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程度副詞をめぐって

                        工 藤  浩

      は じ め に
    1)ことがら成分としての諸性格
    2)ことがら成分らしからぬ特性
      お わ り に


は じ め に

 一般に程度副詞と呼びならわされている語群は、品詞体系の中での位置づけに関して、二つの大きく異なる取り扱いを受けている。一つの立場は、ことがら(属性)的か陳述的かという基準を重視する立場で、程度副詞は情態副詞とともにことがら的なものとされ、陳述副詞とは大別される。山田孝雄をはじめ、時枝誠記、鈴木重幸らがここに属する。学校文法等のいわゆる通説もこの流れの中にあると見てよいだろう。
 もう一つの扱い方は、程度副詞を陳述副詞および時の副詞と一括して「副詞」として扱い、情態副詞の大部分を用言の一類として別扱いするものである。ここにはまず、「叙述性」の有無によって分類する松下大三郎が属する。そのほか、規定のしかたはそれぞれかなり異なり、一括するのは乱暴なのだが、森重敏、川端善明、渡辺実らも、分類結果の外延のみで言えば、山田よりもこの松下に近い。森重敏は、程度・陳述・時の副詞を、応答詞の分化として系列づけられる「第二機構」の末端に位置する「程度量副詞」として一括し、「第一機構」に属する情態副詞とは区別する。川端善明は、「後続する句の全態【の形相面】に関与するもの」を副詞とする立場から、「情態副詞を形容詞に編入し、陳述・程度の二副詞を同等の位置に考え、ともに述語の様相の層に打ち合う副詞とする」。渡辺実は、統叙以外の関係構成的職能をただ一つ託される副詞類に程度・陳述の両副詞を入れ、情態副詞は関係構成的職能を託されない体言類に入れる。
 これらの中で、最も鋭い対立をなすのは、山田と川端であろう。山田が、程度副詞を語の属性にのみ関与するもので陳述には全く関わらないとするのに対し、川端は、程度副詞を「述語の様相の層───ただし、形容詞文の、したがって様態の層と未分化的なものとしての様相の層に打ち合う」ものとするのである。
 以上のような、いわゆる程度副詞の位置づけ方に関する、外見上の大きな異なりは、学説の多くが、「厳密なる二分法」に従って品詞分類を行おうとして、程度副詞と呼ばれる語群のもつさまざまな性格の中の一つを───もちろん、本質的だと見なした一つをだが───とくに取り立てた結果ではないかと思われる。つまり、これは、いわゆる程度副詞の性格の複雑さ、あいまいさ、あるいは中間的・二面的な性格のあらわれなのではないか、と思われるのである。本稿で、程度副詞を調べてみようとしたゆえんである。
 なお、こうした性質上、本稿で引用・参照すべき先行文献はかなり多いのであるが、ただでさえ細部にわたる煩瑣な議論であるゆえに、いちいち引用し異同を明記する手間をはぶかせてもらう。恩恵をうけた文献は末尾に一括しておく。

1)ことがら成分としての諸性格

1-1 通説としてはぼ安定しているかに見える程度副詞の規定は、 <(相対的な)状態性の意味をもつ語にかかって、その程度を限定する副詞> というものだろう(「相対的な」という限定をカッコにくくって付けた理由は後にふれる)。共起関係の指定が「相対的な状態性の意味をもつ語」というような意味的なものになっているのは、
   非常に大きい/大変静かだ/かなりゆっくり歩く/ずいぶん疲れた/ずっと
等々、組み合わさる相手が、品詞としてはいろいろなものにまたがるからである。しかし程度副詞が単なる意味分類ではない文法的な品詞類の一として認められているのは、主として動詞と組み合わさる情態副詞に対して、程度副詞が <種々の形容詞(いわゆる形容動詞を含めて言う)と組み合わさるのを基本とする> という形式−文法的特徴をもつからだと思われる。本稿も、以上の通説に従うところから出発する。
 以上の規定から、ほぼ疑いなく程度副詞とされる代表的なものは、次のようなものだろう。
   非常に 大変(に) はなはだ ごく すこぶる 極めて 至って とても /
   大分 随分 相当 大層 かなり よほど / わりあい わりに けっこう
   なかなか 比較的 / すこし ちょっと 少々 多少 心持ち やや
  〔以下、他のモノゴトとの比較性のつよいもの〕
   もっとも いちばん / もっと ずっと 一層 一段と ひときわ /
   はるかに よけい(に) / より
 以下、他の副詞との関係など、周辺的な問題をひとわたり見ておくことにしよう。

