅板による皮膜は船体を腐食、海藻、貝類などび付着から守るほかにも船の帆走性能向上にも効果があり、船体を銅板で覆うことによって1〜2ノット程度の速力を稼ぐことができたという。

5.武装帆船
  15世紀に生まれ、カラックからガレオンへと進化した帆船は自国の植民領土を守るため、貿易路を守るために商船に武装を施し始める。武装帆船ガレオンの登場である。このガレオンは長さが幅の三倍程度、砲甲板を低くして重心を下げ、舷側に多くの大砲を備えていた。1588年に進攻したスペイン海軍無敵艦隊を構成していた船種がこの武装帆船四本マスト・ガレオンである。この後、武装帆船は進化の一途を辿る。この武装帆船は18世紀の中頃に一応の完成度に達し、以後の半世紀の間に改良を加えながら建造されていき、戦闘力と帆走力という矛盾する要請をクリアし、フルリグド型装帆の戦列艦という砲100門以上を搭載する大型の三層甲板艦が世に姿を現し始めるのである。

5.1火砲
 艦に搭載されていた火砲は、以下の種類があり、打ち出すことの出来る砲弾の大きさで区別されていた。6ポンド砲・9ポンド砲・12ポンド砲・18ポンド砲・24ポンド砲・32ポンド砲のおよそ六種類で、最大の大きさの32ポンド砲は長さ三メートル強、6〜8トン程度の重量があったという。最大射程は約二千七百メートルであった。6、9、12ポンド砲は主としてスループ艦に、12、18ポンド砲はフリーゲート艦に、そして24、34ポンド砲は戦列艦に搭載されていた。
 この当時の火砲程度の威力では相手船を撃沈することは到底不能である。したがって、攻撃力のある戦闘艦を作ろうとすると、出来るだけ多くの火砲を積み、短時間の間に一発でも多くの砲弾を相手船にたたき込むことが要求されることになる。その為、一斉に射撃できる砲の数が最大となる状態、すなわち舷側を相手に向けて戦闘する方法が採られるようになる。こうして建造された当時の最も強力な軍艦は、三層の砲甲板を持ち、船体の大部分に渡って火砲を配置する結果となった。18世紀後半には砲100門以上を搭載し、長さ60m以上、排水量2500トン以上という大型の帆船が登場している。これが後述の戦列艦(Ships of the line)である。しかし、通商破壊や船団護衛のためならば、砲は少なくても、より高速で長期の航海に耐える艦が必要となる。それがフリーゲート艦(Frigate)である。そしてさらに砲の少ない小型艦はスループ艦(Sloop)と呼ばれていた。
また、英国艦は18世紀後半、カロン社の発明した大口径の短砲を搭載されていた。この砲はカロネード砲と呼ばれ、衝撃で炸裂する六十八ポンドの砲弾を撃ちだし、近距離ですさまじい殺傷力を有する。英国海軍お家芸の近接戦はこのカロネード砲によるものが大きい。

5.2武装帆船の等級(英国海軍を例にとって)
チャールズ1世の治世(1625〜49)から1850年代まで、英国の軍艦ではその戦闘力によって6つの等級にわけられていた。始めはトン当たりの収容人員の数を基準に等級を定めていたが、1677年以降は大砲一門あたりに必要な人員の数をもとにするように変わった。(何故このように変化したかは不明)大砲要員の数、つまり艦の等級は搭載する大砲の数と重量により等級分けされることとなり、これに準じて乗組員の数も決まった。こうして軍艦は「戦列艦百二十門搭載 − 号」とか、「 − 号三十六門」などと称するようになった。なお、18世紀後半から英国艦が搭載したカロン社の「カロネード砲」(キャロネード、コロネードとの訳もある)という大口径の短砲は公称の門数には入れなかった。余談ではあるが、この等級という言葉は初期にはその間の艦長の給与の等級を意味していたという説もあるようだ。 第一次栄英蘭戦争直前の1652年には人員による六つの等級があり、三百名以上が乗り込んでいる艦を一等級(四楼ガレオン)、二百名以上乗り込んでいる艦を二等級、百五十名以上のものを三等級、百名以上を四等級、五十名以上を五等級、それ以下を六等級と称していた。
 大砲の搭載門数によって等級が定められるようになってからは、七十四門以上の艦を戦列艦と称した。これが今日の軍艦の重巡洋艦以上の物に相当する。なお、16世紀ぐらいまでの英国戦列艦はガレオン型、17世紀前半ではシップ(ミズンマストがラテンセール)、それ以降ではフルリグドシップ型となる。またそれ以下、三十六門ぐらいまでのものをフリーゲート艦と称した。これは今日の軽巡洋艦や駆逐艦に相当するといえる。これは後の快速クリッパー型などに進化する快速性と武装とを両立させた艦で英米仏共通でフルリグドシップ型であった。(なお、仏のフルリグドシップはマストに緩やかな傾斜がついていた)そして三十二門から十八門ぐらいの艦をひっくるめてスループ艦と呼称していた。これにはシップ型、ブリッグ型、スクーナー型、ケッチ型など帆装によって数種類が存在した。スループ艦とは大砲搭載門数が少ない小型艦を指し示す総称だった。