1-2 程度の概念に近いものとしては、(数)量の概念があり、語としては、
 量 副 詞──たくさん いっぱい 残らず たっぷり どっさり ふんだんに
 概括量副詞──ほとんど はぼ だいたい おおむね おおよそ
 数量 名詞──全部 全員 大部分 あらかた 半分 少数 / 二つ 三人 四個 /
        すべて みんな
等々がある。このうち量副詞はまず、形容詞と組み合わさらない点で、程度副詞と区別しうる。全量および概括量のものは、「庭の花は 全部/すべて/大部分 赤い」の如く、主語と同格に立ってその数量を限定する場合に、形容詞と共起しうるが、同時に「出席者は 全部/すべて/大部分 男性である」の如く、名詞述語とも共起しうる点で、程度副詞と区別しうるだろう。また「二つ多い/三センチ長い/四グラム重い」など数詞が形容詞と共起するのは量形容詞に限られる点で程度副詞と異なる。
 しかしながら、程度とは状態の量だという面もあり、両者の交渉は当然ある。じっさい程度副詞の中には、「ごはんを___食べた」のような量副詞の用法に立つものが、
   すこし ちょっと 多少 少々 / かなり 大分 随分 / もっと
など、少なからず存在する。逆に、量を表すものの中でも、「ほとんど・ほぼ・大体」など概括量の副詞は、「正しい・等しい・満員だ・同時だ」のような非相対的な形容詞と共起し、意味的にもその非相対的な(点的な)状態への近づきの程度を表す。これに対して、一般の程度副詞は「等しい・満員だ」など相対性を(通常は)もたない形容詞とは共起しにくく、相対的な(線的な)形容詞と組み合わさるのであり、両者はほぼ相補的な分布を示す。図式化すれは、

    非常に・すこし ━━ 美しい・大きい・うれしい
            \
              確実だ・新しい
            /
    ほとんど・ほぼ ━━ 等しい・満員だ

この用法の「ほとんど・ほぼ」などを極限的な程度を表す特殊な程度副詞とみなすことも可能だろう。その場合は更に、「まるで・あたかも・ちようど・いかにも・さも」など、比況と呼応する副詞とされているものも、似かよいの程度を極限的に限定する特殊な程度副詞とみなすことになるだろう。「ほとんど罪人のような扱い」「少々馬のような顔」「非常に学生らしい態度」などとの関連の中に位置づけられそうだからである。一つの可能性として記しておく。

1-3 程度副詞は基本的に、静的な状態に関わるもので、動詞の表す運動性には関わらないとされている。「とてもゆっくり歩いている」のような動詞文に用いられた場合も、「ゆっくり」という状態にのみ関係し、「歩いている」という運動には関係しない、と考えられている。だが、
    一層  一段と / もっと  ずっと / はるかに  よけい
のような、他の物事と比較する性格のつよい程度副詞は、
   Aの方がBより___大きい。
といった文型(比較構文)に用いられる一方で、他の時点の状態との比較を表して、
   前より___大きくなる/冷える/離れる
のような状態変化の動詞(句)と組み合わさることが多い(「たいぶ」という語も、なぜかこの用法が目立つ)。
「ますます・いよいよ」などになると、ほとんどこの用法に立ち、「だんだん・しだいに・徐々に」といった変化の速度を表す副詞にきわめて近い。ただ、後者が「しだいに大きい」とはけっして言えないのに対し、前者は、少数ながら
   学校へもどって行っても、彼の坐るべき机はないのだ。しかも学年の途中からでは、
   ますます割り込むことは困難だ。(人間の壁)
   これはますます手厳しい。(シナリオ華麗なる一族)
   いよいよ怪しからんことです。(自由学校)
のような用法をもつ。この点で区別しようと思えばできなくもないだろう。

1-4 ところで、状態の程度を限定するという意味的な面と、形容詞と組み合わさるという形式的な面とは、必ずしも一対一に対応する関係にはない。
   よく似ている / つよく心ひかれる / ふかく感動した / こよなく愛する
などは、意味的には状態の程度を表していると言えるが、これらは形容詞とは組み合わさらない。逆に
   白髪のひょろひょろと背の高い老紳士がノックして入って来た。(火の鳥)
   跳び乗つて腰かけると、尻の肉がジインと痛かつた。(多情仏心)
   林の蔭で兵士達の顔はのつぺりと暗かつた。(野火)
   それはどつしりと重く、雑嚢の底に横はつてゐた。(野火)
   こんなに鮮やかに濃くて、なごやかな色の霞が、………〈略> (帰郷)
   鴎の啼声が声だけしてゐた。──さわやかに、寒かつた。(蟹工船)
   その眼の下にただ一つ、鈍く白い完全な円の中に、洞のやうに黒く凹んだ
    また完全な円。鋼鉄の円。銃口であつた。(野火)
などは、中止用法に近い面もあるが、形容詞をなんらか限定している面も見のがせない。これらは、「花のように美しい/スッポンみたいにしつこい」といった比喩表現とともに、具象性がつよく、したがって程度性をも内に含んではいるのだが、程度副詞とは言いにくい。形容詞を修飾する特珠な情態副詞(副詞形・副詞句)を認めなくてはならないと思われる。
 だが、「スッポンみたいにしつこい」「夢のようにはかない」のような陳腐で慣用句性の高い比喩ほど、程度性の意味が前面に出やすいと言えそうだし、また、「どっしりと重い」より「ずっしり重い」の方が程度性があらわで、更に「グッと重い・うんと重い」になれば程度副詞と呼びたくなりそうだ。
 他方、「政治家・紳士」のような基本的には名詞であるものが、
  あいつも相当政治家だな。
  あのかたはとても紳士です。
の如く程度副詞と組み合わさる中で、臨時的とはいえ、性質状態の面が表面化し、いわば形容詞化するという現象もある(ただし、この形容詞化の第一歩は、名詞が述語として、つまり暗喩として用いられることにあり、程度副詞はそれをより明確化するものなのであろうが)。このように、程度限定という意味と、形容詞との組み合わせという形式との間の、基本的な対応は疑うべきではないのだろう。

1-5 人称代名詞などとともに「水準転移」(佐久間鼎)のはげしい程度表現には、斬新で効果的な表現が求められ、
  ものすごく賑やかな街 / すばらしく大きな椿
  異様に大きな目    / 猛烈にさみしそうな顔
  ばかげて太い柱    / とびぬけて速い人
  断然安い       / ぐんとイキな恰好
等々、用言の副詞形や他の副詞などが、形容詞と組み合わさってその程度を限定する用法に立つ。これらをただちに程度副詞と呼ぶことはできないであろうが、また、こうした段階をへてほぼ程度副詞に移行しおえたと思われるものに「すごく ひどく / 非常に 大変(に)/ 極めて 至って」などがあるわけで、これらの類も、程度副詞の周辺的・過渡的なものとして、注意しておく必要はあるだろう。
 以下、暫定的な類別をして、例をならべておく。

a 程度量性の形容詞から
   児童の教育は無限に複雑だ / 限りなく愛しいもの / 高度に精密なもの /
   過度に自主性に富んでいる / 極度に緊張している
b 目立ち性(主として動詞から)
   成績がずば抜けてよい / 色が際立って濃い / 並外れて体が大きい /
   とび抜けて強い / 目立って多い / かけ離れて低すぎる水準 /
   群を抜いて際だっている / とびきり上等な品 / 人一倍よく働く
c とりたて性 比較性のもの
   とくに難しい問題 / 岬のあたりは殊に明るい / 取り分け困難だ /
   特別に親密な仲 / 格段に大人だ / 殊の外元気だ /
   何よりも大きな影響 / 何にも増して大きな喜び / この上なく面白い /
   かつてなくひどい飢饉 / これまでになく自由だ / 例年になく暖かい正月 /
   たぐいなく美しい / 比類なく見事な出来
d 異常さ 評価的
   いやに静かだ / ばかに重い荷物 / やけに弱気だね / やたらに多い /
   耳のむやみに長いロバ / 異常になまめかしい女 / 法外に高い /
   ベラボウに高い / 底抜けに愚かな女 / 今日はめっぽう寒い /
   一方の肩が不自然に高い / 極端に利己的な性格 / 度はずれに昂っている /
   途方もなく大きい / 途轍もなくバカでかい / たとへやうもなく美味かつた /
   なんとも(いえず)かわいい / 世にも(なく)恐ろしい光景
e 感情形容詞から
   恐ろしく顔の広い女 / たまらなく愉快だった /
   堪へ難く暑い / 怖るべく強い相手
f 真実味 実感性
   ほんとに他愛ない人 / まことに不思議な作用 / 実に烈しい生涯 /
   全く困った子だ / 心底うれしい / 無性に独りになりたい /
   痛切に悲しい / 身にしみてうれしい
g 予想や評判との異同
   津川さんて案外図太いのね。 / 時間は意外に早く経った。 /
   小路は存外静かであった。 / 女は想いの外若かった。 /
   交渉は予想外にこじれて長びいた。 / さすがに見事な体をしている。
h その他
   返すがへすも残念だ / それはひどいけがでした / どこまでもあつかましい女