5.3武装帆船のその後
 二世紀あまりにあわたる海上権の争奪の勝者はイギリス海軍であった。イギリス海軍は世界最強の艦隊を保有し、世界中の海にユニオン・ジャックの旗をひるがえしていたが、同海軍の優位を支えたものは優れた軍艦ばかりにあったわけではなく、卓越した指揮・操艦能力を持ち、見敵必勝の伝統の下で厳しい教育訓練を受けてきたすぐれた司令官、艦長の存在を忘れてはならない。なお、当時の軍艦と商船は明らかに分化されていたが、船体構造や帆装の上では大きな差違はなかった。戦列艦の下層砲甲板にあたる部分が船倉の一部となっていただけである。また、慢性的な戦争状態の継続と平時でも海賊が至る所に出没していたので、商船といえども武装をしているのが常で、上甲板に大砲を備えているものが多かった。


6.私掠船

イギリス、フランス、アメリカなどの17世紀初期の海洋進出後進国(当時の海洋進出先進国スペイン、オランダ、ポルトガルなど)は、その遅れを取り戻すためもあって、国ぐるみの海賊行為を働いていた。敵国商船拿捕免状を海賊船の船長らに与え、主にスペインの財宝船を襲わせていた。 そのいわば公認海賊船が、私掠船である。

1492年にコロンブスの第1回航海でイスパニオラ諸島が発見されて以来、大小無数の島々に囲まれたカリブ海は、はじめて歴史の表に登場する。
 まずスペインがカリブ海一帯の島々とその周辺の大陸部をほとんど独占の形で
領有し、イスパニオラ島の金の採掘に始まって、煙草の栽培、後には綿花、サトウキビの大々的な生産によって本国が富み、やがて世界にまたがる一大植民地帝国になったことは周知の事実である。
 ついで、ポルトガル、オランダが進出してきて、カリブ海周辺と南・北新大陸に植民地を獲得したが、英国はピューリタン革命(1642〜60)や毛織物を主とする対ヨーロッパ貿易の工場に好況に気を取られ、農業国フランスもまた国内問題に力を割かれてともに出遅れ、西インド諸島や新大陸への進出に拍車がかからなかった。
 それでも英国についてみれば、東インド会社の設立(1600)と繁栄に併行して
エリザベス一世の治世を境に16世紀末葉から、西インド諸島と新大陸の植民地獲得に乗り出してはいた。しかし、すでに大部分の島々や大陸部はスペインやその他の国に先取りされていたので、他国の植民地(あるいは植民都市)を武力で奪うか、残っている無人島に入植するしかなかった。免許状を与えられた私有船や海賊船に他国の植民地や貿易船を襲わせる。これがいわゆる私掠船の活動である。