以上のように、「無限に・とびぬけて」のようなより客観的で状態性の濃いものから、「おそろしく・まことに・意外に」のようなより主観的で評価性の濃いものまで、さまざまなものがある。前者に関しては 1-4 でふれるところがあった。ここでは、後者について考えてみることにする。fの「ほんとに・実に」や gの「案外・意外に」などは、
   遠慮でも虚飾でもないらしく、ほんとに自分の行為を無価値に考えてい
    る様子だつた。(自由学校)
   実にそれは、自分で自分を燐むといふ心から出た生命の汗であつたのである。(破戒)
   すぐ元気よく跳ね起きると思つたのが、案外、そのままベッたり腹ン匍に
    なつたきりなので、<略> (多情仏心)
   内玄関に出てみると、意外に春三が土間に立つてゐた。(本日休診)
の如く、多くの場合に文頭(句頭)に位置して、後続のことがら内容全体に対する真偽や予想との異同といった話し手の評価・コメントを表す用法ももつものである。それが先にもふれたように、形容詞と組み合わさり、とくにその直前に位置する場合、程度性の意味をもたされることが多いようである。もちろん、この構文的な位置は絶対的な条件であるわけではない。「さいわい・あいにく」のようなことがら評価の副詞は、形容詞の直前に位置しても程度性はもたないし、予想との異同を表すものでも「かえって」や「案の定」は程度性をもたない。そして、その間に、
   「お前達、みんな脱走兵だぞ」と思ひ掛けなく大きな声で病人がいった。(野火)
のように、「大きな声で病人がいった」コトが思い掛けないのか、「大きな」サマが思い掛けない(ほどな)のか、判定にまようような例が、両者の交渉を物語るものとして、ある。
 先の四語の場合は、「実に」のことがら評価の用法は現代ではすたれつつあり、程度副詞に定着しつつある。「意外に(も)」も、ことがら評価用法には「意外にも」の形、程度用法には「意外に」の形というふうに分化しつつある。「案外」も、ことがら評価には「案外なことに」の形が多く、単独では「案外〜かもしれない」のような叙法副詞用法と、「案外おもしろい」のような程度副詞用法とを分化させつつあるようである。「ほんとに」は多義語として分化していると言っていいだろうか。
 このように、コトに対する評価副詞と、サマについての程度副詞とは、形態的にも分化しつつあるのだが、それと同時に、両者は"サマに対する評価"を媒介として交渉し隣接する関係にあるのだと考えられる。
 以上、第一節では、程度副詞とその周辺の中に、「すこし・うんと」のような(数)量性の濃いものから、「ひどく・おそろしく」「けっこう・意外に」のような評価性の濃いものまであることを見てきた。

2)ことがら成分らしからぬ特性

2-1 前節では、程度副詞の形式的な特徴として、形容詞と組み合わさるという点だけを見てきたのだが、それだけではないことは、すでによく知られていることである。
 まず、「すこし・ちょっと・多少・少々」「いくらか・いささか」のような数量名詞性をもつものが例外となるのだが、その他の程度副詞は、
 イ とりたて助詞「は・も」などを下接しない。
 ロ「だ・です」を伴って述語に立つこともない。
  (「あんまりだ」「随分な人」などは形容詞に転化したものとして別扱い)
 ハ 修飾語を受けえない。(cf. ほんのすこし、もうちょっと)
という特徴をもつ。これは、「は」でとりたてたり、主語の属性を規定したり、他の語によって限定されたりするだけの実質的な概念性がないためである。程度副詞は、程度性の面で文のことがら的内容を豊かにする成分ではあるのだが、その中では最も抽象的で、ことがら成分のいわば最も外側に位置するものなのだと思われる。この三つの特徴は、陳述副詞と共通する特徴であり、情態副詞とは異なる特徴である。(参照:渡辺実)

2-2 程度副詞は一般に、
   *きょうは相当さむくない。
   *この本は大分おもしろくない。
   *この電球はすこし明るくない。
   *このひもは非常に長くない。
などと、否定形式とともに用いることは通常ない。このような場合は、
  きようはさほどさむくない。
  この本はたいしておもしろくない。
  この電球はあまり明るくない。
  このひもはちっとも長くない。
などと言うのがふつうだ。つまり、ふつう否定と呼応する副詞とされているものの中に、
    ちっとも  すこしも  たいして  さして  さほど  一向
    あまり  全然  そんなに
のような、状態の程度を限定する程度副詞の性質を兼ねそなえたものがあり、それらとの対立・張り合い関係の中で、いわゆる程度副詞は肯定文脈に傾向するのだと、まずは考えられる。
 ただ、いわゆる程度副詞が否定文脈に用いにくいと言うためには、いくつかの留保や類別が、否定の側にも副詞の側にも必要である。(比較:原田1982)
 まず、1-3 でふれた「一層・ますます」など状態変化の程度を表すものは、
    一層眠ることが出来なくなった。
    ますます私には分らなくなり出した。
のように「-なくなる」と共起することがあるが、一応別扱いする。また「よほど」をはじめ「相当・もっと」などは、
    よほど/相当/もっと 気をつけないといずれひどい日に合うよ。
のように、否定条件の形と比較的よく共起する。これも別扱いとし、話を否定の終止・連体・中止の用法に限ることにする。
 さて、「否定」の形とはいっても
   いちばんいけない子/非常にくだらない論文
をはじめ、「足りない つまらない 気にくわない / 申し訳ない ふがいない 心もとない 気のない(返事)」のようなものは、ここでいう否定形式ではない。これらは、全体で一語の形容詞に熟したものであり、「ちっとも・たいして」等の否定形を要求するものと共起しえなくなっている。これらには大抵の程度副詞が組み合わさるだろう。つぎに、
   もっと分からないこと / すこし張り合いがない
をはじめ、「好かない 落着かない 目立たない 気にいらない 要領をえない (話が)かみあわない  解せない 馬鹿にならない / 余裕がない 抑揚のない(声)/ 気のりがしない」のようなものは、「ちっとも・たいして」等と共起しうるだけの否定性はもっている。だが同時に、先のものほど熟してはいないにしても、全体で一語の複合形容詞性をももつようで、これらにも「もっと  すこし  いちばん  非常に」などをはじめ、少なからぬ程度副詞が共起しうるように思われる。また、
    はなはだ───よくない  よろしくない  おもしろくない
    きわめて───好ましくない
    まことに───はかばかしくなかった
のような評価形容詞の否定形と組み合わさる例も目につくが、これも「悪い・くだらない」等のあからさまなマイナス評価をはばかる婉曲表現として、複合形容詞性をもちやすいのだろう。
  ところで、以上を通じて「はなはだ」という語が目立って多く、否定形とともに  用いられている。が、これは「はなはだ」自身のもつ否定的評価に傾向した語義  のためと見られ、「悪くない」とか、評価的に無色の「小さくない・短くない」  などとは、ふつうには共起しないと思われる。
 さて、以上のような留保をつけてもなお、
(a)  実行者が求も強いのは、最も批判的でない時でせう。(真知子)
   最も人間臭くない因果律という真理も、悟性という人間条件に固執する
    からあるのである。(私の人生観)
   この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、
    つまり戦争をさせようとしてゐるらしい。(野火)
   そして、一番眼に見えないところ、案外にだれからも忘れられたところ
    で、もう一つの変化がおこっていた。(人間の壁)
   あのとき一番悪くない私が二人から殴られなかつたなら、事件はまだまだ
    続いてゐたにちがひないのだ。(機械)
(b)  戦争といふものは派手に戦闘をする部隊以外に、その蔭にあつて実に願著な功績
    を示しながら、割合認められず苦労して居る部隊がある。(麦と兵隊)
   「今はたいしたもんだらう」「割合にさうでもない事よ。」(つゆのあとさき)
   はつきりしてゐた筈のことも、案外つかめてゐないことをも感じた。(生活の探求)
   吉沢からあれほど罵倒されても、案外そのことを自分で理解していないのだった。(人間の壁)
のような例が見られる。このうち、(b)「割合(に)」「案外」の例は、比較性や意外性の原義が強く、程度限定性は表面だってはいないようにも思える(これらの語は肯定の形容詞と組み合わさった場合には、比較的明瞭に程度性が感じられるのであり、否定形と組み合わさると程度性が感じられにくくなるのだとすれば、程度性と肯定との問に相関性があることをしめしているのであろうか)。そうだとすると、否定文脈に比較的自由に現れる、いわば例外的なものは、(a)「もっとも・いちばん」という最上級を表すものだけだということになる。
 さて、このようにして、多くの程度副詞は純然たる否定形式とは共起しないと言えそうである。また、否定形式と共起した場合も、
    きわめて〔好ましくない〕  /  最も〔欲しない〕
の如く、否定状態自体と関係する点で、
    〔ゆっくり歩か〕ない    / 〔きれいに咲か〕ない
の如く、情態副詞や形容詞副詞形が否定の作用域の内部に収まるのと性格を異にする。つまり、情態副詞が肯定否定の「みとめ方」以前の述語層に関係するのに対し、程度副詞は述語のみとめ方の層──ただしその対象的側面──に関係する副詞だということになる。これは、先にふれた否定系の「たいして」等も含めて、広義の程度副詞を設定するとしても、基本的に同じことが言える。
 ちなみに、「たぶん〜スル/シナイだろう」「もし〜スレ/シナケレば」の如き叙法副詞は、みとめ方以後の述語層に関係する副詞である。なお、「けっして」は否定の作用的側面に関係する点で「たいして」等と同一視するわけにはいかないだろう。
   たいして | おもしろくない話   cf.けっして | おもしろくない話
   ?けっして |                 | おもしろいとは言えない