当初は先進国との差を縮める目的で活動していた私掠船だが、17世紀後半頃にはその勢力図は大きく塗り変わり、周知の通りイギリス、フランスのような強大な海洋国家を作るにいたり、その私掠船の目的も当初とは異なったものへと変わっていく。それ敵国への牽制活動である。1778年、フランスはアメリカの独立を承認し、アメリカとの同盟を結ぶ。これによりフランスは対英戦争へと突入するのだが、海の上では1778年以前よりイギリスとの戦争は始まっていたのである。先程も述べたとおり、フランスはアメリカ独立が確実視された1778年、対英戦争に踏み切る。だが、周知の通りフランスはアメリカ独立を当初より軍需品等を提供することにより支援していた。
 これらの支援活動のほとんどは私掠船によるものなのである。イギリスの補給船団を攻撃・拿捕したりしていたフランスの私掠船の活躍はめざましく、1778年の時点では護衛船のない補給船に目標到達の望みはないとまで言われていた。現在の観念で言えば明らかなる敵対行動ではあるが、私掠船という立場を利用し、戦争突入前より巧みに牽制活動を行っていたわけである。
 また、1779年にアメリカとの同盟を結んだスペインは以後、私掠船による英国補給船団の攻撃が行っていたとの記述がある。このことから、17世紀後半の私掠船は表だった敵対行動をとりたくない場合に利用された間接攻撃・牽制の手段であったといえる。
 一般に私掠船は軍船と異なり、敵国商船拿捕以外の目的を持つことがなく、
船団・指令等に束縛されない自由な行動が可能であり、十分な補給を受けて強力な装備を有していることが多かった。これは正規海軍よりも規模的な理由で維持することが比較的容易であったことがあげられる。
  いくつか凡例をあげてみることにする。フランスでは対英戦争突入以前は大規模な正規海軍船団は活動を行っておらず、いくつかの小規模な船団が活動していただけにすぎない。フランスは来るべき対英戦争に備え、軍備を着々と整える一方で、私掠船を使ってイギリスに牽制をしていたわけである。実際に船団を運用するより、単に軍備を整える方が損耗等の面で容易であるのは自明の理である。よって私掠船にたいし満足な補給をすることが可能だったと推測される。
 一方アメリカでは大規模な正規海軍を組織する余裕もなく独立戦争に突入した。
つまり、独立戦争頃のアメリカは満足な数の船舶をそろえることができなかったため、私掠船という小規模な海上戦力を使ってイギリスに対抗していた。(事実、
アメリカ対イギリスの、大規模な海上による戦闘の記録はほとんど残されていない。)つまりアメリカは量より質という考えのもと、海上戦力として私掠船を保持していたことになる。
 これらのことからも、私掠船が軍船に比べて満足のいく補給を受け、強力な装備を有することのできたことが容易に推察することができる。私掠船はこれからも歴史の表にでてくることはなかろうが、その功績はしっかりと刻まれているのである。

6.1日本と英国の政策
有名なフランシス・ドレイクは私掠船の活動と世界周航との功績によりサーに叙されて国民的英雄になったし、カリブ海の海賊、いわゆるバッカニアの代表たるヘンリー・モーガンなどは、サーの称号と、ジャマイカ島副総督の地位とを与えられている。代々の国王と貴族、それに富祐な商人は出資者として後押しした。国ぐるみの海賊株式会社だったわけである。それに対し、わが日本では八幡船という稚拙な帆船を用い、中国から東南アジアまで乗りだし、「和寇」と呼ばれ明国の存在を脅かすこともあったが、明国の気息をうかがい、幕府の財政難救済という利己的な動機から、足利幕府は対明貿易の許諾と交換条件に、和寇を根絶やしにしてしまった。北欧各国とは大きく異なり、対照的である。


7.私掠船の戦闘
 前述したとおり、私掠船は敵国の商船を拿捕することを目的としている。当時の火砲は余程圧倒的でない限り(スクーナー対戦列艦など)沈ませられるようなことはまず無かった。船体自体が木造であるという点はもとより、火砲自体に船体を撃沈するだけの威力はなく、乗組員を殺傷し、マストを撃ち倒し、艤装品を損壊させるのがせいぜいだったのが原因である。だから、勝利を得るためにはより多くの砲弾を命中させ、乗組員を殺傷し、マストを撃ち倒し、索具を切断して相手船の戦闘力を運動力を奪って行動不能に陥れ、乗組員の戦意を失わせるという目的で使用されていたのである。だからこそ、「拿捕」が可能だったのである。

7.1セオリー
 私掠船の多くは目的の商船に近づくまで同じ国の旗、あるいは同盟国の旗を掲げておき、相手の不意を突いた。穏やかなところでは私掠船であることを隠しておいて風上の優位な位置を占めてしまい、その後正体を現して相手船を風下の海岸や岩礁に追いつめたり(操船余地を無くす)こちらの帆で風を遮って相手のスピードを落とし、操船の自由を奪って相手を降伏させたりした。また、強力な火砲を持っていた私掠船は火砲の有効射程に入ったところで旗を翻し、チェインショットなどと呼ばれる砲弾同士を鎖で繋いだ砲弾を用いて、仰角をつけて撃つことにより相手船のマスト、及び索具を引き裂き、相手船を行動不能に陥らせるといったこともした。また、そのまま接舷してしまい、葡萄弾と呼ばれる散弾などを利用して主要な乗組員を殺害してしまうこともままあったようだ。 少し変わり種としては逃げまどう商船を追いかける私掠船(実際には両方とも私掠船)をおい払おうとして相手を割って入り込んできたところを二隻の私掠船が袋だたきにするといったものもあったようだ。 いずれにせよ、私掠船のセオリーは「だまし討ち」であったようだ。