   きっと | たいして | おもしろくないだろう。
       |?けっして |
「けっして」はクローズ性の弱い連体句に収まりにくいし、また叙法副詞「きっと」と共存するには、重複の感が強すぎるだろう。「けっして」は「たいして」等よりは「まさか・よもや」の方に近いのである。

2-3 程度副詞の多くは、
     ?非常にはやく走りなさい。
     *たいぶたくさん作ってください。
     *とてもゆっくり歩きませんか。
     *なかなかじょうずに書こう。
のように、命令・依頼・勧誘・決意(意志)など、聞き手や話し手自らにむかって、ことがらの実現を"はたらきかける"叙法とは共起しないか、しにくいようである。もちろん、程度副詞のすべてがそうなのではない。
   もっと正直に言ってみたまえ。(人間の壁)
   こう良人を、何とかして理解し、何とかしてもっと好きになろうと、努力もしてみたつもりだった。(人間の壁)
   すみませんが、もう少し後にして頂けないでしょうか。(人間の壁)
   もう少しましなことを考えたらどう ?(シナリオ津軽じょんがら節)
のように、現状より程度量が増加することを表しうる「もっと・もうすこし」は、かなりひんぱんに、この命令等の叙法とともに用いられる。また、
   参謀は最後に <中略> 一層、元気を出して邁進してくれるやうに、と附け加へた。(麦と兵隊)
   男は自分達の愛を一層純粋なものにしようと試みて、(略)(風立ちぬ)
   自ら意識し、努力して己れの世界を益々堅固にしようとすることは、<略>(生活の探求)
のように、「一層・ますます」も用いられるが、その使用量は意外に少ない(あるいは文体的な問題がからんでいるのかもしれない)。「すこし・ちょっと」は、モノや時間の量を表す場合には、「すこし食べろ/ちょっと待て」のように、問題なく言えるのだが、程度用法においては、
   少し急いでくれよ。(シナリオ日本沈没)
   君、少し自重しろよ。(自由学校)
など、文脈的に「もうすこし」の意に解しうるものが、少数見られるにとどまるようである。また「ずっと」も、「ずっと待ってろよ」のような時間量の場合のほかは、単独では、命令等の叙法と共起しにくいようだ。
    ?さっきよりずつと速く走れ。
    cf.もっとずっと速く走れ。
 なお、命令等の叙法の文には、このほか、
   先きに行つてゐるから成るべく早く来てくれ。(故旧忘れ得べき)
   出来るだけ頭を低くしてゐるやうに、西君と梅本君に云ひ置き〈略>(麦と兵隊)
のような「なるべく・できるだけ」が用いられ、程度限定性も認められる。だが、これらは、有情物の動作を表す動詞文にしか用いられず、また「なるべく/できるだけ、あしたは出席してください」のように状態の程度限定性をもたない用法にも立つ点で、基本的には「意志副詞」に属するものと思われる。これらの存在は逆に、命令等に用いられない程度副詞には〔非意志性〕という意味特徴があることを暗示しているだろう。
 ちなみに、2-2 でちょっと触れた、否定条件の形と共起しやすい「よほど」は、
   病気が病気だから、余程気をつけないと不可ません。(こころ)
   それをよほど考えておかなくてはいけないと私は思うわけです。(人間の壁)
の如く、当為の擬似叙法とは共起して用いられる。これには「相当・かなり」も使えそうだ。また「かなり急げ」は変でも、「かなり急いだ方がいい」は言えそうだ。その他、スルトイイ・シタイ・スルツモリダ等の擬似叙法と共起するものは、更に範囲が広がるだろう。程度副詞にとっても、述語の叙法−擬似叙法にとっても、興味ぶかい問題だが、資料整理が十分できていない今は、これ以上立ち入れない。話を"はたらきかけ"の基本叙法に限っておく。
 さて、以上見てきた「もっと・もうすこし・一層・ますます」と、量用法の「すこし・ちょっと/ずっと」、それに意志副詞の「なるべく・できるだけ」を除いてみると、その他の程度副詞は、命令・決意等のはたらきかけの叙法とは共起しないか、しにくいようである。「なかなか/けっこう/わりに 速く走れ」とは まず言わないだろうが、それにくらべれば、「非常に/かなり 速く走れ」は 許容度がやや高そうだし、更に「いちばん速く走れ」には不自然さを感じない人もいるかもしれない(いま「いちばん前に出ろ/いちばん後から来い」など体言修飾の例は別扱いとしての話)。このように、共起しにくさには、語によっていくつかの段階差があるだろうが、いまは、全体として共起しにくいものが多いと言うにとどめざるをえない。

2-4 ここには、調査途上でのおぼえがきとして、程度副詞にこうした叙法的共起制限があることの意味について、二三の考えを書きつけておくことにする。
 まず、「もっと」などが命令等と共起し、他の程度副詞が共起しにくい理由については、1-3 節で触れたように、「もっと」などがもともと動詞と共起しやすいものであるのに対し、他の程度副詞は、基本的に静的な形容詞(状態言)と関係するものであるからだ、という考え方がありうるだろう。しかし、これだけのことなら、被修飾語が副詞法に立って動詞文に用いられた場合、
   わりに| はやく | 走った。
   とても|     | *走れ。
のように、平叙文で言えて、命令文では言えないのはなぜか。また、量副詞的用法に立ち動詞と共起するものが、
   ごはんを、かなり | 食べた。
        相 当 | *食べろ。
   cf.ごはんを| たくさん | 食べた。
        | すこし  | 食べろ。
のように、平叙文で言えて命令文で言えないのはなぜか、説明できない(ちなみに「かなり・相当」等の量副詞的用法は、このように「すこし・もっと」にくらべて不徹底なものであることにも注意しておきたい)。つまり
  〔(とてもはやく)走〕 ル  ッタ
              *レ  *ロウ
のような「入子型」構造だけでは、これらの程度副詞の性格は解けないということである。
 したがって、これらの程度副詞を意味的に性格づけるとしても、単に静的な状態の程度性を表すというだけではなく、〔非意志性〕もしくは〔−自制的(久野)]という特徴をもつとすることになるだろう。もっとも、この非意志性などの意味特徴を程度副詞に付与しようとするのは、命令等の叙法と共起しないという文法特徴を意味論的に翻訳したにすぎないのかもしれない。少なくとも「つい・思わず」などが「非意志的」な意味ゆえに命令等と共起しないという場合と、同一には論じられないだろう。程度副詞には「わざととてもゆっくり歩いた」「わざわざ非常に大声で話した」などのように、「わざと、わざわざ」の「意志性」との共起はさまたげないものもあるようだから。意味的な性格づけは、個々の副詞の記述が先行しないと危険かもしれない。
 さて、このように、入子型構造におさまりきらず、単語間の属性意味的な面だけでは、つまり、文の陳述性をきりすてた連語論的な側面だけでは、程度副詞の性格がとらえきれないのだとすれば、次に考えておかなくてはならないことは、ここでもやはり、陳述的な成分との関係であろう。
 多くの程度副詞がもつ、命令等の叙法と共起しにくいという制限は、
     *つまり君が行け。  cf.つまり君が行くべきだ。
     *じつは僕が行こう。 cf.じつは僕が行くつもりだ。
など、文の種々の叙べたてかたを表す副詞は当然のこととして、
     *さいわい君が来てくれ。
     *あいにくあしたは出かけよう。
など、文のコトガラ内容全体に対する評価を表す副詞にも、共通して見られる制限である。更に
     *感心に(も)毎日新聞配達をしなさい。
     *親切にも道を教えてあげよう。  cf.親切に道を教えてあげよう。
など、ヒトのシゴトに対する評価を表すものや、
     *りんごをたった二つ買いなさい。
     *わずか三十分はやく起きよう。
など、カズに対する評価を表すものにも同様の制限がある(ただ「たった一人で来い」とは言えるが、ワズカという評価性はないだろう)。これら、なんらかの評価を表すものが命令等の叙法と共起しないのは、評価を下すためには、その対象が実現している(さいわい晴れた/ている)か、少なくとも実現が予定されている(さいわい晴れそうだ)必要があるからだと考えられる。
 先に1-5 節で見たように、程度副詞はその評価副詞と隣接するものであった。そして、コトに対する評価(意外にも)は、サマに対する評価(意外に)を媒介として、サマについての程度副詞に連続すると考えた。ところで命令等の叙法と共起しにくい程度副詞の中でも、とりわけ「なかなか・けっこう・わりあい」や「随分・はるかに・あまりに」など、サマに対する評価性がより濃いものほど、命令等と共起しにくいと言えそうに思われる。もしそう言えるとすれば、サマについての程度を表す副詞の多くが命令等の叙法と共起しにくいのは、その半面もしくは裏面としてもつサマに対する評価性のゆえだということになるだろう。
 最後にもう一言。以上の見方は、あくまでも程度副詞を基本的にはことがら成分に属するものだとする立場からのものである。ここで、見方を裏返しにしてみることはできないであろうか。つまり、いわゆる程度副詞は、基本的にはサマに対する評価副詞なのだと。そして、サマについての程度性は、多くの場合に持たされる二次的な特性なのだと、捉えなおしてみるのである。この立場では「かえって速い」や「妙におとなしい」「変に体がだるい」「不思議に楽しくなる」など、程度性のうすいものも、このサマ評価副詞に入れられることになる。逆に「すこし・ちょっと・もっと」などことがら的な量性がつよく、叙法制限もないものは、量副詞の方に本籍をうつすことになるだろう。
 いわゆる程度副詞を、評価性に重点をおいて捉えるか、程度性に重点をおいて捉えるか、それとも、いずれかにかたよるにしても、その両面をつねにもつものとして捉えるか──本稿では最後の立場をとっているわけだが──なお、よく考えてみなければならない。