8.軍艦の戦闘
 軍艦がいくつかの等級によって分けられていることはすでに前述した。武装帆船はその装帆によってその用途が異なっており、種々雑多な装帆・大きさの帆船が集まって船団という行動単位を形成する。戦列艦は実際の戦闘時の要であり、ある程度まとまった単位の数で行動する。その戦列艦をとりまくのがフリーゲート艦、そしてスループ艦である。スループ艦の多くは他船団との連絡、または郵便船として用いられた。フリーゲート艦は船団の目となって行く先の前哨をつとめ、あるいは敵船団のスループ艦を攻撃・拿捕したりした。その割合は戦列艦3に対してスループ艦2、フリーゲート艦が1であった。
但し、これは船団として計算した場合の割合で、全艦隊としての構成比は圧倒的にスループ艦が多いということを述べておく。

8.1拿捕賞金
 プライズマネーと呼ばれる拿捕賞金は一種のボーナスで、敵国船、ないし商船を拿捕した場合に海軍より支給される賞金である。プライズマネーの取り分は艦長50%、士官連25%、水兵25%が基準で、圧倒的に艦長の取り分が多かったという。



10.考察
 20世紀において、帆船は軍艦や客船はもとより、一般の貨物船や漁船の世界でも落ちた存在であった。しかしながら、第二次世界大戦までは帆船、とくに大型航洋型帆船が生き残ることの出来る二つの部門が存在していた。それは海員養成のための練習船と、急速に少なくなりつつあったが、鉱石や穀物のバラ積み貨物の輸送にあたる不定期貨物船の世界であった。いずれの場合にも、入出港時や無風時に備えての補助機関を備えるのが一般的な傾向である。また、船型(装帆)からみれば、フルリグドシップ型の発展系であるクリッパー型の発展型となるものが多い。
 練習船に帆船が用いられるのはシーマンシップの育成に伝統ある帆船上の教育訓練が有効であるとの理由による。海という大自然を相手にして働く海員の卵たちに、自然の偉大な力を教え、規則正しい生活と緊密なチームワーク精神を身につけさせるには、確かに帆船は適切な教育の場であり、このことが多くの海事関係者に支持されていることは明らかである。しかしながら、自動化の著しい現在の艦船乗組員の養成に帆装訓練教育などはアナクロニズムであるという声も高く、国や関係機関及び関係者個人によってもかなり考え方に差があるようである。客観的に見れば、帆船でない練習船が現在では過半数を占めているので、帆船のこの任務も先細りであることは疑いもなく、現在就役中の練習船の老齢化と共に次第に消えて行くのではなかろうか。
 不定期貨物船の脱落はもっと急速で、第一次世界大戦を境に、係船、廃船となるのが続出したようだ。ディーゼル機関の信頼性が向上し、船内機器の自動化の進んだ現在では、操帆作業の省力化を図ったといっても、たとえ燃料が不要であろうとも帆船の運航は経済的には成り立たなかったと考えられる。
 しかし、第二次世界大戦後、帆船はスポーツやレジャーとして世界的に大きな地位を占めるようになった。現在でもこの目的でケッチやスクーナーといった小型の帆船の建造は盛んに行われているし、ヨット人口の増加は先進国では一般的な現象とすら言える。
 一方、帆船の歴史的・文化的価値が高まるにつれて、その復元と保存が公共資金や多数の有志の資金を集めて積極的に処されてきた。有名、無名、様々な帆船が現在係留され、あるいは陸上に固定されている。帆船の技術的、及び存在的な価値については今後も興味つきない問題であるに違いない。


  謝辞

 本論文執筆にあたり多大なる御指導を頂いた伴先生、ならびに情報提供をしてくださった小野君に心から感謝致します。


  参考文献

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4)Cecil Scott Forestr :Fling Colous,1953.  高橋 泰邦訳『勇者の帰還』,早川書房,昭和50年.
5)Cecil Scott Forestr :LORD HORNBLOWER,1953.  高橋 泰邦訳『セーヌ沖の反乱』,早川書房,(1977).
6)Alexander Kent:FROM LINE OF BATLE!,1969. 高橋 泰邦訳『激闘、リオン湾』,早川書房,(1987).
7)Alexander Kent:MIDSHIPMAN BOLITHO AND THE `AVENGER,1978. 高橋 泰邦訳『コーンウオールの若獅子』,早川書房,(1983).
8)Patrick O'brian:Master and Commander,1970.  高橋 泰邦訳『激闘!地中海』,徳間書店,(1993).
10)木原 章夫:『白鳥達がやってくる』(昭和58) 
11)野間 省一:『世界の大帆船』(1976)
12)角川 和夫:『世界の船1975年度版』(1975)



  著者紹介
しりあ:埼玉県出身.埼玉県立某高等学校普通科卒業後,
    平成6年4月某所・情報処理科入学.
    平成8年3月情報処理科卒業後,
    同年4月総合科学研究科へ進学.
    マルチメディア通信ゼミにてローカルBBSの運営
    について研究を行っていたらしい。





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