お わ り に

 以上、枝葉にこだわって程度副詞の諸性格をゴタゴタと書きつらねてきた。最後に、思い切って話を図式化してみよう。「すこし・ちょっと」のような量性の濃いもの、「もっと・一層」のような累加性のもの、「いちばん・もっとも」のような最上級のもの──これらは使用頻度の高い基本的な語であって、一筋縄には性格が捉えにくいものでもあるのだが──これらを除いてみた程度副詞の大半は、ことがら的には形容詞(状態言)の程度を限定しつつ、陳述的には肯定の平叙の文に用いられるものである。肯定・平叙とは、つまりは陳述的に無標の、出発点的な形式である。川端善明が「程度副詞は形容詞文の、したがって様態の層と未分化的なものとしての様相の層に打ち合うのである」と言うのは、このことを指すのであろうか。
 川端の論述に共感するところは少なくなく、なお考えてみなければならない問題は多いのだが、基本的には、文をことがら的側面と陳述的側面とをもつものと見、その立場から語の類別を試みてきた本稿としては、一往つぎのような結論になるだろう。──いわゆる情態副詞(様子や量)がことがら的側面にかたより、いわゆる陳述副詞(叙法や評価)が陳述的側面にかたよる中にあって、程度副詞は、陳述的に肯定・平叙の叙法と関わって評価性をもちつつ、ことがら的には形容詞と組み合わさって程度限定性をもつ、という二重性格のものとして位置づけられる、と。

【参考文献】
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────1976「用言」(岩波講座『日本語6 文法J』)
北原保雄1981『日本語の文法』(『日本語の世界6』中央公論社)
久野 ススム1973『日本文法研究』(大修館)      #ススム=日+章
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鈴木重幸1972『日本語文法・形態論』(むぎ書房)
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竹内美智子1973「副詞とは何か」(『品詞別 日本文法講座5』明治書院)
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────1950『日本文法 口語篇』(岩波書店)
新川 忠1979「『副詞と動詞とのくみあわせ』試論」(『言語の研究』むぎ書房)
西尾寅弥1972『形容詞の意味・用法の記述的研究』(国語研報告44 秀英出版)
花井 裕1980「概略表現の程度副詞」(『日本語教育』42)
原田登美1982「否定との関係による副詞の四分類(『国語学』128)
松下大三郎1928『改撰標準日本文法』(中文館。1974年復刊 勉誠社)
森重 敏1958「程度量副詞の設定」(京都大『国語国文』27-2)
────1959『日本文法通論』(風間書房)
山田孝雄1908『日本文法論』(宝文館)
────1936『日本文法学概論』(宝文館)
渡辺 実1948「陳述副詞の機能」(京都大『国語国文』18-1)
────1957「品詞論の諸問題──副用語・付属語」(『日本文法講座』1 明治書院)
────1971『国語構文論』(塙書房)


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